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 騎射もやっていた

ヤブサメは本当に矢馳せ馬なのかを知るために、伊勢流の言うことを信じていいかどうかを見ます。

まず、綿谷先生の御研究を要約するとこんな具合。

小笠原流は外向(とむき。屋外の作法)を司り、伊勢流は内向(うちむき。室内の作法)を司った。
弓術や馬術の作法は小笠原家、結婚とか成人の儀式では伊勢流が採用されることが多かった。
17世紀末から小笠原流が流行したため、伊勢流は非実用化していったらしい。

しかし、礼法や有識故実はたいてい騎射と併伝されるもので、伊勢流もかつては騎射の実技で他流の追随を許さなかった時期がありました。

石岡先生が、当時の騎射の達人の公式大会出場記録をリストになさってます。要約すればこんな感じ。

鎌倉時代、流鏑馬は大流行するが、この時期に活躍していたのは小笠原家や武田家の一族たちであり、伊勢家は名前が出てこない。
南北朝時代、小笠原家の独壇場になり、この頃から伊勢家がぼつぼつ出てくる。
室町時代初期、流鏑馬はすたれてしまい、かわりに犬追物が流行するが、ここで伊勢家の一族が大勢力になり、小笠原家武田家を圧倒してしまう。

伊勢家は騎射の名門ではあるけれども、流鏑馬がすたれてから、犬追物で活躍した家だということです。

犬追物は円形馬場で集団でおこなう騎射で、放った犬をマトにしますが、イノシシでもシカでも犬追物と呼びます。話がどんどん横道へ行くので割愛します。

いったん滅びた流鏑馬を復興させたのは、ず〜っと時代がくだって、あの尚武に熱心だった吉宗公、つまり江戸も中期の18世紀初頭、しかも、そのノウハウは伊勢家ではなく小笠原家の預かりになります。

じゃあ、伊勢家はあんまり流鏑馬には詳しくなかったんじゃないか、そんな近世に書かれた本には平安時代の流鏑馬が正確に記述されてないんじゃないかというと、そうとも限らない。

 

 流鏑馬にも詳しかった

吉宗公が再興させた新しい流鏑馬「新儀流鏑馬(神事流鏑馬)」は、儒学者に考案させた作法も入ってるそうですが、そのとき元になった資料は、小笠原家と伊勢家から提出させた文献です。
伊勢貞益が、家伝の弓馬書27巻を献上してます。

天下の将軍家が流鏑馬のまともなノウハウを入手したいと思った時、伊勢家はそれを持っていたということです。

その伊勢貞益の子、伊勢貞丈が書いた『貞丈雑記』が、やばせむまだというのだから、これはもうしょうがない。
信じる信じないではなく、残っている資料がこれくらいしかないわけだから。

 

 非実用だからこそ

戦国時代になると、ついに日置・吉田流がおこり、騎乗よりも徒歩、形式や作法よりも実用であることを求めて、精妙な技術をどんどん発展させ、江戸時代はもうどこの藩でも弓術といえば日置・吉田流だらけになります。

そしたら古い流派は、相対的に非実用的だったとすれば、ますます形式とか作法を大切にして、それを「正確に知っている」ということを誇りにしたり売りにしたりして、存在意義にすると思います。

なお、名誉のために言っときますが、俺は小笠原流の演武を実際に見て、あれが非実用的だとは全然思っておりません。

 

次回は、なぜ礼儀作法と馬上弓術がセットで伝承されるのかという話と、『貞丈雑記』の笠懸の記述が怪しいという話です。

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