禅堂白衣殿 Zazen chamber. 
武道やるなら坐禅もやろう

俺が禅を始めたのは小学生の時。屈辱的な大敗をして一生残る大怪我をし、勝負というのは体力でも技でも道具でもなく、度胸が大部分を決めるということ、しかも後天的には根本から上達しにくい分野だということを痛感して、本家の菩提寺の坐禅会に入りました。

その寺も、そのあとお世話になった別の寺も、たまたま曹洞宗だったために、俺の坐禅は曹洞宗のやり方です。じつは曹洞宗では、手段として坐禅をやったら坐禅にならない。これはどうしても宗派の違いの話になるので、興味ある人はこっちへどうぞ。

 

本職の方が読んだら笑われそうですが、禅に興味を持って実行する人が増えることを期待して、知ってる範囲で、武道やってる人向けに書きます。
しかし、このページは個人的な解釈なので、曹洞宗の公式見解ではありません。お寺に行って教えを受けたら、そこのやり方や考え方に従ってください。

精進料理の話は、長くなるので廃止しました。武道でも禅でも食事はものすごく重要ですけど、毒殺されない心得だけは西之丸に特集してあります。

 


仏罰ってのはあるもので、宗派を云々するページなんか作ったせいか、01年11月、うっかりファイルを消してしまいました(笑) 御好評だったので04年3月、再築しました。
このページは二之丸の呪術関係の隠しページのひとつでしたが、べつに特定宗派の悪口言ってるわけでもなし、考えてみれば隠す理由もないんで常設しときます。
ほかの分野の瞑想のことは各Gへどうぞ。

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直心影流大森曹玄先生の剣禅一如論。これは臨済禅で、表紙も武蔵先生ですけど。たまたま中古で買ったのが増補初版だった。
小理屈はいいから、機会があればこの著者の顔写真を見てください。圧倒的な強さだけでなく、少しユーモアもあるような、理想的な男の顔になっている。この御尊顔を拝見すれば、禅の効果は一目瞭然。

 

曹洞宗開祖が書いた、食事に関する名著。僧侶に限らず、誰が読んでも勉強になる。
誰だって面倒なしきたりなんかおぼえたくはないが、じつは合理的で最小限の動作だということがわかる。
僧侶になるわけじゃないんだから、その動作をやる意味、心使いだけ学べば充分です。

 

浄土真宗と曹洞宗の違いを、日本一の宗教評論家が解説した本。語り口が平易で話が面白いので、この人の著書はどれを読んでも損はない。
人間の力の限界をわきまえ、驕らず、御陰様と感謝して、すべてを阿弥陀様におまかせする真宗の考え方は、知れば知るほどかっこいいが、どちらかといえばキリスト教など一神教に近い印象を受ける。修行に駆けずり回ってる自分が滑稽な気もしてくるが…。
何宗だろうと一日体験坐禅くらいやってみては? 阿弥陀様だって、つっ立ってばっかりじゃないでしょう。

 

 

 理屈から入る人へ
どうして坐禅をやるのか、全然わからないという人は、まず、こっちへどうぞ。あんまり、こういう話はしたくないのですが。
達磨大師と武道のことはこっちに移転しました。

 寺での作法
よもや寺まで来て、携帯電話を鳴らしたりなんてことはないでしょう。まして武道やってる人だったら和室の常識も御存知だろうし、普段やってる武家作法で、まずは充分です。表面的な現象に気をとられると、心がおろそかになる。しきたりを「知っている」という驕りも、かえって現実の場で行動を出なくさせる。肝心なのは気持ち、その時その時。ほかの人の坐禅を邪魔しない気配りです。
ただし、その基準が、仏門では武門よりもはるかに高い。特に物音は、ほんの少しの音も絶対に許されない。用があっても、すいませーんとか一切言わないこと。たいていのことは全部、手を上げるなりアイコンタクトなりですませようと思えば、すませられるもんです。小声でもダメ。ヒソヒソ声は、それはそれで耳障りだから。禅寺ではすべて、鐘や板を叩く合図で行動します。坐禅の始まりと終わりは鐘が鳴ります。
当然きゅうくつですよ。だけど、寺の雰囲気、あの荘厳で静寂な空間で、みんなが心洗われる。クラシックを聴きに行くのと同じです。慣れれば苦痛でなくなる。苦痛でなくなれば、郷に入りては郷の作法があり、あるからには、やっぱり守ったほうが効率がいいとわかるから、そしたら、歩く時は叉手とか、振り返る時は右回りとか、和尚さんがおっしゃることをおぼえていけばいいんです。

 坐禅をする場所
さっきから座禅ではなく「坐禅」と書いてますが、伝統的に广はつけません。本来は屋根のない所でやるからだとか言いますが、あまり気にしなくていい。落ち着ける場所ならいいんです。ゆくゆくは、どんなにうるさい場所でもできるようになるのが理想。
寺では、自分に与えられる場所はものすごく狭いから、荷物は少なめに。
寺に行って、立派な師につくにこしたことはないけれども、自宅でも全然かまわない。大切なのは行動であり、座ることです。今すぐやりましょう、パソコンの前で。
これは略式なのではありません。とんでもない。在家がやってこそ大乗仏教です。
いつでもどこでも道場というのは、禅の正統な極意のひとつです。

 よけいなものをはずす
靴下、上着、ネクタイ、腕時計、武器、さらに言えば、社会的地位や名誉からくるプライド、仕事や家事の心配、自分は武道家だからこういうことはできないというようなこだわりなど、ゴツゴツしたもの、重いもの、しめつけるものはできるだけ外す。
ただし、畳の上にじかに物を置いてはいけない。カゴか棚を借りるか、一部分だけでもハンカチか何か下に敷く。数珠を畳の上に置くなんてのは一番いけない。
ゆったりした服装で、ズボンは太め。

 自分が座る場所に一礼する
これは自分自身を拝むのだ、と教わりました。
寺では、両隣の席にも黙礼します。人がいてもいなくてもです。黙礼されたと気付いたら返礼します。寺によっては、向いにも席があったり、仏像に背を向ける格好になるので、そっちにも一礼してから。

 壁に向かって座る
臨済宗では壁を背にするそうですが、場所が広ければそのほうが落ち着く気もする。
しかし、自分の内面と向き合うという意味では、壁に向かったほうがいい気がするので、こっちをオススメします。

 信仰とは切り離す
曼荼羅や梵字や仏壇や仏像や石に向かって座ると坐禅にならない。それは瞑想です。
曹洞宗でも御釈迦様や歴代高僧を理想像として設定はするんですけど、坐禅は、理想の人(または宇宙とか自然とか真理とか)と自分が一体になるというイメージではないです。
イスラム教徒だから他宗教の行はできんとか、そういうことも言いっこなし。ただ座って心を静めるだけなんだから。心の体操みたいなもの。
在家なら、仏教以外の神を信じたままでもいいということを、御釈迦様もおっしゃってます。本当の真理というものは、なに教だろうが無神論者だろうが、すべての人にあてはまるからです。
今の自分に必要な部分だけでも参考にし、それでより良い人生を送れるんだったら、御釈迦様だって喜ぶはず。

 香は焚かない、しゃべらない
ヨーガや気功や西洋魔術では、座る時にある種の香や発声をともないますが、坐禅は座ればいいのであって、香も油も真言も経典も、なければないで全然かまわない。
というか、ないほうがいい。特定のイメージにとらわれずにすむからです。音楽もナシ。
マントラとか六字訣というのは、あ行の音を出すとどの内臓が活性化する、い列の音を出すとどのチャクラだけが振動する、ということを考えて組み立ててあるので、そういう理論を知らずにやみくもに唱えると、どんなにありがたい呪文だとしても、へんな効き方することがあります。
線香が1本燃えつきるまで坐禅というようなやり方を推奨する人もいますが、香りというのはあなたが考えているよりもはるかに、精神に与える影響が激しいので、絶対におすすめできません。線香が消えたかどうか、どっちみち見るんでしょうから、時計でも見ればすむことです。
どこにでも売っているN社やK社の普及品線香には、オカルトの理屈からすれば劇薬のような品もあるので、こんなものを併用されては坐禅になりません。

 坐蒲
座布団を2つ折りにして、浅く尻の下に入れます。
体重は膝と尻の三点で三脚のように支えるので、座布団にどっかり座るわけではないです。三点のうち、尻の支えだけ、三脚の足が短いので足すというだけ。
寺にはザフという専用の、丸というより球みたいなクッションがあります。臨済宗では四角いらしいんですが、こんな違いはあまり意味がない。
中国では、将棋板みたいな台の上に座ることもあるらしいです。

 結跏趺坐
右足を左ふとももに乗せてから、左足を右ふとももに乗せます。あまり深く組まない。
体が固くて無理なら、左足だけ右ふとももに乗せておけばいいです。
無理をしないこと! 外人さんなどは全くできない場合がある。
これは痛みを我慢することによって精神を鍛える修行ではありません(そーゆーことを求めているのであれば、それこそ武術のほうでやりましょう、いくらでも)、坐禅はとにかく落ち着いた静かな状態を作ることです。
背すじを伸ばす
。胸をはるけれど力は入れない
こんな苦しい格好でどうやってリラックスするんじゃ、という御意見が多いので加筆しときます。だってコレやらなきゃ坐禅にならんわい、と言っても納得いかないのであれば言いますが、禅が求めるリラックス状態は、腹や足腰は安定した土台を作ったほうがいいんです。生命の樹とか螺旋の蛇とか、何のジャンルでも同じ。
あんまり具体的にしゃべると怒られるのですが、じつは願望を叶えたり、悩みから解き放たれるための瞑想も、寝ておこなう種類の行でさえも、肉体にある種の「ひっかかり」や「わだかまり」のようなものがあったほうが、かえってうまくいくということが奥義になってます。
すっ裸でマッサージチェアに身をまかせてダラケているようなのとは、リラックスの種類が違うんです。

 正座
和服を着た女性なんかは、坐禅はできないから、正座で代用するしかないんですが、これがまた微妙な言葉で、野中先生が、武家は本来、正座なんかするだろうか?ということを書いておられます。
武術では、練習後に上座に向かって整列して正座し、法界定印して目を閉じます。これは稽古で荒くなった氣や心を静めるという、略式の坐禅。
俺が今までに所属した所は全部、この時に「黙想」と号令してましたが、他団体の練習に混ぜてもらいに行くと「正座」と言っていたりする。正座はすでにしてるのに、どうもよくわからない。「静坐」の意?
神道では、古法でないのはわかりきっているが最も効率がいいので正座を採用している、という見解が多いです。
空手団体で立禅(黙祷のようなもの)をやる所もあり、正座でも結跏趺坐でも同じじゃないかと言えばそれはそうですが、結跏趺坐は、これはこれですぐれた坐法です。

 左右揺振
振り子のように、体を少し左右にゆすり、その振幅の幅を狭くしていって、垂直を得ます。
俺は前後もやれと教わったのでそうしてます。
坐禅の終わりには、逆に小から大へとゆすりますが、これはあえてやらない人もいます。特別な状態は終わりだ、さーて世俗に戻るかナ〜ではなく、心身を坐禅の状態のままにして、坐禅という経験を日常生活に持ち帰るためです。

 法界定印
手は股間に置き、掌を上にして、右手の上に左手を乗せ、親指同士がかすかに触れた状態にする。
一般的には、親指はお互いに支え合う、とされてますが(ほかでもない道元様が、支え合うやり方を推奨なさっている。親指を宝珠のように尖らせる人もいる)、しかし、完全にくっつけてはダメと俺は教わりました。異端なのかもしれませんが、別の理由もあるので(ここには書けませんが、ある奥義に関連しているため)、このやり方をオススメします。
手を組まずに両膝の上に置いたほうが背すじは伸びますが、組んだほうが心身が安定するし、丹田がどうこうの極意にも都合がいい。
初心者には、左の親指を右の親指人差指でくるむようなやり方をさせる坐禅会もありますが、あまりいいと思えません。
印形というのは師によって全然違い、それがその流派の秘密の奥義という価値になってるようなところがあり、また、九字のような基本的なものでさえ世間に出回っているものはかなりデタラメで、しかも、効くと思い込んでやっていれば間違ったやり方でも効くことがあったり、なおかつ、上級者用または特殊用途のための「変形」(わざと一部を変更したヴァリエイション)も膨大にあるので、難しい問題です。
とにかく御自分の師がやれとおっしゃるなら、珍しいやり方だったとしても、そうしてください。

 

 左右逆はあんまりよくない
ある種の密教では、わざと左足右足の順に組むこともありますが、それは禅じゃないので気にしないでください。
左右どっちがどうでもかまわないとか、疲れたら組み換えてもいいなどと、坐禅の指導者でも言うことがあるのですが、俺はそうとは思いません。
人間は左右対称なようでいて左右対称じゃないので、それを左右対称の状態にもっていくためには、右足が先だということです。特に剣道をやっている人(幕末に武士が靴を履いたらみんな左足のほうがサイズが大きくて困ったそうです)。
ヨーガでは、手も左右逆にすることがある。尻を拭く不浄な左を、食事に使う神聖な右で封じ込める、数珠を左手に持つのも不浄を封じるためだ、要は落ち着くかどうかであり、右利きなら右が上のほうがおさまりがいい、とか。
けれど坐禅では、左手を上にしてください。
武術の黙想でも左手が上と教える先生が多く、よく動く右を動かない左で押さえ込むのが、心を静かにさせることなのだ、というふうに説明されてます。左利きの人には通用しない理屈ですが。
右足左足の順に組めば、右足の先の分だけ左側が高いから、右手を下に敷かないと平らにならないはず。
ただし、なにがなんでもこうでなければならないっ!というようなものはなるべくないほうがいいというのが禅なので、自分とは違う人達もいるんだなあ、まあ、いてもいいけどな、ほかの人がどうやっていようと俺には何も損得ないし、怪我をしている時だけは俺も左右逆にしてみようかなとか、そのくらいに考えてください。

 アゴを少し引く
アゴは、突き出してもいけないが、引きすぎてもいけません。
これは武術の実技でも、願望を叶える瞑想のほうでも、極意中の極意ですが、「物理的にはアゴを突き出していないが、気持ちとしてはほんの少し突き出しているような感じ」という、とても微妙な状態です。
しかし、じつは簡単なことです。やろうと思ってそうするのではなく、背筋をのばして頭をまっすぐにすれば、ちょうど、そういう位置になります
これが最もうまくできてる人は、俺が知る限り、バレーの木村沙織選手です。あの人は肩も氣も綺麗に落ちている。
武術の世界で「姿勢がいい」とされているものは、剣道ではアゴを引きすぎ、柔道ではアゴを出しすぎている場合が多い。ほとんどの仏像は、アゴを引きすぎです。

 舌を固定
舌の先を軽く上の前歯の根元につける
これは、氣のパワーがもれないためだとか、中国武術や仙道でいろいろ言いますが、気にしなくていいです。
こうするのが最も鼻呼吸しやすくて、唾も出てこない、歯を食いしばらなくてすむ、という程度の理由。
甘露とか津液漱練とかは、坐禅に似ていても坐禅ではなく、神道などの一部で気功の理屈からおこなう奥義であり、坐禅には一切必要ありません。気持ち悪い話なので、知らないほうが幸せです。

 目は閉じない
目を閉じると雑念が出る。ということは、暗闇でやるのもダメってことです。
無理に半開きにもしない。視線を前方45度下に落とす。自然に半開きみたいな感じになるはず。

 欠気一息、数息
呼吸は鼻で。
まず大きく数回、深呼吸。
何秒吸って吐いてとか、呼吸の数を数えるとか、いろいろありますが、和尚さんがやれと言ったらやってください。
あとは自分が一番落ち着くように、自然に呼吸していればいい。
呼吸は、禅においても重要で奥が深い要素ですが、それだけに、やろうと思ったら本格的にやり尽くさないと意味がないので、いきなり最初から拘泥するには難しすぎる。
あくまでも個人的な見解ですが、作為的な呼吸法は他の宗教や武道にいくらでもすぐれた教程があるので、そっちに求め、坐禅では自然な呼吸がよいと思います。
ストロークが長く深いにこしたことはないですが、無理にそうするのではなく、坐禅をしていれば自然にそうなっていくということです。
特殊な呼吸や、数を数える行為は、ある種のやり方で坐禅の最中にやると、別のジャンルの奥義にたまたま一致しているため、それが自動的に発動してしまい、起きなくていい現象が起きることがありますから、指導者なしにやるべきではありません。

 調心、澄心
何も考えないというのは無理です。後から後から雑念がわいて出る。それはしょうがない。けれど、それをかまってはいけない。浮かんでくるものは、他人事のように放っておく

 無念無想を追いかけない
坐禅は、無念無想が目的ではないです。ここを勘違いしてる人がものすごく多い。お寺さんのほうでも、わざと勘違いされるように演出して、坐禅参加者を集めているフシがある(笑)
そもそも、無になろうと求めている自分がいるうちは、まだ無ではない。
こだわらないということにもこだわらないのが本当の無です。→コレ 
言葉で説明できないはずの禅に経典があるのは禅の七不思議のひとつ、なんて言われてますが、そういうこと言ってるようじゃ無とか空にはたどりつけない。気にしない気にしない、ひと休みひと休み。どうせCMあけたら一休さんがちゃーんと勝つんだから(笑)
空とか無とかいうのは、すでに歴然としてそこにある真実であり、そのことに気付くという道ならばあるかもしれませんが、なにかの目標とか手段になるようなものではありません。
今さら一個人がわざわざやらなくても、とっくの昔から、世界はすべて空であり無であるからです。世界すべてとは、自分自身もです。
寝ていたら蚊に刺されて、かゆかったから、眠ったままでボリボリかいた、という時は、誰だって無念無想でかいておるわ。たかがケツをひっかく程度のことに、奥義だの極意だの難しい理屈をこねるっていう、それが一番、無念無想から遠いことです。

 超能力開発ではない
ヨーガや密教や神道では、自分が後ろ上空にいて、座っている自分を見下ろしているイメージとか、眉間がムズムズしてまぶしい光が見えるとか、いろいろあるんですが、そこまでいくといろんな意味で危ないし、もはや坐禅ではなくなる。

 空中浮揚しない!
Mが文句言うから、みたび隠しページにしましたが、やっぱり出しておきます。コレ

 警策
後ろを和尚さんがゆっくり歩いていて、長い板で肩をぶっ叩いてくれます。この板が警策。
臨済宗ではケイサク、曹洞宗ではキョウサクと読みます。
眠るなよ、くらいの意味。気合を入れるとか雑念を払うとか解釈すると、肩に力が入って逆効果。
警策をくらうと、せっかく静まった気持ちが乱される、余計な御世話だ、と思うかもしれませんが、これも坐禅が瞑想と違うところで、無我の境地にトリップしちゃっても困るから、現実世界に錨をつないでおく意味もあります。
また、本当のリラックスというものは、いったんガツンと緊張した後のほうがうまくいくからでもある。
右肩に板が触れるのが、打つぞの合図。そしたら合掌して前方に一礼(後ろで和尚さんも一緒に一礼してます)。耳をとられないように、首を少し左に傾けます。バシッと来たら首をまっすぐにして、また合掌一礼し、法界定印に戻します。
臨済宗では前から打たれるので、上半身を倒すような格好で受けるみたいですが。
並んで座っていれば端から順に来ますが、姿勢が悪かったりウトウトしてるとランダムに叩かれたり、理由も予告もなくいきなり叩かれたり、バシバシと2回以上叩かれたり、左右の肩を叩かれたり、寺と和尚さんによっていろいろです。
織田無道さんは、人体についた霊(?)を体外へ追い出すために背中を叩くのに使い、そんなのは警策の使い方ではないと批判され、これが私の確立した除霊のやり方だから文句を言われる筋合はないと主張なさっている。
音は派手ですが、そんなに痛いものではありません。竹刀が胴を外れて脇の下を直撃してアザになるのを10とすれば、1くらいの痛みしかない。
ものすごい力でくらわす和尚さんもいますが、在家の一日体験くらいでは、まず絶対ありえない。
テレビで芸能人が悶絶してるのは演技です。武術やってるなら、打ち込みが浅いか効いてるかくらいは見抜いてください。こんなもののせいで、坐禅が痛くてつらいイメージに誤解されると、寺が迷惑する。警策を使わない坐禅会もあるそうです。
警策から竹刀が生まれたのではないか?という説は、「菜園(新)」の40ページめに少し書いておきました。

 しびれる
しびれは慣れると言われてます。体がなんとかしようとして、血管にバイパスができるのだとか。
でも、しびれるものはしびれる。親指をつかんで甲のほうへそらせると早くなおります。
ある種のツボ(眉毛などにある)を尖ったものでつつくとなおるとも言いますが、俺はあんまり実感ありませんでした。

 

 ※追記
このページを丸写ししたサイトを見かけた!三脚とか比喩に使われている表現まで一緒!との御報告を頂くことがとても多くて、特に07年の夏ごろから急増してますが、それはこのコンテンツに限らず無断転載には猛烈な呪いがかかるよう設定してあるのですが、それより、「このページは個人的な見解だ」ということだけはもう一度強調しておきます。
御自分の師の教えを優先してください!
各宗各派それぞれにお考えがあって方針があり、それにもとづいて細部を調整してあるので、様式をお持ちです。その様式に徹している限り、そのそれぞれがすばらしいものであり、なおかつ、それはすべて正しい。武術だってそうでしょ。
そして、あなたにはあなたの師が現れ、俺とは違う禅を見つけることになる。
絶対的に正しいやり方というものはない、自分の体験から見出す、一人一人がともしび、まさにそういうことが禅であり仏教であり武道です(これもまた個人的見解なんだけど)。

 

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