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 80年
このころ内閣との調整がおこなわれ、パンダは日本政府から上野動物園へ譲渡され、上野動物園の「所有」になる。
すでに剥製のランランも、上野動物園のもの。

 80年1月29日
後妻ホァンホァンが来日。今度こそ2世誕生の期待が高まる。俺がおぼえているのはこれ以降。

 80年6月30日
ところが今度はカンカンが、恋と人ごみのストレスで阿弥陀如来のもとへ。推定9歳。心不全。これまた剥製で多摩に鎮座。

 

 80年3月23日
福岡市動植物園に、珊珊(シャンシャン)と宝玲(バオリン)というのが貸し出され、4〜5月いっぱい公開したという。
見せ物にするのが目的の貸し出しが、まだ容易だったので、80年代ごろには多くおこなわれた。

 80年6月2日
珊珊、宝玲、帰国。

 

神戸
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 81年1月6日?
サーカス「上海雑技団」が、04年頃までは動物をこき使っていた。この日、偉偉(ウェイウェイ)という奴を連れて来日、各地を回って年内には帰ったらしい。
「ナイフとフォークで食事」「ラッパを鳴らすマネ」「テーブル上に寝転んで手足でサッカーボールを回す」などの芸を見せた。
運搬は同じトレーラーの手前にパンダ、奥に猿4匹の檻があり、笹を食べれば優遇されると思い込んだ猿4匹は、しきりに笹を食べたという。この猿たちは舞台ではパンダのお面を頭につけてシーソー芸をおこない、パンダの前座をつとめた。猿を家臣にしてたわけだ。

 

 81年3月10日
寨寨(サイサイ)と蓉蓉(ロンロン)が来日。人工島での地方博「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)」に展示。

 81年9月17日
かなり広いパンダ舎で公開され、窓も大きいが通路も広く、待ち時間はそれほどないが前の野郎の頭でぜんぜん見えなかったという。撮影禁止だったという証言もあるが、正しくは、フラッシュが禁止だったようだ。この日、帰国。

 

 82年11月9日
日中国交回復10周年記念として、フェイフェイが来日。中国が無償譲渡した最後のジャイアントパンダ。このへんから明確に第二次ブーム。後妻と養子の結婚。

 

 83年
この年、獣医師2名が中国へ5日間、人工授精の研修。

 

白浜
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 84年
日本にコアラブームが起きて、あんまし動かない者同士で人気を二分する。
おしとやかな美少女はコアラを好み、出しゃばりなブスはパンダを好む、などと言われて、パンダの旗色が悪かった時期もあった。

 

 84年8月
中国で
哈藍(哈蘭、哈欄と書いている資料もあり。ハ−ランが保護される。

 84年9月9日
成都で慶慶(ケイケイ)が誕生。メス。

 

 85年3月9日
ホァンホァンに人工授精。
フェイフェイとの相性が最悪で、仲が悪くて交尾に至らないため、ムリヤリ人工的にしてしまった。

 85年6月27日
ついに第1子誕生。オス。のちにチュチュ(初初)と命名。

 85年6月29日
43時間後、チュチュは母ホァンホァンの下敷きになって死亡。現在はホルマリン漬。

 85年6月26日
メキシコ3姫のひとりシーファが誕生。シーホァという表記も見かける。

 85年9月5日
北京動物園でリンリ
ン(陵陵)が誕生。

 

 86年6月1日
6時53分、第2子誕生。今度は動物園のスタッフが24時間つきっきりで監視。第二次ブームの頂点。
動きが力強く活発なので、最初はオスかと思われていた。この時代には、こういうことが多かった。

 86年12月1日
トントン(童童)と命名。公募には世界13ヶ国から27万通2万種類の応募があったという。

 86年12月15日
トントン命名式と特別公開。

 86年12月16日
トントン一般公開。尾の先が黒い、珍しいパンダ。

 

 86年8月6日
成都で
冰冰(ビンビン。氷氷と表記している資料もある)が誕生。暑い日に生まれて氷を用いたのが由来。のちに高齢出産の世界記録を作る。淫乱の血筋。大繁栄の基礎となった偉大なメス。

 

 87年月4月
リンリンは、ユンユンというメスと共に約1年半、アメリカの2つの動物園で見せ物にされる。この頃すでにフライングパンダだったわけだ。

 87年6月15日
メキシコのチャプルテペック動物園で、シュアンシュアン(双双)誕生。双子で生まれたために、この名前になったが、もう1頭は亡くなったという。

 87年10月28日
トントンはオスである確率が60%との発表。なんだそれ。

 

 88年3月15日
ホァンホァンに人工授精。

 88年4月13日
エアコン付の新パンダ舎が建築され、フェイフェイとトントンが引っ越し。
ホァンホァンは妊婦の可能性があったため、しばらく残る。

 88年6月23日
4時10分、第3子誕生。おとなしかったので、最初はメスかと思われていた。

 88年12月17日
ユウユウ(悠悠)と命名。12万通1万種類の応募があったという。

 88年12月24日
ユウユウ命名式と特別公開。

 

 88年3月25日
辰辰(シンシン)、慶慶が来日。岡山の大名家の私有の動物園「池田動物園」で「中国三大珍獣展」に出演、7月5日まで。

 88年7月9日
辰辰、慶慶、「青函トンネル開通記念博覧会」の函館市赤川町笹流ダム会場に出演、9月18日まで。予定したほど客が集まらなかったという。

 88年9月19日
辰辰、慶慶、和歌山県白浜町のテーマパーク「アドベンチャーワールド」に出演。

この時の、辰辰、慶慶のコメントが、『パンダの肉声』と称して、11月27日付朝日新聞『天声人語』に掲載されている。
『 私たち、いま和歌山の展示場ぐらしです。3月に岡山の動物園に来て瀬戸大橋開通のお祭りに一役かって、7月に中国に帰れると聞かされていたのに、なぜか函館博に遠征して、さらに和歌山に年末まで。それぞれ数千万円でリースされたんだと、さく越しのささやきも耳に。地方博ブームでレンタル希望が数え切れないとかで。
 思い切っていいますけど、客寄せパンダはもうごめんというのが一族の気持ちなのです。故郷にも仲間はもう1000頭もいません。』

 

 89年3月13日
ホァンホァンとユウユウも新パンダ舎へ引っ越し。

 

 89年1月10日
辰辰、慶慶、帰国。
慶慶はその後、武漢に住んだらしい。

 89年9月15日
東東(トントン)、冰冰が来日。甲府市の市政百周年記念博覧会「こうふ博’89」、小瀬スポーツ公園で「パンダ展」。成都と姉妹都市でもあり、竹の開花を心配した甲府市民(特に児童)が、自主的に小銭をためては寄付していたという。

 89年11月12日
東東、冰冰、帰国。
冰冰は帰ったが、このあと冰冰の娘が白浜に住むことになる。

 

 90年7月1日
メキシコ3姫のひとりシンシンが誕生。

 90年5月16日
ホァンホァン発情。

 90年5月28日
人工授精を試みたがフェイフェイから精液採取できず。

 90年10月7日
オスかと思っていたトントンにメスの発情兆候。

 

 91年5月3日
ワシントン国立動物園から凍結精液が届く。

 91年5月16日
トントンはメスであるとの発表。

 91年9月5日
トントン発情。

 91年10月7日
ユウユウはオスであるとの発表。

 

 第三次ブームへと続く→  

 

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