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 上杉景勝公の謀反?と、会津遠征

 

 慶長5年(1600年)1月

家康公は景勝公に上洛を命じる。
あることないこと言っておどかせば、前田家と同じように上杉家もペコペコする、それならそれでも結構、しかし、おそらくは上杉家は突っぱねてくる、それならそれで潰す口実になる。
上杉家はクソまじめなので、あしらいやすいのである。

案の定、景勝公は、上洛の命令に応じなかった。
本当なら呼ばれるまでもなく正月の挨拶をしに、大坂へ顔を出すのが筋なのだけれども。

「百万石の殿様」というのは前田家の代名詞であって、前田家というのは利家公以来、おおらかというか、柔軟な対応をする。人から嫌われるようなトゲがない。
のちに前田利常公は、謀反を起こす気がないということがわかりやすいように、鼻毛をわざと伸ばしてバカ殿に見せかけていた、という逸話がある。

ところが上杉家というのは、謙信公以来、ムスッとしていてネクラで、笑わず、硬派でストイックで、ピリピリした空気で一糸乱れずビシッと統率された、正義の神軍だから、相手が信玄公だろうと家康公だろうと毅然としているのである。

謙信公が正義の人だったという評価には、反論もある。

『 それでは関東遠征はどうして行われたのだろう。
 三国峠を越えて関東に討ち入るのは、十四回にもわたっている。しかも冬期に多く、関東で新年を迎えるのは、八回にも及んでいる。
 これについても簡単な理由が考えられる。
 謙信は戦の上手い、雪国の大名であったからだ。冬期に入って、食い詰めた領民たちを率いて関東に討ち入り、敵兵や人々から食糧を掠奪したり、人身売買することによって喰わせるためだった、と思われる。
 実際、永禄九年(一五六六)に関東の小田城を開城させると、その際、籠城していた人々を売買する許可を謙信は与えている。
『別本和光院和漢合運』に、「二月十六日、小田開城、カゲトラ(景虎=上杉謙信)ヨリ御意ヲモツテ、春中人ヲ賣買事、廿銭卅貳程致シ候」とあり、二十銭から三十二銭ほどで人身売買の許可を出していたことがわかる。
 捕虜を現金に換えることは、謙信も信玄と同様で、当時の東国では通例だったようだ。』
(吉本健二『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』学習研究社2006)

 

  2月

上杉家は謀反らしいぞ、ということを、近隣の諸大名が家康公へチクる。
出羽の最上義光侯や、越後の堀直政侯が、通報したという。
堀家は、年貢のことで上杉家には恨みがあった。
しかし掘秀治侯(堀家の、主君のほう)は、じつは石田支持だったともいう。

 

  3月18日

上杉家は新たな城まで造り始めた。神指城。

 

  4月1日

家康公はもう一度、上杉家に恭順を要求。
使者と手紙を送って、誓紙提出と申し開きのための上洛を求めた。

武士の感覚では、直接手紙を送るというのは失礼であって、なぜなら、貴様と俺は対等の間柄で自由にモノが言い合える仲だ、ということになってしまう、さらに、おまえの時間をさいて必ず読め!返事を書け!と強要する格好になるから、対等どころか、こっちが上になってしまう。
だから本人宛にせず、側近に対して手紙を書いて、よろしくお伝えくださいという形にする。脇付とか披露状などという。
本人に話が伝わることは前提にしてる、というか、どうせ本人が読むんだけど。

軽々しく手紙を送ると自分の価値が下がるから、偉い人は自分で書かずに、秘書官とか侍従みたいな人が書いて「うちの殿様はこう言ってます」という形で伝える。
親しみを込めて伝える時は、親書とかホットラインだけれども、代筆ですませる場合もよくある。
いざという時に「あれは秘書が勝手にやったことです」と言って逃げるためでもある。

家康公から景勝公への手紙は、外交僧の西笑承兌禅師の名義で送っていた。

 

  4月14日

上杉家の名宰相、直江兼続侯が、15か条からなる強気な反論の手紙を送ってよこす。いわゆる直江状。
もともと兼続侯は、三成侯と仲良しだったりするんだけれども。

 国替えしたばかり、上洛したばかりで、また上洛しろって言うんじゃ、内政をいつやればいいんですか、雪国だから冬は何もはかどらないのですよ、とか。
 誓約書を書かなくたって誓いは立てられるし、今まで誓約書はたくさん提出しているのに、それを紙クズ扱いするのであれば、これ以上、何枚書いても意味がないでしょう、とか。
 上杉景勝は律儀だ、と思ってくださるなら、じゃあ、そもそも疑う必要ないではないですか、もっとも世の中には、コロッと態度を変えて豊臣家にそむいてる誰かさんみたいなのもいますけどねー、とか。
 上杉家の悪口を言う奴がいるからといって、言ってることが本当かどうか吟味しないで、上杉家が悪者と決めつけてかかって疑うってのが、そもそもおかしくないですか、そういう一方的な対応してる家康公こそ、なんかやましいところあるんじゃないんですか、とか。
 前田家は家康公の思惑どおりの処分になったようで、いやはや、家康公の御威光ってのはたいしたもんですねぇ、とか。
 上方の武士は茶器など人たらしの道具をお持ちになるが、田舎の武士は武具をちゃんと支度しておくものでしてね、その国々の風俗と思ってください、とか。
 もし我々が戦争をたくらんでいるのなら、街道を封鎖して、橋を落とすはずでしょう。道を作り、橋を付け、往来がわずらわしくないように整備するのは、統治者のつとめであって、それをビクビクしてなんかいろいろ言ってる奴は掘直政だけですよ、あんな奴は軍事がわかってないバカだと思ってください、とか。

 家康公または秀忠公が下向なさるとのことですが、その時に万端つかまつる(おまえらが会津を攻めて来た時に決着つけてやるからよ)、という過激な追伸文までついていることもある(笑)

この手紙は、敬語の使い方がおかしいとか、この時代の言葉使いと違うとか、こんな追伸文をつけるわけがないとかで、後世でっちあげた偽書じゃないかという説があるが、これが偽書かどうかは、まったく無意味。

要するに、これって原本がなくて、ちょっとずつ違う写本が広く出回っているという。
おそらく後世の人が、面白おかしい内容に、より過激に、あっちこっち加筆修正しているに違いないという。
まあ、よくある話で。
こういうことは武術書でもよくある。言うと怒られるけど、有名な武術書にもある。
だからといって、まるごと全部が偽書だとは限らない。

とにかく、上杉家から返答があったこと、家康公が激怒する内容だった、または、激怒したフリをしても自然に見える程度には無礼な内容だったこと、ここまでは確か。

 

  5月3日

家康公が直江状を読んでブチ切れたのは、この日。

謀反を準備している上杉家を、お仕置しなきゃならねえ、という話になる。
増田長盛侯、長束正家侯、中村一氏侯、生駒親正侯、堀尾吉晴侯が、『御腹立、御尤』と、家康公をなだめて、会津出征を止めようとしたが、怒っちゃっていて止められなかった(『古今消息通』)。

 

  6月2日

家康公は会津出征の日程を関係各方面に指示。

 

  6月8日

大坂城で会津出征の作戦会議。

 

  6月10日

上杉家は諸将に迎撃体制に入るよう指示。

 

  6月15日

秀頼公から軍資金として金2万両、兵糧として米2万石が、家康公に支給される。
会津出征は豊臣家公認の軍事行動だということ。

 

  6月16日

家康公は大坂を出発、会津へ向かう。

 

  6月17日

要するに、家康公は、わざと近畿地方を留守にしてみせたという一面もあった。
そうとわかっていても三成侯としては、家康公の軍勢がいないスキに挙兵して、畿内を押さえることになる。

家康公は伏見城に寄り、この日、鳥居元忠侯とサシで飲んだとかなんとか。
伏見城は西軍に取り囲まれて滅ぼされる(「捨て城」になる)ということが、わかりきってる。
それを、老い先短い元忠公が、死ぬとわかっていて留守番を引き受けた。
人数が少なくて大変だろうが…と家康公が言いかけたのを、元忠侯がさえぎって、いえいえ一人でも多く会津に召し連れなされ、なんつって、今までの思い出を語り合い、丁重に挨拶して退出する後ろ姿を見送りながら家康公は泣いていたとかなんとか。

家康公は、留守中の伏見城防衛を、羽柴兵庫頭こと島津義弘侯にも依頼している。
島津家も捨て駒であり、伏見城で滅びてくれても手間が省けていい気味、仕事放棄して逃げ出してくれれば滅ぼす口実にもなる。

 

  6月18日

家康公は伏見城を出立。

 

  6月20日

三成侯は、会津討伐軍の出発を上杉家へ通報。

 

 →つづき 

 

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