←戻る 禅と無気力の折り合い

 

もう一度強調しておきますが、これは個人的な意見なので、宗派の公式見解ではありません。
ただ、俺が見聞きした範囲では、この穴に落ちる人が少なからずいるので、誰にとっても危険箇所だと思いますから、これから始める方が同じ失敗をしないようにという目的で、僭越は重々承知で書きます。

 

禅は、金がなければないなりに、暑ければ暑いなりに、あるがままを受け入れて動じない状態をめざし、周囲がどうであれ自分は幸せでいられるというもので、これこそが本来の仏教の考え方であり、いわば根本解決をめざすものです。

ただし、これをやっていくと、欲や我がなくなってしまう。それは絶対にゆるがない幸せであり、それをめざしているのだから当然ですが。

欲はキリがないということを説明する話として、ひろ先生の著書に、こんなのがあります。要約して御紹介します。
大金持ちが牛を99頭飼っていて、あと1頭で100頭になる、どうしても100頭ほしい。
そこで、しばらく会ってない貧乏な友人が牛を1頭だけ飼っていることを思い出したので、訪問して、自分は貧乏で困っているとウソをつき、牛を譲ってくれと頼んでみた。
友人は、自分も貧乏だが牛がなくてもなんとかやっていけるからと、快く譲ってくれた。
大金持ちはまんまと牛が100頭になり、その夜は満足したが、翌朝には、200頭にはあと100頭足りないなどと考えるようになり、どこまでもマイナス思考で牛を数えるから、いつまでたっても満たされない。
貧乏な友人は、いいことをしたなあと思って幸福であり、あの牛は彼の役にたったと牛をプラス思考で数えるから、ゼロのはずの牛がプラスになっている。

しかし、このマイナス思考こそ、事業をおこしたりスキルアップする原動力となるハングリー精神であり、手段が詐欺なのはいけませんが、そういう情熱や行動力がなくなってしまったら、人はみんなホームレスでもかまわんということになってしまう。
在家からの布施がなければ、和尚さんだって食べていけないでしょうが。

自由な清貧を求めて、深山にひきこもって世捨て人になった偉人は古来多いですが、武人はそれじゃダメです。社会の役にたってこそ武士。
わずらわしくて汚い世俗の人ごみの中に身を置き、それでも汚れることなく、自分を失わず、社会を愛し、社会のために尽くすべきです。
体制がイヤならアウトローでもいいし、ツルむのがイヤなら孤独を愛してもいいが、私立探偵のように、必ず街の片隅にいなければならない。不良といえど学校にちゃんと来てるから不良学生なのであり、退学や不登校では学校をシメてるとは言わない。
修学旅行で薬師寺に行くと必ず聞かされる話、「多くの宗教で蓮の花が神聖視されるのは、あれが泥の中から咲きながら、花には泥がかかっていないから」です。

武道は最終的には戦わず勝ち負けもない境地に至ります。しかし、いきなりそこへは行けない。試合結果に一喜一憂し、稽古量で人に負けないとか、自分のなまけ心に負けないとか、若いうちにドタバタ駆けずり回った人だけが、最終的にそういう静寂にたどりつける。
最初から高いレベルの理屈だけ聞きかじって、わかったつもりになると、武術を極める前から武術を否定しかねない。それで幸せなんだから始末におえないですが。

時には、幸せを少し拒否してでも、もっと大きな幸せのために、危機感を持って焦らないと、自分が向上していきません。努力しないほうがラクに決まっているからです。俺が「癒し系」を「卑し系」と言ってバカにしてるのは、そのへんの理由です。

 

たしかに仏教は、戒律を設定しつつ、それを破ってしまう人の弱さも認めてます。戒律を守れる人に、戒律は必要ないから。
しかし、だからといって「仏教がいいと言ってるからサボってもいいかも?」って、仏教のせいにしないでもらいたい。

近頃では、ナンバーワンよりオンリーワンとか、とやかく言う人もいるけどサァ会社やめてチョコ食えば?なんてことが世間でもてはやされていて、敗北した人へのなぐさめとしてはそれでいいかもしれませんが、敗北する前からそんなことを言っていては、誰も勝負しなくなり、切磋琢磨しなくなってしまう。
およそ男に生まれて、なんで天下を取ろうとしない?
それぞれがオンリーワンだなんて、当たり前だ(笑) いちいち言うまでもない。そのオンリーワンが集まって、一定のルールや土俵の上で、写生大会やったり運動会やったりして、順位をつけて何が悪い。
覚醒剤はいけないとか、同じルールで競争してるんだから平等だろ。勝てなくても、勝とうと努力する中で得られるものがあるし、もし何も得られなくても、努力してる間は人生が充実してるはず。

禅を学ぼうというのも欲だし、如来様だって衆生を救いたいという本願をお持ちです。
何でもかんでも「どうでもいい」ではなく、こだわるべきところ、自分の誇りにかけて譲らないところもなければならない。

こだわりは、苦しみを生みます。手間もかかるし、金もかかるし、気も使うし、視野も狭い。しかし、義理を欠いたり、礼を失したり、女性を泣かしたりすることに比べたらマシです。どんなに面倒でも、こだわらなければならない。

シンガーソングライターの谷山浩子さんが、私は中途半端である、何をやっても中途半端、でも、妙にこだわる分野もある、中途半端であるということに徹することもできない、まさに中途半端、というような意味のことを言ってます。
仏教が、こだわらないことが幸せや自由を生むと考えるならば、これこそが仏教の理屈にかなう本当の「いい加減」だと、俺は確信してます。
しかも、その人にとって何がこだわる部分かということが、その人の存在意義ですらある。

まして武術やってて男性なら、しかも若いうちは、俺が俺が!というのは、絶対に必要なことです。
「自分」というものがなければならない。
どんな偉い仏様が何と言おうが、その時その時で適確に判断する、自分の、常識とか分別とか良心、あるいは誇りと恥です。

そして、その「自分」を高めていかなければならない。
他力本願とか、いわんや悪人をやとか、愛欲もまた悟りとか、その言い回しだけをひっぱり出して、人をダメにする言い訳に利用してしまったら、その宗教がかわいそうです。
イスラム教に、妻は4人まではOKという決まりがありますが、あれは、できるだけ少なめにしておけという意味で言ってるのであり、女性が自立しにくい社会の中で戦争未亡人を扶養するとか、いろんな背景があってギリギリで出した線なのだから、現在ではイスラム教徒だって一夫一婦で奥さんを大切にしてる男性はいくらでもいます。
そもそもイスラームの教えは、妻を全員平等に扱いなさいということも命じている。

禅は、既成概念の打破を求めることはあっても、詭弁を弄して負け犬のたれぱんだでいいやというわけではありませんから、くれぐれも注意してください。

 

これだけ言っても、ま〜だわからない人は、こっちへ→ 

 

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