←戻る たかが禅で何が変わるか  

 

坐禅が、どのくらい武術の役に立つか、武術と関係あるのかは、ゴリヤクを期待するな、手段としてやるなという考え方と矛盾しますが、このへんに実感がわかないと、みなさんきっと坐禅してくれなさそう。あるいは、やっててだんだんバカらしくなったり、疑いが出てくるかもしれない。方便として、少し加筆しておきます。

俺が言うよりもはるかに上手に、いろんな本に説明されてるので、ひとつ御紹介します。
『武道の神髄』、これは共著で、佐藤通次先生の「武道哲理」と、鷹尾敏文先生の「平常無敵流平法」からなっていて、ここでは前者を引用させてもらいます。

これは座右に置いて全部読んでもらわないとダメで、断片的に言葉尻だけを盲目的にありがたがってもしょうがないうえに、武術を始めたばかりの人がこういうの読むと勘違いして道を誤る危険があるのですが、ここでは、坐禅は効果があるという雰囲気だけ感じ取ってください。
抽象的な名文ですが、学生さんは、今はわからなくてもかまいません。いずれ、体力の限界まで稽古したのに勝てない受からないなんていう壁にぶつかって、わかりたくなくてもわかる段階が絶対に来ますから大丈夫です。

まず、リラックスについて。大宇宙を小宇宙に具現化することは西洋魔術でも言うし、α波うんぬんは何のスポーツでも言うし、睡眠に極意があることは夢想なになにと称する剣でも言うことです。

個の解脱が全の実現である(現→真→実)という真理は、からだの一々の部分についても当てはまる。個のわれが宇宙我を実現するように、からだの一々の部分は、それぞれ一個の肉体全身の生命を担わなくてはならない。その事が完全におこなわれるとき、当面の行為のために使用される筋肉が、身の全体に融けこんで、かえってゆったりと弛むのである(例えば弓を強く引いている最中の阿波範士の腕は、何もしていない時と同じように弛み切っていた)。

筋肉が自然に弛み切った状態というのは、人が床に臥して睡っている最中における筋肉の状態である。日本においては、武道にあっても、すべて、当面の営みに用いる筋肉を、睡っている時と同じような弛緩した状態に保つことを要領とする。それがかなり完全に達せられなくては、T技、神に入るUというごとき名人の境地には達し得ないのである。

呼吸に関しては、こんな具合。
尺八がどうして禅なのか、これで納得してもらえると思います。

(略) これに反して、正しい姿勢をとり、丹田に力が通達する深い呼吸をすれば、横隔膜が押し下げられて、心臓にも肺臓にもゆっくりと場所が与えられ、しかも、吸気においても、呼気の際にはなおのこと、下腹に力がこもるので、腹部の臓腑に停滞しがちな血液が、腹の力によって絶えず押し出され、全身の血行はいちじるしく活溌化する。

(略) 同じく自然の生理で行われる呼気性の深呼吸は「笑い」であり、その際空気は気海の下なる丹田の緊張によって吐かれ、丹田の弛緩によって吸い込まれる。よって、それは「丹田息」と呼ばれる。武道や坐禅・静坐の息は、この笑いの深呼吸を、痙攣的にでなく一筋に行うものである。

 

 

正しい姿勢、静と動について。
このへんは御存知でしょうけれど、究極には、人生観や死生観にもつながるということが重要です。

動が絶対的な静と合致し、静が動を孕むということから、吾々は、正しい動作と正しい姿勢を知ることができる。すなわち正しい動作は、次の反動を招くような動、または動に対する反動、であってはならない。それは動と反動とを解消して、それみずからの内に休らうところの正動、でなくてはならない。すぐれた武道家や能役者は、おのが動作を常に正動の連続として行うのである。そして身を静かに保っている際も、次に反動的な動きをせずと直ぐに新しい動作に移り得るような、動静が一に合した正静に住するのである。その静は、あたかも目にもとまらぬ速度で回転する独楽が、澄みきってすこしも動かぬようであるのに似ている。

動と反動とを解消して正動に住するということは、生死の問題としては、死に対する単なる生をではなく、死によって裏打ちされるごとき生を生き、生に対する単なる死をでなく、生によって裏打ちされるごとき死を死することとして現われる。言い換えるならば、生活の刹那刹那が、常に時間の始源であり、同時に終結であるような、円環的意味をもつ生を送り、しかも、動いてやまぬ時間の流れに淡々として身をまかせ、時到れば、日暮れて寝につくごとき平静な心で世を去るのが、道の達人の生であり、死なのである。

というような、科学的かつ哲学的な理論が、いちいちあることはあるんです、あるけれども、それを言葉で言うとまた間違える人がいたり。

さらにややこしいことに、「坐禅をやっても何も変わらない、武術が強くなるわけではないわ」などと、極端に偉い禅僧がニヤニヤしながら横から口を出してパーにしちゃうんで、しかも、それはそれで一面では全く真実なので、どんどん話が面倒だから、あんまり理屈では扱わないようになってるわけです。

少なくとも、過去の達人たちの多くは禅をやってます。彼らでさえ禅がなければ高い段階に至れなかったのだから、普通の現代人は、ただでさえ一生かけても無理なのに、武を禅で補ってもまだ足りないくらい。

俺も、これが役に立っているかというと、あんまり役に立ってないけれども、知らないうちに役に立っているのだろうくらいに思ってます。そのくらいでいたほうが、取り込まれなくていいんじゃないでしょうか。人生のすべてを、何でもかんでも禅にてらして判断するようなのも、在家のあり方としては、かえって自分を狭くしてしまうので。

 追記。
どうも勘違いなさってるような質問を頂くので念を押しておきますが、武術でも芸術でも、まずは実技です。音楽理論をやってから楽器を学ぶのではなく、楽器が好きで楽しくて、ヒマさえあれば楽器をいじくり回してから、もっと表現の幅を広げたいので一度きちんと正式な理屈に手を出してみる、という順番。
あの中山博道先生でさえ、禅を優先しすぎた時期には試合で惨敗してる。
スランプになってる人が、坐禅をやったら、心が静まってサッパリして、ものごとの本質が見えて、急に勝てるようになった、ということはあるかもしれませんが、「本来の自分が持ってる実力」よりも上は出ません。それを高めるのは、坐禅じゃなくて稽古でやってください。

 

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