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 牧野家に「随身」という話

『唯心一刀流太刀之巻』によれば、景正先生は『牧野家に随身』したと書いてある。
当時、随身という言葉のニュアンスがどうだったか、よくわからないけれども、まあ普通には、お供をするという感じだろうとは思う。
もしかして、アンドウ家をやめてから非公式な再仕官か、浪人のままで食客か、なんらかの形で牧野家に身を寄せていたということ?

どの牧野家か。
牧野という家は大量にある。旗本にもいるし、大名の家臣にもいる。

大名になった家だけでも5つ、せめてこれだけでもチェックしておきたい。

寛文は1661年から1673年まで、約13年間あった。
『寛文の始め』と言うからには、前半3分の1、1661年から1665年くらい、このころ20代後半で唯心一刀流を修了なさったと仮定、そのあと90代まで長生きなさったと仮定。
アンドウ家を辞した後、牧野家に随身するのは、5か月後か、50年後か、ちょっとわからないけれども。
同時代の牧野家当主の生没年(任期にあらず)を、余裕をみて、その前後の人も含めて、以下に列記。

 

  牛久保牧野家(本家)  大胡、長峰、長岡

忠成侯(初代) 天正9年(1581年)〜承応3年(1655年)
忠盛あらため忠成侯
 寛永12年(1635年)〜延宝2年(1674年)
忠郷あらため忠辰侯 寛文5年(1665年)〜亨保7年(1722年)
忠寿侯 元禄8年(1695年)〜亨保20年(1735年)

忠辰侯は、武術家を新規採用していたらしい。
『 長岡藩が家臣の数を急激に増やすのは、三代藩主牧野忠辰の頃である。新田開発の効果があがり、実収高も増加したことにもよるが、忠辰が芸能者をさかんに採用したことが大きな要因だ。忠辰は能楽をたしなみ、能役者を採用したり、武術の練達者を長岡城下に住まわせたりしている。』(『シリーズ藩物語 長岡藩』)

同書に掲載されている『長岡藩における藩士の登用人数』という表から、総数だけ抜粋。
寛永15年(1638年) 263人
寛文年間(前述)   493人
元禄2年(1689年) 486人
宝永4年(1707年) 524人
安政6年(1859年) 534人

長岡藩は誇り高い三河武士団だけれども、よそ者を全く入れなかったわけでもなく、長岡出身の偉人として有名な山本五十六元帥も、もともと信濃上田の真田家の家臣だった高野家。

しかし、長岡に唯心一刀流があったという話は全く聞かない。

 

  長岡分家  與板、小諸

康成侯 元和3年(1617年)〜明暦3年(1658年(旧暦12月30日))
康道 慶安3年(1650年)〜亨保5年(1720年)
康重 延宝5年(1677年)〜亨保7年(1723年)
康周侯 宝永3年(1706年)〜宝暦8年(1758年)(宝永3年8月16日生まれ、一説にはその翌年生まれだともいう)

ここも長岡同様、表高のわりに藩士が多い藩だったようだけれども、唯心一刀流があった形跡が皆無なのも長岡藩同様。

 

  長岡分家  旗本(三根山領)

定成殿 元和3年(1617年)〜万治元年(1658年)
忠清殿 元和6年(1620年)〜元禄6年(1693年)
忠貴殿 寛文2年(1662年)5月〜宝永3年(1706年)
忠列殿 元禄8年(1695年)〜宝暦4年(1754年)
忠知殿 亨保10年(1725年)〜寛政12年(1801年)

この家は江戸時代を通じてずっと旗本だったものが、幕末ギリギリ、最後の当主だけが大名になった。
もし景正先生に関連があったとしても、御旗本では、なかなか
記録に残りにくいか、記録に残っていても見つけにくい(俺が)。
『家臣数は、十九世紀中頃(安政〜万延)で三十数家が数えられるが、』(『藩史大事典』)

長岡藩に採用されないものが、旗本の家来になっていたというのも、可能性はあるかもしれないけれども考えにくい。

 

  長岡分家  旗本(5千石)、その分家(2千石)、関宿、吉田、延岡、笠間

儀成殿 慶長11年(1606年)〜万治3年(1660年)
成貞
 寛永11年(1634年)〜正徳4年(1712年)
成春侯 天和2年(1682年)〜宝永4年(1707年)
成央侯 元禄12年(1699年)〜亨保4年(1719年)
貞通侯 宝永4年(1707年)〜寛延2年(1749年)

のちに長岡藩よりも家格の偉い大名になる家。
笠間には唯心一刀流があった
。しかも、景正先生のお弟子さんたちが指導していたのである。
示現流も、この牧野家が笠間に持ち込んで、笠間で盛んにおこなわれた。
笠間藩に藩校を設置したのも、笠間の剣術が有名になったのも、この牧野家が藩主をやっていた時なのである。
おそらく、これが本命なのではあるまいか。

というより、牧野家の藩に唯心一刀流があった例は、笠間以外に聞いたことがない。

 

  山城守牧野家  石戸、関宿、田辺

信成侯 天正6年(1578年)〜慶安3年(1650年)
親成
 慶長12年(1607年)〜延宝5年(1677年)
富成 寛永5年(1628年)〜元禄6年(1693年)
英成 寛文11年(1671年)〜寛保元年(1741年)
明成侯 宝永4年(1704年)〜寛延3年(1750年)

この家だけは、ほかの牧野家とは別の、少し遠い親戚(早くに分かれた家系)。
やはり、
唯心一刀流があったという話は聞かない。

 

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