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 前田家と奉行衆による家康公弾劾

 

 慶長4年(1599年)1月19日

前田家を中心に、家康公に対する批判が起きる。

前田家は菅原道真公の末裔で、家紋も梅鉢。
菅原道真公には息子が100人いたことになっており、子孫と称する者は何万人もいる。俺の同級生にもいた。

秀吉公の死後、前田家は徳川家に匹敵しうる大物で、徳川家の権力拡大に対しても手厳しく批判的で、反徳川勢力の大親分だった。
波風を立てず温和に時流に乗って、ほどほどに大人の対応をする前田家が、この時は珍しく強気だった。

 

  1月21日

大名同士の私婚、つまり、勝手に親戚になることは、人質を伴う強固な軍事同盟にほかならないから、禁止されていたし、しませんと秀吉公に誓い合ったことだった。ところが…。
 家康公の六男の忠輝公と、伊達政宗公の娘。
 福島正則公の跡取り息子と、松平康元侯の娘(家康公の姪で養女)。
 蜂須賀家政侯の跡取り息子と、小笠原秀政侯の娘(家康公の養女)。
…という婚約がおこなわれていた。

この日、豊臣政権の五奉行から、伏見の家康公の屋敷へ、あんたは決まりを破ってますよね、大老を辞任しますか?、という使者が来る。
ところが、豊臣恩顧の大名たちが馳せ参じて、家康公の屋敷を固めて警護したので、ものすごい大軍勢になってしまう。
この時は大谷吉継侯まで、家康公を味方したという。

大坂奉行衆は、この軍事力にビックリして、なにも悪くないのに謝罪して、事態の収拾をはかった。
悪いのは家康公であり、大坂奉行衆がとがめるのは正しいことなのだが、ウヤムヤになった。

家康公と奉行衆の対立、これの決着が関ヶ原なのである。

 

  2月2日

細川忠興公の仲介で、お互いに誓紙を出し、利家公と家康公が和睦

 

  2月18日

俗説では、この日、京都の大仏殿で秀吉公の葬儀がおこなわれた?…というのだが、本当なのかどうか、よくわからない。
『三壷記』、『太閤秀吉公御葬式御行列記』、『豊太閤葬記』など、かなり盛大な式を執り行ったという話もあるのだが、それは江戸時代になってからの書物に書いてあることであり、この当時の人たちの私的な日記類には、そんな話は全く出てこないという。

海外への侵略戦争の途中だったので、内外への影響を考えて、死んだことはしばらく伏せてあった。
フロイス『日本史』に、秀吉公の具合がどうか死んだかどうかを口にしてはならぬという禁令が出ていたこと、それに従わなかった大名の下僕が磔に処されたことが書いてある。
徳川、前田、上杉が対立していて、ポスト秀吉の権力争いをやっているのだから、この葬儀を取り仕切る人は次の権力者だから、誰が主導するとも決まらず、一同が仲良く足並み揃えるわけもなく、そのまま関ヶ原になってしまい、正式な葬儀をやりそびれた、という説もある。
しかし、このあとも大坂の陣まで、豊臣家は一応は天下のトップにあったばかりか、寄進だの建立だの、さかんに宗教的なことばかりやっているので、あるじの葬儀をやらずに十年以上もほっぽっておくとも思えない。

 

  2月29日

この日、利家公は伏見の家康公の屋敷を訪問。

 

  3月11日

家康公は、大坂の利家公の屋敷を訪問。病気見舞。
利家公は病気が悪化しており、あとに残る息子をよろしくと家康公に頼んだとか、布団の下に刀を抜身で隠していたとか。

一説には、この時、三成侯は家康公を大坂で暗殺しようと計画したが、躊躇しているうちに家康公が帰ってしまい、実行されなかったという。

 

  閏3月3日

利家公が病死。前田家は利長公が継ぐ。

 

  閏3月4日

利家公は、奉行・官僚派たちから擁立された反徳川のリーダーであると同時に、武闘派大名たちの軽挙妄動を押さえている存在だった。
なにしろ、秀吉公の親友で先輩で重臣だから、超大物だったのである。

利家公が亡くなったため、豊臣恩顧の武闘派の大名たちが蜂起。
加藤清正公、福島正則公、浅野幸長公、蜂須賀家政侯、藤堂高虎侯、黒田長政侯、細川忠興公が、かねてから気にくわねえ石田三成侯を襲撃。

朝鮮侵略は、あきらかに侵略なのだから、現地の方に申し訳なくて、やってて後ろめたい行為。
しかも、ものすごく苦労したわりに、骨折り損のくたびれ儲けで、ちっとも達成感がない。
悪いことでも、やり切って、なし遂げたならまだしも、途中で挫折して、おめおめと引き返したというのは、気持ちが煮え切らない。
豊臣大名は、秀吉公の子飼いだったり、最初から秀吉公と共にがんばって天下統一をなしとげた人たちだから、秀吉公には恩もあるし心酔もしてるし、どっちみち秀吉公はもう死んじゃったので、秀吉公を恨むこともできない。
ただでさえモヤモヤ、イライラしてるところへ、「戦いもしないで、告げ口ばかりして、ちゃっかり儲かった奴」なんてのは、そりゃあもう、ここに怒りをぶつけるのは当然ではある。

三成侯は、伏見城の自分の屋敷に逃げ帰ったが、屋敷を取り囲まれる。
家康公が仲裁。

 

  閏3月9日

三成侯は失脚、佐和山城に蟄居。
家康公は、護衛をつけてやって三成侯を佐和山へ送った。

見殺しにすれば手間が省けたものを、救った理由は、諸説ある。
生かしておいたほうが、豊臣大名たちが徳川家の味方について戦う動機になる、と本多正信侯が進言したからだとか。
気に入らない奴は殺すということがまかり通ると、また天下が無秩序になって、家康公にも刃向かっていいということになっちゃうので、ここは豊臣政権の最大の大老として、リーダーシップと良識と貫禄を見せておいたほうがいいのだとか。

 

  閏3月19日

この日、家康公は、黒田長政侯と蜂須賀家政侯の名誉を回復してやる。

蔚山城へ救援の時、先鋒のくせに戦わなかったとかなんとか目付にチクられて罰せられたが、そんなことはない、なにも落ち度はなかった、処分は不当であった、没収された領地は返還する、と発表。
後世まで証拠となるよう、書状にして、大老の連名で発行した。

もちろん、この2人は感激して、ますます家康公の味方につくことになる。

 

  9月7日

利家公が亡くなって、前田家は息子の代になったことだし、そろそろ徳川家は前田家の始末を始める。

前田利長公がひそかに家康公の暗殺を企んでいた、と徳川家が主張。
これは徳川家のでっちあげだとか、そうだとしても前田家は徳川家を倒すつもりだったから後ろめたくて反論しにくかったとか、諸説ある。

家康公としては、これで前田家が戦争しかけてくれれば潰す口実ができ、おとなしくなってくれればそれでもよし。

 

  9月

転封まもないから領国の整備をしなきゃならないとかで、景勝公は会津に帰る。
先月くらいから、城の増強、道路や橋の整備、武器と兵糧の備蓄、将兵の増員など、どう見ても上杉家は戦争準備を始めていた。

これは当然の行動だとも言える。
謀反を起こす気があってもなくても、このあと政局が混乱するのはわかりきっているし、徳川家が260年も日本を支配するとは、まだ誰も知らないから。

 

  10月

暗殺計画の犯人の前田家を、処罰する、と徳川家が勝手に話を進めてしまう。
前田家は必死に釈明し、当主が隠居すること、嫡男に秀忠公の娘を嫁に迎えることになった。
このあと、6月6日には、実母おまつ殿が江戸に出向いて人質にもなった。
家康公暗殺計画が、真実でもウソでも、どっちにしても前田家は潔白を証明しなきゃならないので、これ以降は、徳川家にペコペコする立場にされてしまう。

浅野長政侯も、暗殺計画に加わっていたとされ、形の上では領地の甲斐に謹慎。
徳川びいきの浅野家を、豊臣側から切り離すことができた。

これ以降、豊臣政権の「五奉行」は、石田三成侯&三奉行になる。

息子の嫁が利家公の娘だったため、細川忠興公からも人質を出すことになった。
このころ、諸大名から人質を取るよう、藤堂高虎侯が家康公にすすめたとか、藤堂家が率先して人質を出したとかいう。

 

 →つづき 

 

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