←戻る 拳法と禅の折り合いの付け方 

 達磨大師は…

禅は、御釈迦様から摩訶迦葉尊者に伝わり、達磨大師が中国に伝えた…ということになってます。
これを言うと怒られますが、達磨大師が拳法を伝えたという説は、現在では否定される傾向にあるみたいです。

 また最近では達磨大師の存在そのものが危ぶまれている。達磨大師の名が初めて見える『宋高僧伝』でさえも、達磨の推定没年(五二八)から五百年も経過した書であり、それ以後に達磨の業績を記している『景徳伝燈録』『伝宝正宗記』などは、いずれも『宋高僧伝』を引用して、新しい説話をつけ加えて行ったのにすぎなく、史学者の間には、「達磨大師は禅宗の布教のために作り上げられた架空の人物である」との説が有力である。
(松田隆智老師著『図説中国武術史』)

一個の人間というより、仏法や拳法そのものが仮に人の姿をとって現世に現れたようなもので、まさに擬人化であり、そもそもダルマとは法(真理、法則)のことです。
実在したかどうかなんてことはどうでもよく、我々にとっては、強い人間の理想形として、そういう高い段階もあるに違いないというくらいに考えれば充分だと思います。
ただし、崇拝するというと少し違う気がする。禅では歴代高僧の偶像を崇拝しますが、俺はこの風習が大嫌いです。
あらゆる偉人から学ぶべきところは学び、ましてや、ほかでもない自分がやってるジャンルの大先輩ならば敬愛するにやぶさかではありませんが、特定人物にあまり傾倒しすぎると、いろいろ狭くなり、ハタから見ててもウザいし、レプリカにしかなれない。
数ある仏教の中でも自力本願でいく禅をわざわざ選んでおいて、そんな弱気なことでは、達磨大師だって喜ばないはず。自分は自分。
達磨大師が実在した人物なら、同じ凡胎の人間として等しく大乗の仏弟子であるから、人間以上に拝む理由はないし、実在しなかったのなら、すべての人間(禅を否定する人も、無神論者さえも含む、あらゆる人間)ひとりひとりの中に、達磨大師になれる素質がそなわっていると俺は考えます。

 

武のための禅ではダメか

千利休先生が、茶道は楽しくお茶を飲むだけのことだ、だけどそれって難しいよ、気持ちよくお茶を御馳走したりされたり、アンタ本当にできるんだったら今すぐアンタの弟子になってやる、みたいなことを言ったらしいですね。
哲学者カントの言葉に、「哲学を学ぶことはできない。哲学することを学びうるだけである」というのがある。
偉い人っていうのはレベル高すぎて、しばしばこういうこと言うんですけど、禅はまさにそう。

曹洞宗の禅は只管打坐といって、ただ座るだけです。そこには、悟りを開こうだの救われようだの「目的」すらない。目的があってやってるうちは、いつまでたっても手段だから。修証一等といって、修行してる姿がすでに悟りの姿。心静かに正しく美しく座っている、ただそれだけで、それがすでに仏の姿であるということです。

俺の育った所はド田舎だったから、時代と風雨にさらされて原形をとどめない小さな石仏が道ばたにあったりして、近所の農家のバーサンが毎日周辺を掃除して供物をあげ、熱心に拝んでいたりしました。そんなのただの石っころですよ。ちゃんと開眼(仏様の魂を入れる儀式)をやった仏像かどうかも怪しい。だけど、年寄りが一途に手を合わせている姿は、何人たりとも侵せぬ神聖な雰囲気があって、そのおばあさんのほうこそ仏様の姿だと、子ども心に思ったもんです。俺は坐禅をそういうふうに解釈してます。

御釈迦様は苦行もやり哲学もやったけれど、全部ダメで、ミルク粥か何か食べて菩提樹の下で静かに座ったら、たちまち悟りを開いた。御釈迦様が黙って花をひねってみせたら、その動作だけで摩訶迦葉尊者は意味を理解した。だから、ノーガキはいらん、黙って座れ、黙って食え、という考えです。

それだけに、曹洞宗では行動で示すというか、普段から厳しい作法にこだわり、形から入って心をひきしめる。威儀即仏法といいます。特に掃除と食事については徹底して極め尽くしたもので、そういう日常のひとつひとつが、それもまた禅なのだ、という考えです。トイレの作法まであります。武道でも、玄関に子どもさんたちの靴が散らかってるような所は、ろくな指導してませんよね。

ということは、僧侶の日常すべてが仏道の修行であるならば、武人は日常すべてが武道の修行。武道やる人が坐禅をやったら、それも武道でなければおかしい。僧侶になるわけじゃないんだから、冥府魔道で修羅道の我々は、凡夫俗物なりの、自分なりの坐禅でいいんです。そんなんでも、やらないよりはよっぽどマシ。

 

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