←戻る ああ、パンダに歴史あり 〜日本編〜

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上野
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 1967年(推定)
このころ中国では、フェイフェイ(飛飛)が生まれていた。一説には68年生まれだともいう。平武県。

 

まだ毛沢東がのさばっていた時代なので、何の罪もない人々が絵空事の共産主義を押し付けられ、パンダよりも先に檻に入れられたり、飢え死にしたりしていた。
四川のような内陸部は、特に貧困がひどかったという。
とても野生動物の監視や個体識別なんて、はかどる状態ではなかったので、捕獲しては保護していただけだから、この時期のパンダは生年月日がハッキリしない。

ソ連ではキチガ○の独裁者がやっと死んで、良識フルシチョフさんが活躍し、50年代後半からソ連はずいぶんまともになった(このあとふたたび、ブレジネフの、バカ丸出し路線に逆戻りする)。

毛沢東は小粒のスターリンなので、独裁者が国民を弾圧したり、肖像画や銅像を作って崇拝させたり、それを批判する人(つまり優秀な人)を抹殺したり、ヘタクソな農政で何千万人も餓死者を出したりって、それ全部てめえのことだから、スターリンを悪く言われると自分がヤバいもんだから、改善したソ連とはどんどん仲が悪くなり、60年代の中ソは明確に敵だった。

敵の敵は味方なので、中国はアメリカに急接近する。

アメリカは穏便ニクソン政権になっていて、ヴェトナムで恥をかくのをいいかげんにやめて、北ヴェトナムの黒幕である中ソとは仲良くする方向。
72年には、ワシントン動物園にパンダが1つがい贈られている。

西側自由主義陣営から見れば、中国の正当な政府は台湾の国民政府だが、政治は現実であるから、中国本土を取り戻すことは金輪際なさそうな台湾を見捨てて、嫌いでも共産中国とつきあっていかなきゃならない。

そして角栄さんこそは、巨大な政治家である。
ロッキード事件、族議員、利権癒着構造、特殊法人、天下り、ばらまき、ちっとも誉められることではないが、政・官・業をガッチリまとめ上げ、確実な実行力があり、功罪や好き嫌いはともかくとして、とにかく大物なのである。
しかも、万が一うまくいかなかったら私が全責任を取りますと言い切る、こんな政治家が今どきいるか?

簡単に言えば、岸、福田、森、小泉、安倍という清和会系の流れは、エリートおぼっちゃま、勝ち組優先、何でもアメリカの言いなり、経済効果が薄い。

もうひとつの大きな流れが角栄さんの方向、のちの経世会系で、庶民的、誰もが得する社会、基本親米でも日本独自の外交、特にアジア地域の連係、金には汚くてバブリー、土建屋的。
しかし、竹下、金丸、小沢、細川、羽田、橋本、小淵といった人々は、コケることが多かった。
角栄さんのやり方は角栄さんほどの大物だからこそできたのであり、そして、日本が豊かになっていく途中の時代だったのである。

もう一点、誰も指摘しないから俺が言うが、日本にパンダが来たのは、あきらかに、日本側の国家的な意思が働いている。

71年の秋、本物のわが両陛下(つまり、日本国の両陛下)が、50年ぶりに欧州7か国を訪問なさって、10月7日ロンドン動物園でチチ(♀)を御見学、もともとが生物学者であらせられる昭和天皇は大変なお喜びようだったという。
これがパンダ来日を実現させた直接ではないにしても動機のひとつだったのは間違いない。

なぜなら4年後の75年のアメリカ訪問では、10月9日たった5時間しか滞在時間がなかったサンディエゴで、両陛下は動物園見学を強行、コアラをナデナデなさったところ、親日のオーストラリアがたちまち輸出規制を法改正し、84年にはコアラ来日が実現しているのである。

天皇は決しておねだりはなさらないが、臣下たるもの、そこは察して気を利かせなければなるまいて。

 

 68年11月(推定)
このころ中国でランラン(蘭蘭)誕生。中国名アルシン。

 

 70年11月(推定)
このころ中国でカン
カン(康康)誕生。中国名シンシン。

 

 72年(推定)
このころ中国でホアンホア
ン(歓歓)誕生。

 72年9月29日
新幹線からモナリザまで動かす田中角栄首相の力で、日中国交正常化が実現。

 72年10月28日
友好のしるしとしてパンダを贈る「パンダ外交」。カンカンとランランが来る。
パンダをもらった国は、みんな、首都の動物園で飼っていたので、上野動物園が担当することになった。
ドラマのリハーサルを抜け出して動物園裏口で待機、興奮して手を振ったという黒柳さんによると、ねずみ色のジュラルミンのコンテナに入れて、羽田から時速30〜35キロのトラックで夜遅くに到着、近所の子どもたち2〜3人がパジャマ姿で迎えたという。

 72年11月4日
公開に先立ち、関係者と報道機関を集めて贈呈式。

 72年11月5日
公開開始。連日1キロもの長蛇の列。「客寄せパンダ」と恐れられる第一次パンダブーム。俺も一家そろって見物に。

 

 73年
パンダの御礼として、特別天然記念物ニホンカモシカを1つがい、中国へ贈った。

 73年5月10日
最初の半年間はトラ舎に間借りしていたが、この日、パンダ舎が公開。

 

 75年
四川でホアンホアンが保護される。

 

 77年
ランラン・カンカンに交尾が始まる。

 

 78年
このころ、上野動物園の所有動物リストにパンダがないことが判明。パンダは日本国民への贈り物であり、上野動物園に預けているだけだったのだ。
上野動物園に譲渡されるのは、この2年後。

 

 79年8月10日頃
ランランの食欲低下。

 79年8月31日
ランラン倒れる。

 79年9月4日
午前1時24分、ランラン死亡。推定10歳。公式発表では急性腎不全。妊娠中毒としている本もある。中国以外でのパンダの妊娠は世界初。のちに剥製にして多摩動物公園に展示。

 

 第一次ブームと第二次ブームの境目は諸説あり、ゆるやかに連続もしている。
 わが城の解釈では、ランランカンカン来日の衝撃は特に大きかったと思う。
 続く→ 

 

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