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アクセ〜ス われわれキーボードを弾く者の間では、アクセスという言葉を言う時には、麻生太郎さんのような声色で、「アクセース」と言うしきたりになってるんですけど。 厳密に言うと川中島ではなく、篠ノ井という所です。 駅の名前も篠ノ井。川中島駅の2つ南どなり。
ふてぶてしい 現地の電車内の窓上広告に、こーんなのがあるんですわ。 こーんなの。 喧嘩なら買ってもいいが、俺と戦うなら必ず不幸にしてやる。 どうぞ御来園くださいませという広告に、このようなバカづらを出して、世間様をなめているというのは、一体どういう神経してるのか、これはいよいよ訪れて自分の目で確かめないわけにいくまいて。
あなた好みの、あなた好みの 駅についたら、ホームに、こんなのがあって。 「すてないでください」 これはゴミを線路に投げるなということなんだろうけれども。 そんなことは、まあいいとして、とにかく最寄駅まで来たと。
駅から遠い 山の上にあるのですよ…。 長野県北部に、善光寺平とか長野盆地とか呼ばれる平地部分があって、これは川が削ったのではなく地震断層の沈下部分を川が通ってるわけですが、この盆地の西のふちにある。 地元のみなさんは、クルマで行く想定なんでしょうね。駐車場は無料。 歩こうと思えば歩ける距離だけれども、なんで茶髪野郎のために炎天下の坂道を歩かなきゃならんのか。 そりゃ中部地方を歩くからには、どこ行っても山ですよもちろん。 結局タクシー。2150円。 俺は新宿でも渋谷でも池袋でも、終電をなくせば歩いて帰る人間なのですよ。 果樹園の中を曲がりくねった道なので、12〜13分くらい。 運転手さんに電話番号を頂いて、帰りも、このタクシー会社さんを呼びつけることになった。 ずっとあとで知ったんだけれども、じつは駅からバスが出ている・・・ ところで、この山は、信玄公が布陣したという俗説になっている。
やっと話が俺のサイトらしくなってきた 1561年、武田家の武将の春日虎綱侯、いわゆる高坂弾正先生が、海津城にいて、2千人ほどを指揮して川中島一帯を確保していた。 そこへ、長尾景虎あらため関東管領上杉氏になった上杉政虎公が、1万3千を率いて来る。 虎綱侯は信玄公に通報。この時代の連絡方法は狼煙リレー。 武田家は北信濃の拠点を取られたくないし、今なら上杉軍は川を2つも背負っていて、いわゆる背水の陣で、後がない。 しかし信玄公はあわてて海津城に飛びつくほどマヌケではないので、西に大きく回り込んで茶臼山に布陣。 てっきり地蔵峠のほうから武田軍が来ると思って、待ち構えていたために、上杉軍は対応しそびれた。 (↑越後) ↑ 上杉軍は、海津城と茶臼山から挟み討ちにされて、補給も退路も断たれ、動けなくなってしまった。 …とかなんとかいうのが、川中島の戦い(と総称されるものが5回ほどあったうちの、数え方にもよるが普通は4回目、この一連の戦いの名前の由来にもなった唯一最大の激戦)の、序盤の、主導権争いだということになってるけれども。 武田信玄ほどの達人が、こんな所に陣を構えるかね? 物見は上げたかもしれんが。 上杉軍を妻女山から引きずり出さなきゃ仕事にならないのに、自分がこんなとこに登ってどうすんのか。 軍隊というものは、坂を攻め降りるほうが、勢いがあって、勝てるのですよ。 退路をふさぐと、かえって敵が強くなってしまうのですよ。 …ということに気付いたので、武田軍は山を降りて包囲を解いて、海津城に合流した、という言い伝えになっているけれども、武田信玄ほどの人がですか? 勘助先生が作戦を立案したという話はまあ置いといて、車懸りだの、一騎討ちを軍配で受け止めただの、ウソばっかり。
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