禅僧の杖だから、禅杖なのか? 漢字辞典では、「禅杖」の説明として、突くタイプの警策のほかにもうひとつ、「禅僧が持つ杖」などと書いてあることが多いです。 ‘金産’系統の武器も、禅僧が使っているならば、「禅杖」ということで、たしかに間違っていない。 しかし、愛用してたのは、‘金産’だけじゃない。 少林寺の武器といえば、なにをさておいても、まずは棍です。 錫杖でも、ただの棍でも、禅僧が使う杖状のものはみんな「禅杖」でよさそうなのに、どうして‘金産’系統の武器だけが、ことさら「禅杖」という名前で呼ばれるんでしょうか? 漢字辞典の話が出たから言いますが、俺は文字のせいでこうなったんじゃないかと思うんです。
「‘金産’」は、「禅」に通じる ‘金産’と禅は、どちらもChanという音で読まれることがあります それに、‘金産’と禅は、語源的に近いと思えるところがあって、どちらも「平らにする」というニュアンスで語意の核が共通してるんです。 こういうのって、正統な言語学だけでも『釈名』みたいなこじつけ気味も多く、それとは別に、言霊とか姓名判断の極意としての、あんまり世間に言いふらしてはいけないものもあります。 とにかく、禅杖という言葉には、「‘金産’系統の武器」という意味がもともとあるか、なかったとしてもゴロ合わせ的にすぐ連想させるものが確実にあると思うわけです。 『武器と防具 中国編』の記述 ひょっとすると、話が逆だと思うんですよね。 そういう、いろんな可能性の中から、どうして『武器と防具 中国編』は、「愛用されたから禅杖」という考えに限定できたのか、その根拠がわかりません。
三蔵の杖を、悟浄が持つ場合 そういえば、もうひとつ、ややこしい問題が…。 頭部は人間の頭くらいの大きさ 頭の大きな、錫杖のようです。 文中にも、たしかに三蔵は「錫杖」を持っているという記述がある。 それはいいんだけど、この挿絵を見ると、平時にはしばしば、これを悟浄が持っていたりするんです。 三蔵は馬上にあって悟浄が馬を引いて歩く、あるいは、三蔵はだれかと挨拶を交わしていて後方に悟浄がひかえている、…というような場合に、悟浄が、三蔵の杖を預かっている。 この挿絵が正しいかどうかはともかくとして、実際、錫杖を持参の僧侶が馬に乗ったり合掌したりするのであれば、弟子がぼさっとしていないで、こういう状態になるのは、ごく自然だと思います。 しかし、これで急襲を受けたような場合に、さしあたり、悟浄はこの杖を振りかざして敵刃を受け止め三蔵をかばう格好になるのか、自分の武器をいつ出すのか、自分の武器ってそれもまた錫杖なのか?(前述のとおり、劇中で悟浄の武器を錫杖と呼んでいる箇所がある。) 西遊記の外伝『西遊補』では、三蔵の錫杖は「五花の錫杖」とか「五珠の錫杖」という名前で、出発時に唐の皇帝から拝領したことになっているばかりか、悟浄の武器もやっぱり錫杖と言ってますが、どうしたものやら。
次回は、禅杖の、もうひとつの定義について。 |
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