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 中国の影響

『大系』の石岡久夫先生から引用します。

中国においてはすでに紀元前から道徳や思想が文章に表現され、文献が多く残され、『周礼』や『後漢書』などに弓射の儀礼が述べられている。古代日本が倭の奴国として中国と交渉をもつに至ったのは、二、三世紀であったから、中国のこれらの思想や文献も次第に我が国に取り入れられ、ことに『礼記』の射礼思想は、従来の狩猟や闘争の技としての日本弓射の考え方を根本的に変えるに至ったのである。

三世紀末の応神天皇のときに、百済の王仁が来朝して『論語』『千字文』を献じたことは周知のことであり、五世紀末の清寧天皇期には、中国の射礼思想も十分我が上層部に浸潤していたに相違ない。

古代の射礼思想は周代の『礼記』射義編に述べられており、射を行うには進退動作礼法にあてはまることを目標とし、先ず「内志正、外体直」が要求され、弓射をもって観徳の器と称したのである。孔子は射をもって君子の行とし(『論語』)、孟子はこれを仁道と考え、反求精神を強調した(『孟子』)。

源平時代に「やあやあ我こそは」で正々堂々と戦っていた理由がよくわかります。
また、弓術は鉄砲伝来で出番がなくなったから有識故実で存在意義を維持したのではなく、
もともと古代から礼儀作法と関連が深かったというところも重要です。

どっちみち、外国語の影響を考えなければならないようです。
日本の技術というとまるで日本人が自力でやってきたようなことを言う人が多いですが、馬術は高麗から、弓術は中国から学んだことは事実です。

なにか判明したら、また御報告します。

 

 笠懸は新しくない

笠懸(かさがけ)は、笠(のちに、革を貼った板だか、藁をつつんだ革だかで代用)をマトにするもので、これも疾走する馬上から狙います。
左が流鏑馬、右が笠懸の的です。

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石岡先生は、平安時代に国家行事としておこなわれた弓術大会の回数のリストを作成なさってます。要約すると…。

単なる「騎射」は淳和天皇の治世にやっている。
「流鏑馬」は堀河天皇の治世が最初で、「騎射」とは別にやっている。
堀河天皇より3代前の、後冷泉天皇の治世に、すでに「笠懸」をやっている。

流鏑馬も笠懸も、平安末期からというのが定説で、たいていの辞書にもそう書いてありますが、それは普及率の話で、平安中期からすでに存在していた

しかも、平安時代の国家行事に限っては、流鏑馬よりも笠懸のほうが、早くからおこなわれていた

『新猿楽記』にも笠懸の上手な人の話があるので、平安中期にやってたことはもう確実みたいです。

なお、犬追物は貞応元年(鎌倉時代です)から始まったと『故事類苑』にありますが、これも平安末期には始まっていたようで、少なくとも犬追物の前身「牛追物」は、国家行事として平安時代末期にやってます。

このへんに関する『貞丈雑記』の記述が、あんまり史実と違っていれば、矢馳せ馬説も怪しくなってしまうのですが…。

 

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