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 なぜ牧野家は禁固刑をくらったのか

 

 開戦

秀忠公と昌幸侯の交渉が決裂し、第2次上田の戦いがおこなわれた、ということになっている。
開戦したきっかけは、2種類の話がある。

  1、徳川軍が刈田狼藉をおこなった

刈田は、ひと様の土地の稲を勝手に刈るという嫌がらせ。
略奪行為としては中世の荘園時代からおこなわれていることだが、戦術としては、敵が怒ったりハラハラしたりして、冷静さを失った状態で、わざわざ出てきてくれるから、そこを叩こうということ。

「青田刈り」と書いている本もあるが、旧暦9月だから、現代感覚でいえば10月。
稲の品種など、当時はどうかわからないが、現在、上田市では10月ならば普通に稲刈りシーズン、ちょっと遅いくらい。

 ※追記
参考になるかどうか、現地でお聞きしたところ、「特に土地の傾向のようなものはないが、コシヒカリはすぐ倒れるのでイヤだ、私のとこではあきたこまちだ」とのこと。
上田駅から少し離れると田んぼがいくらでもあるが、俺が訪れた時(8月)は、倒れている稲をひとつも見かけなかった。
しかし、塩田平で作る「恵」というブランドのコシヒカリが、上田市の特産になっている。
上田城内の市立博物館に、天明や天保の米粒が展示されているが、米の品種なんて俺には見てもわからない。
上田では平鍬の形状も独特だし、なにやら他の地域と違う農業をやってるのではないかという印象も受ける。

真田家の場合、戦術上の理由で放火したり、人工的に洪水を起こしたり、自分の城下町や領地をわざと破壊することがあるから(第一次上田合戦でも、それをやっている)、あらかじめ領民たちを城内に避難させている。
城内に農民もいるから、一年間の努力をパーにされれば、面白くはない。
刈田によって、真田軍は城から出てきたという。

  2、遭遇戦だった

上田城というのは、千曲川の分流の尼ヶ淵という部分に、崖が面している所を利用して、築いてあった。
この崖の所、城の南側の部分が、いかにも天然の要害なので、様子をさぐったら、案の定、伏兵がいて、はち合わせになったので、なりゆきで開戦したともいう。

 

 最もマヌケだったのが、牧野家

刈田をおこなったにしても、尼ヶ淵で伏兵に出逢ったにしても、それは牧野家だったとされている。
牧野康成
侯、その息子の牧野忠成侯。のちに長岡藩になる大名。

真田軍はすぐに撤退し、それを牧野隊が追撃していったら、あちこちに伏兵が待ち構えていて、じつは引っ張り出されたのは牧野家だったと。
刈田で真田家を策に陥れたつもり、伏兵を見破ったつもりが、逆に、牧野家が策にひっかかっていたと。

この、挑発して撤退して、追ってきたところを袋だたきっていうのは、真田家の得意なパターンで、第1回の時にも徳川軍はひっかかっている。
敵がどんなに大軍でも、一部だけを誘い出して、小分けして撃滅する戦術。
じつは、このあと大坂の陣の真田丸でも、まったく同じ手にひっかかり、徳川軍はまたまた大損害を出す。
戦争の時はカーッとなってるから、止められるものでもないらしい。

一説によれば、秀忠軍は上田城の南側だけを開けて包囲しており、真田軍を城から引き出そうとしたのだという。
バリケードを作って待ち構えてるとこへ攻め入っていくのは大変だから、おびき出して野戦で片付けようと思っていたのに、牧野隊が突っ込んじゃったので、攻めたら真田軍が出てこなくなっちゃうじゃないか!ということらしい。
『寛政重修諸家譜』も、『城門ちかく奮戦す。これによりて敵つゐに城中に引入、』などと書いており、城門に押しかけて奮戦したせいで、真田軍は引き返しちゃって、それを、あたかも敗退させたかのように思って満足しているらしいが、要するに、せっかく城から出てきたのをふたたび引き籠らせちゃったわけだ。

牧野家は、軍監の本多正信侯から、こっぴどく叱られたとかなんとか。
正信侯は早い段階で制止したが、牧野家が言うことをきかなかったとかなんとか。

もちろん、長岡の人に言わせると、ごく一部の部下が勝手にやったことです、とかなんとか必ず言い訳するけれども。
牧野忠成侯は、よかれと思ってしたことだからとかなんとか、違反者の贄掃部殿を処罰するどころか逃走させている。
つまり同罪であり、そもそも部下の責任を取るという指揮官の基本的な務めを放棄しており、部下を賞罰するという指揮官の義務も放棄している。

もちろん、長岡の人に言わせると、慈悲深い牧野家は部下の罪を代わりにかぶろうとしたのです、とかなんとか必ず言い訳するけれども。
牧野忠成侯は責任をとらずにバックレ、行方をくらました(親の牧野康成侯は逮捕監禁され、バカ息子の分まで叱られた)。

つまり、軍令違反、無許可での攻撃、しかも惨敗、職務放棄、責任放棄、親不孝と、牧野家は大量にヘタクソをやらかしたということ。
武将以前に、武士以前に、人として、自分のしでかしたことに責任をとっておらず、逃げている。

これ以前から牧野家に代々仕えていた人々は、主君がアホと判明しても、そのまま仕え続けるかもしれない。
しかし、ほかの大名でもよかった場合、ダメダメ大名とわかっている家に、わざわざ新規採用されたいと思うものかどうか。
もし杉浦先生が「随身」した牧野家が、この牧野家だったとすれば、それが意図的に選択してのことであるならば、どのような理由や縁で牧野家を選んだのか。

 

 大胡藩はどうなったのか

この時、牧野家は、上野国勢多郡大胡に2万石の領地を持っていた。

『 本多正信は「命にそむいて戦いを始めた者を軍法に照らして処罰する」と怒り、大久保忠隣の旗奉行杉浦文勝、牧野康成の旗奉行熱掃部らに死を命じた。大久保は承知せず、これを聞いた杉浦文勝は主君に累の及ぶのを恐れて自決し、熱掃部は主君の黙認を得て逃亡した。そのため牧野康成は秀忠の軍からはずされ、のち領地を没収された。
(『図鑑・兵法百科』、熱という文字は原文ママ)

『慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の役には秀忠に従って信濃国上田城(長野県上田市)攻撃で城兵を追い、指揮者本多正信の制止に反したと処罰を求められた。康成は罪科を自ら受け、三年間にわたり、吾妻の砦に蟄居とあるが、北群馬郡子持村白井城であろう。慶長九年の家光の誕生祝いには長男忠成が出席し、康成は以来、正面に立たなかった。』
(『藩史大事典』)

七本槍の7人も、上野国吾妻、真田信之侯のもとに幽閉されているが、こちらは1年ほどで許されているようでもある。
なぜ牧野家だけが長期刑になったのか、大名だから?

しかも、このあと牧野家は、長峰藩(さらに長岡藩)が与えられ、大胡藩から異動している。
藩主が3年間も身柄を差し押さえられていて、藩主として機能していないのに、改易もされず藩が存続していたという、このへんがよくわからない。
もっとも、幼君の大名や、幕府要職をやってる大名だって、いてもいないようなもんだが。

『藩と城下町の事典』で大胡藩を引くと、
『慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の役の際、徳川秀忠軍に従って上田城攻めに参戦したが、軍令を犯した廉で処罰され、同九年、康成は多病のため嫡男忠成に諸事をまかせ大胡の地に閑居した。
 康成は慶長十四年十二月十二日に没し、忠成が遺領を継いだ。忠成は慶長十九年の大坂冬の陣や、翌年の夏の陣で戦功を樹て、元和二年(一六一六)七月、越後国長峯五万石へ転封、大胡藩は廃藩となった。』

というようなことが書いてある。
これもまたおかしな話で、父親は藩主の仕事をやめて御隠居になっている、でも
息子が領地を継いだのはずっと後になってから、じゃあ結局、藩主がいないってことじゃないか。

 

 どうして、それほど処罰されなかったのか

関ヶ原への遅刻がヤラセでないことは、絶対に間違いない。
牧野家だけでなく周囲のベテラン武将は、どうして、戦後ろくに罰せられていないのか。

軍法というなら、関ヶ原本戦の時、井伊家が抜け駆けして福島家に恥をかかせたことも、処罰されていないのである(これは外様大名がムキになって戦うようにと家康公がやらせたのかもしれないが)。

  1、自分の戦力を自分で削るのは損

『図鑑・兵法百科』によると、本多正信侯が軍法違反者の死刑を命じた時、反対意見が出たらしい。
『榊原康政、大久保忠隣らは、
決戦を前にして、有力な部隊長を失うことは自殺行為であると怒り、本多正信を激しく非難した。』

  2、牧野家の軽挙妄動は、秀忠公の指示?

『図鑑・兵法百科』には、こんなことも書いてある。
『ところが肝腎の秀忠が若い者をつれて戦列から飛び出し、上田城真近の染屋の高地に馬を進めて良い気分になっていたのである。もし奇襲を得意とする真田の伏兵に襲われたら、どうするつもりであろう。秀忠一人ぐらいの実質的損失はなんでもないが、決戦を前にして、一軍の将が敵に生け捕られでもしたら、それの彼我全軍将兵に与える精神的影響の甚大さははかり知れないものがある。そのうえ、あろうことかあるまいことか、
秀忠は一部の兵を進めて城を攻めさせたのである。』

家康公の跡取り息子様のヘマだったとすれば、罰しようがない。

ことによると、牧野家は秀忠公の命令に従っただけか、あるいは、牧野家がやったヘマと同じ事を秀忠公もやったために、処罰が秀忠公にも及ぶからウヤムヤになったのかもしれない。

秀忠公は、家康公や家光公に比べて、ことさらに無能に言われることが多いので(西田敏行さんが、いかにもマヌケっぽく演じたことがある)、あんまり先入観を固定してしまうと真実が見えなくなる。

なんにしても、部下の失態は指揮官の責任。
贄掃部殿の落ち度を問われるのが牧野康成侯なら、牧野康成侯の落ち度を問われるのは秀忠公、そして、秀忠公の失態を叱るのは家康公だが、家康公は誰から叱責されるかというと日本全国の庶民から笑われるのである。

  3、卑怯者は最低だ!ということを強調するため?

真田家は、もともと村上家に仕えていた。
天文年間、信玄公の信濃侵攻が始まったので、
武田家にくらがえして、今度は村上家をやっつけることに精を出す。
天正10年3月、武田家が滅びたので
織田家に仕え、滝川軍の一員になった。
6月、本能寺の変。神流川の戦いで滝川軍は北条軍に惨敗。
7月、そのまま敵側(
北条家)の武将になる。
10月、
徳川家に調略されたので北条家を裏切り、ほいほい乗り換える。
天正12年、領地割譲がイヤで徳川家と決別、今度は
上杉家に仕える。
天正13年5月、上杉家を裏切る。7月、また
上杉家に臣従。8月、上田城で徳川軍を迎え討つ。

そして天正14年8月3日、豊臣政権から上杉家あての有名な手紙の中で、真田昌幸侯は「表裏比興の者」と、けなされる。

真田ファンに言わせると、「表裏比興の者というのは、おもてうらのある卑怯者という意味ではなく、現代語の卑怯とは意味が違っていて、軍略に長けているという、武将にとって最大の褒め言葉なのです♪」とかなんとか、デタラメなことをほざくので、要注意。

この手紙の原文は、『表裏比興の者に候間、成敗を加えられるべき旨仰せ出だされ候間』卑怯な裏切り者なので、だから成敗しなきゃならねえ、と秀吉公がおっしゃっている、とある。
ちっとも誉めてない。うさん臭い奴だから処罰しようという話なのである。

戦国時代には、主君を裏切って、別の主君に乗り換えるなんてことは、誰もがやっていることで、珍しくもなんともなかった。
しかし、江戸時代になると、そういうことはよくない。
忠誠を尽くして仕えましょう、という思想を植え付けるようになる。
合戦のない時代になって、かえって、武士道ができあがるのである。
要するに、
徳川家の天下をひっくり返しちゃダメですよということを教育するためには、老獪な真田家のせいで秀忠公が大変に御苦労なさいましたということにしておいたほうが、都合が良かったとか?

  4、じつは、手柄を立てていた

『三百藩藩主人名事典』で、『牧野忠成』を引くと、こう書いてある。
『関ヶ原合戦には、秀忠に従って中山道に向い上田城攻撃に功を立て秀忠の信任を深くした。

あっさりと、断言してある。根拠は書いてない。
バカをやって3年間の禁固刑になったものが、どうして、こういうふうに書かれるのか。
もしかすると、歴史に詳しい人たちしか知らない、なんらかの根拠があるのかもしれない。

  5、じつは牧野家はスパイだったのだァ!

失脚したと見せかけて、表舞台から姿を消し、じつは家康公から与えられた特殊任務をやっていた(笑)

なーんじゃそりゃ、まじめに考察しろ、と言われそうだけれども、これが案外まじめな話なのである。
前項にも一致する。詳細は、長岡藩のページ。

失脚したと見せかけて秘密指令というのは、土方雄久侯もやっている。窪田藩のページ。

 

 →つづき 

 

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