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 話が一刀流に無関係ではない 1

 

 秀忠公の遅刻は、忠明先生も原因か

上田2回戦において、徳川側で活躍した7人が、のちに「上田七本槍」と呼ばれている。
活躍したというか、活躍できてなくて負け戦だったんだけど。

その7人のうちのひとりが、神子上典膳こと、のちの小野忠明先生!

ところが、伝えられている話が、あまりにも、あっちこっちヘンなので、特記しておくことにする。
古文が苦手な方は、ここは飛ばして次のページへどうぞ。ツッコミは次のページでやっております。

 

 『慶長記』における描写

『関原軍記大成』や『翁草』にも詳しい記述があるらしいが、綿谷先生は『慶長記』の「上田御発向の条」を、『もっとも正確とおもわれる』と評価なさっているので、まず、それを御覧いただく。
俺は『慶長記』を持ってないので、下川潮『劒道の發達』大日本武徳会本部1925からの孫引き。

牧野右馬允は、康成侯のこと。
忠明先生の御名前に関しては後述。
衛、清、乗、神、辻、来、追、捨、朝、半、鎮、届、様、節など一部の文字は旧字だが変換できず。

『九月六日辰刻に、眞田家臣根津長右衛門持口より、依田兵部、山本清右衛門物見に出で虎口より二町計向に堤あり是に居て物見する所に、亦歩行武者齋藤左助山伏出立にて右兩人居たる堤より先へ出で、槍玉を取て名乗ける所へ牧野右馬允備より神子上典膳、辻太郎助一文字に駈来るを見て齋藤は引取ける、辻、神子上は彼を追捨て、依田、山本が居たる所へ馳来る、依田、山本立上て堤の上と下にて槍を組神子上辻堤の内へ飛入り戰ける所に、又朝倉藤十郎、戸田半平、中山勘解由、鎮目市左衛門、太田善太夫五人の者馳来る、太田は槍脇の弓也、山本が長柄の槍も折四箇所疵を蒙り不叶して引取所に、依田深手負て虎口際にて倒れける所を神子上刀を拔て依田が面を一太刀切る辻も續て一太刀切る、山本走り寄、兩人を切拂、兵部が死骸を虎口へ引入る、牧野右馬允是を見て、辻神子上討すな續や者共と下知せられければ、承り候とて追々に百騎計来る、城方の者共門の内へ引取かたく見ぇつるを、根津長右衛門是を見て凱歌を擧させ門を開き鐵砲をつるべ打に打ければ、味方是を突て出ると思ひけるか虎口を少し引き退く其間へ何も城中へ取入ければ則門を閉たりける、眞田の七本槍と云は是也。
其後依田が面を切ることを神子上より辻初太刀なりと云、神子上が云、依田は朱冑を着し頬當は仕不申、
初太刀某也と云辻は朱頬を掛たり初太刀我なりと云、右馬允聞給て、何れも證據無之に依て家人二三人馬買に仕立て彼場所の様子聞届申す可くとて信州へ遣けるに彼者才覺し、山本清右衛門に出合、彼時の様子を尋ねければ、山本が云く、依田は頬當は不仕朱頬を掛たると被申仁、定めて二の太刀にて可有先太刀に血走り可申なれば閙敷節朱頬と披見けるもことはり也と語りける此儀を右馬允聞給、此儀最成と批判せられしと云々。』

 

 小野派一刀流の公式見解

『一刀流極意』では、このようになっている。
一部の文字は旧字だが変換できず。
斬と切の使い分け、促音表記、無意味なスペースなど、原文ママ。

『 第七節 下田(原文ママ。引用者注、以下同)の七本鑓・一刀流の突
(略) 秀忠は家康の命を受け、関ヶ原の外廓戦の一方を承わり、慶長五年八月二十四日に手兵三万八千人を率い宇都宮を発して信濃に進んだ。秀忠は小諸から上田城に向かい、これを守つて西軍に加担する真田昌幸、真田幸村を攻めたが、真田軍が城の守り堅固で容易に落ちない。秀忠の軍が苦戦し荏苒日を過ごして九月七日に及んだ。
 この日秀忠先手の軍勢が苅田に出で、村々に控えていたが、上田の城中から見計らい、頃はよしとばかり屈強な軍兵多勢でどつと門を開いて馳懸かり、秀忠の勢を追い立てた。この時に徳川旗本の勇士神子上典膳、戸田半兵、辻太郎助、朝倉藏十郎
(原文ママ)、中山助六郎、齋藤久右衛門、太田甚四郎等と相ともに比類なく立ち働いて見事な戦功をたてた。これを関東で上田の七本鑓または苅田の七本鑓とも名付けている。この戦で上田の城兵依田兵部、山本清右衛門、 齋藤左太夫等は身を捨てて奮戦したが、 徳川勢の神子上典膳は依田兵部の面に一太刀を浴びせた。続いて辻太郎助も兵部に切り付けた。
 山本清右衛門これを見て、深手を負うた兵部を肩に懸けて退いた。典膳は獅子■■
(番に飛。曜の走にょう)の活躍をなし目に触れる前後左右の敵の猛将勇士の腹を突き刺し貫き斃すこと数限りがなかつた。翌日勲功調査について依田兵部を斬つた典膳と太郎助との前後について不明の点があつた。典膳は彼の敵は朱■(灰に皿)の頬楯がなかつたので面を切つたというのに対して、太郎助は朱■(灰に皿)に朱の頬楯を懸けておつたのを自分は切つたと主張する。そこで牧野広成は家来二三人を馬買に扮して上田に遣わし、城兵山本清右衛門に行き逢つて、件の趣をいわせて尋ねた。清右衛門のいうのには『依田兵部は朱■(灰に皿)を被つて頬楯を懸けていなかつた。面に切り付けられ、血に染んだので後で見た者は朱の頬楯と思つたのだろう。頬楯がなかつたと言つた人は初太刀を切り付けたに相違ない』と。そこで典膳の初太刀が明らかとなつた。
 典膳は敵の首を取つてこなかつたので、どうしたのかと尋ねられて彼は答えるには『公に奉ずるために戦い、自分の功を貪る考えはないから首級を一つも持ち帰らなかつた。しかし自分は敵の強剛な者を多数腹を突き刺し貫き斃してあるから不審があるならば戦場の屍を検べて見るがよい』と。検視役が戦場に行つてつぶさに調べて見ると全くその通りであり、また典膳が突き殺して置いた屍の立派な兜の死首を斬つて功を盗んだ犬士がいたこともわかつた。これによつて典膳の無欲と一刀流の臍突の恐ろしさが評判となり、衆皆畏服し、秀忠はこれを聞きその
高潔な精神と豪強な武技とを嘉して益々重用した。秀忠が小諸から江戸に帰るまで典膳は終始この軍旅に従つたのである。』

 

 当時の小野家と幕府の公式見解

『寛政重修諸家譜』では、またちょっと言ってることが違う。
一部の文字は旧字だが変換できず。

『慶長五年八月眞田昌幸が籠れる信濃國上田城を攻たまふのとき、酒井宮内大輔家次、奥平美作守信昌、牧野右馬允康成が手に属し、刈田の事を奉行し、城にちかづくのとき昌幸城中より馬を出し蜀黍畑近く至る。忠明及び中山勘解由照守、辻左次右衛門久吉、鎮目半次郎惟明、戸田半平光正、齋藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣正等七人すゝみ戰ひ、忠明、敵兵望月兵部某山本清右衛門某と鑓を合す。時に辻久吉馳加はりて挑み戰ふ。兵部某忠明等がために重手を負て虎口際に倒る。忠明その鑓を奪ひ、其首を得んとす。敵數多馳加はり、鑓合はげしくしてこれを得る事あたはずと雖も、太田甚四郎吉正鑓脇を射て敵を射倒すがゆへに忠明、久吉、照守等其勢に乗じて土橋をこえ、城門ちかく奮戰す。これによりて敵つゐに城中に引入、是を世に上田の七本鑓と稱す。しかれども軍令を犯せし事を咎められ、眞田伊豆守信幸にめし預られ、上野國吾妻に蟄居す。六年九月めしかへされ、下總國埴生郡の本領二百石を賜ひ、上總國武射郡のうちにをいて二百石の地をくはへられ、のちまた加恩ありて舊地をあらため、上總國山邊武射兩郡の内にをいて都て六百石を知行す。その後劒術の秘事を言上せしにより、御諱字を賜ひ、又備前勝光の御脇指(原文ママ)、御料の羽織、黄金等を恩賜あり。』

 

 真田家側の見解

松代藩真田家の家記、『上田軍記』では、ずいぶんと話が違う。
これは真田家側に都合いいように書いてあるということは予想できるのだが。

『或時用事有ニヨリ城中ヨリ百姓共ニ足輕少々相副テ城下ヱ出ス處ニ秀忠公ノ御旗本ヨリ朝倉藤十郎・辻忠兵衛・小野治郎右衛門・中山助六・戸田半平・齋藤久右衛門・太田善太夫七騎ニテ抜駈シ右ノ足輕・百姓トモト迫合ケル、百姓風情ノ者ノコト成トモ日頃勝軍ニ馴タル者トモ故ニ七騎ノ侍ヲ追拂難ナク城中ヱ引取ケル、彼七騎ノ侍ヲ眞田ノ七本鎗ト號シテ眞田家人何某ト鎗ヲ合タリ抔ト■(変換できない文字。言へんに勹)ル士モ有ト世ニ沙汰スルトイヱトモ當家ノ侍ニ右ノ七人ト鎗ヲ合タル者ヲ聞ス、右七人ト迫合シハ當家ノ足輕并ニ百姓共也、

『或記ニ云ク』、『或記云』として、異説がいくつも添えてある。

『酒井宮内大輔・牧野右馬允・大久保治右衛門等カ手ヨリ人夫ヲ出シテ城下ノ作毛ヲ苅セケル、是ハ城兵ヲ引出スヘキ計畧也トソ聞ヱケル、城中ヨリ是ヲ見テ足輕二百人討テ出彼者共ヲ追拂ハント戰ケリ、是ヲ見テ本多美濃守カ手ヨリ大勢助ケ來リテ外構ノ木戸迄押込テ相戰フ、時ニ本多カ郎從ニ淺井小右衛門・永田角右衛門ト云者先蒐ニ進テ戰ケル、係ル處ニ城中ヨリ木戸ヲ開テ突出ル、寄手ノ先陣突立ラレケル處ニ城中ヨリ左衛門佐大勢ヲ從ヘテ秀忠公ノ御旗本ヘ一文字ニ突テ蒐ルニ、如何シタリケン秀忠公ノ御前備色メキ立ケルヲ左衛門佐勝ニ乗テ突崩シケル、秀忠公瞋リ玉ヒ僅ノ勢ニ對シ逃ルト云コトヤ有、返合テ戰ヘト牙ヲ噛テ下知シ玉ヘハ御旗本ノ軍兵ノ中ヨリモ中山助六・太田善太夫・朝倉藤十郎・小野典膳・辻小兵衛・戸田半平・齋藤久右衛門此七人踏止リ鎗ヲ合テ戰ヒケリ、鎮目市左衛門モ取テ返シテ彼輩ト同ク戰ヒケル
一説云、此時御旗本ヨリ淺見藤兵衛・小栗治右衛門・小野治右衛門・中山勘解由・戸田半平・朝倉藤十郎・辻太郎助
七人取テ返シ北ノ門迄城兵ヲ追込シト云々
右ノ七人ヲ上田七本鎗ト號シテ人々稱美シケり、時ニ牧野右馬允・大久保相模守カ勢共粉骨ヲ盡シテ戰ケレハ、左衛門佐突立ラレテ城中ヘ入ントスル處ヲ寄手ノ兵共追番テ城ヘ入ント爭ヒ進ム、安房守城中ヨリ是ヲ見テ左衛門佐救ン迚門ヲ開テ突出タリ、寄手モ爰ヲ先途ト戰ヒ追込ハ追出シ追出ハ攻入三四度揉合シカ寄手ノ兵追立ラレ危ク見ヘケレハ、本多美濃守・大久保相模守兩人馬ヲ乗廻シ軍兵ヲ下知シテ操引ニ引ケルニ、安房守モ人數ヲ下知シテ城中ニ引入ケル、其後ハ遠巻ニシテ暫ク軍ハナカリケルト云々』

 

 →つづき 

 

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