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 景正先生が安藤家に仕えたという話は、間違い?

『日本の古武術』は、景正先生を『笠間藩士』とする。
『武芸流派大事典』では、
『安藤家の臣。後に秋田安房守につかえ、また浪人した。』とある。

安藤という大名が笠間藩をやったことは一度もない。
平藩だったら安藤家だけれども、宝暦6年(1756年)以降の話。

そもそも安藤家の家臣なのは、『唯心一刀流太刀之巻』の筆者、正森先生。

『唯心一刀流太刀之巻』は、亨保7年(1722年)に書かれた。
この時、笠間藩主はアホの井上家、平藩主は左遷前の内藤家。
安藤家は加納藩主、しかも大坂城代から老中に出世した年だから、大坂か江戸にいる。
当時は安藤信友侯。吉宗公のもとで亨保の改革を押し進めたうちのひとり。
吉宗公の政策は尚武であり、加納は大垣のすぐ東隣りではあるけれども…。

『唯心一刀流太刀之巻』に、景正先生の説明として『寛文の始、俊定出席之頃、師之刀槍の奥儀を極む。祖父三右衛門正吉養子と為り、家督相続し、秋田家に仕、後牧野家に随身。』とある。
その次の文章、『安藤家に仕』というのは、景正先生ではなく、正備先生にかかる説明文。

安藤家に仕えたのは、景正先生ではなく正備先生。

景正先生は秋田家に仕えたと、書いてあるじゃないか。

 

 アンドウさんというのは、秋田さんのことか

安藤というのは、もしかしてアンドウ違い、安東のこと?
昔の人は当字も多くてまちまちで、特に室町時代ごろまでは一般的に安東よりも安藤と表記することが世間には多かった。

安東家は、「秋田」を名乗る。秋田城介の秋田。
奈良時代に大和朝廷の力が東北にそれほど及んでいなかったので、エミシだのエビスだの、東北の未開の人々を服属させなければならない。
出羽秋田には前線基地「秋田城」が置かれて、正規の制度外ではあるが「秋田城介」という役職が置かれた(秋田基地司令、大佐、というくらいの意味)。
つまり、東国支配をまかされている人ということであり、小型の征夷大将軍みたいなものであって、もちろん戦国時代にはとっくに有名無実化していて、ただの形式的な肩書にすぎないが、東北地方では立派な肩書だった。

安東家は湊と檜山に分裂して長く対立していたのを、安東愛季侯が統合し、晩年に「秋田」と改姓し、そのお子さん実季侯は宍戸藩主になる時に「生駒」だか「伊駒」だかに改姓して、後日やっぱりやめて「秋田」に戻した。
その後しばらく、秋田家の当主は、安東太郎と言われた。秋田安東とも呼ばれた。

安東家は、「安倍」とも名乗る。安倍貞任公の子孫ということになっていたから。

安東だか秋田だか生駒だか伊駒だか安倍だか、よくわからないから、鎌倉時代以来の言い慣れた安東で呼ばれることも多かったかもしれない。
山本大・小和田哲男著『戦国大名系譜人名事典 東国編』新人物往来社1985で「秋田実季」を引くと、
『慶長三年、新たに土崎湊城を築いて近世大名の道を進んだ。正式に「秋田氏」を称するのは、この時代からである。』とある。

秋田家の家臣ということだったら、「アンドウ家に仕えた」と言えなくもない。
宍戸は、笠間地区とか笠間地方ではある。
藩とか藩士とかは、しょせん後世の言い方だから、「笠間地方で大名の家来をしてた人」なら、笠間藩士と呼ばれてもそれほど間違いではない。

しかし、寛文は1661年から。
秋田家は1645年には宍戸を去ってしまう。
景正先生が古藤田先生の剣術を習い終わってないうちに、秋田家は笠間地方からいなくなるっていう…。

秋田家は、俊季侯のあと盛季侯が継いでおり、この人が秋田安房守。
秋田盛季侯は、寛永18年(1641年)から安房守、慶安2年(1649年)5月14日から延宝4年(1676年)2月26日死去まで三春藩主。
この人が景正先生の御主君ということ?

年代的には合う。
それにしては、
三春に唯心一刀流があったという話を全く聞かない
三春藩で秋田安房守を称する人は、ほかには11代目の肥季侯しかないが、これは19世紀に入ってから。

 

 磐城平藩安藤家、三春藩秋田安東家、景正先生が、一致する一点!

のちに磐城平藩になる安藤家は、17世紀には3代に渡って高崎藩をやっていた。

安藤重信侯は、元和5年(1619年)10月(日付不明)から、7年(1621年)6月29日に亡くなるまで高崎藩主。

同日付で安藤重長侯が継ぎ、明暦3年(1657年)9月29日に亡くなるまで高崎藩主。
その娘さんは、宍戸藩の秋田盛季君に嫁いで、正室になっている!
三春藩松下家が改易されて、三春城の受け取りは安藤重長侯が担当し、そこへ宍戸から移封してきて新しい三春藩主になるのが秋田俊季侯、その息子が秋田安房守盛季侯なのである。
ということは、このころ景正先生が接触していたとすれば、『安藤家の臣。後に秋田安房守につかえ、』ということになるかもしれない。

安藤家と安東家(秋田家)、景正先生がどっちの家臣だったとしても、のちに安藤家には唯心一刀流が伝播しうる。

…が、この時の景正先生は、まだ唯心一刀流をマスターなさってない。

そういえば、大名の娘さんを警護する藩士は、生家の藩士なのか、嫁ぎ先の藩士なのか、所属とは別に出向みたいなこともあるだろうし、いろいろな表現で書かれることになるのかもしれない。
ひとつ見かけた例をあげておくと、志摩鳥羽の内藤忠政侯の娘、波知殿が、播磨赤穂の浅野長友侯に嫁いだ時、内藤家の家臣の奥田孫太夫殿は付人として一緒に浅野家に入っている(これがどういう立場なのかよくわからないのだが、どうも浅野家の家臣になったということらしい)、ところが波知殿は内匠頭長矩侯と御舎弟大学長広殿を産むとすぐ、寛文12年(1672年)に早死に、この時点では浅野家に仕えているのかもしれないが、そのあと延宝8年(1680年)に鳥羽藩内藤家が改易になると、奥田殿は浪人になったというのが、またよくわからないうえに、しかも奥田殿の息子の兵右衛門重盛殿が孫太夫の名を引き継ぎ、こちらは浅野家の家臣なのである(のちの四十七士の一人)。
大名家の嫁入りと共に剣術が他藩に伝播した例といえば、両剣時中流がある。

明暦3年(1657年)11月21日、安藤家の家督は安藤重博侯が継ぎ、元禄8年(1695年)5月1日に高崎藩をやめて、備中松山へ移封になる。
景正先生は1660年代ごろ唯心一刀流を継承なさったので、ちょうどこのころに指導なさっていたはず。

この時期でも、安藤家と秋田家は交流があるだろう、親戚だから。

景正先生の仕官先がどこであろうと、安藤家と秋田家は交際がある。

このあと安藤家は備中松山藩で代替わりして安藤信友侯が継ぎ、美濃加納へ国替え、安藤信尹侯を経て、次の安藤信成侯の時に磐城平藩に来るのである。

安藤家が磐城平藩をやるのは、宝暦6年(1756年)5月21日から。
景正先生が唯心一刀流をマスターなさってから、ざっと1世紀が過ぎている。

磐城平藩に唯心一刀流があったことは確かで、藩士の中山正方先生は景正先生の直弟子。
ということは、中山先生は、晩年の景正先生に入門なさって、磐城平の藩士におなりになった時には御高齢だったということになるのかも。

ということは、加納藩に唯心一刀流が存在した時期もあったのだろうと思う。

なお、赤穂浪士の一人が秋田家と同族なのだが、その話は真壁藩のページ。

 

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