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 『西遊記』のオリジナルキャラではない

沙悟浄が、西洋の虹色仕込杖を使っているなんてことになってしまうと収拾つかなくなるので、沙悟浄は何者かということを先に片付けます。
っていうか、もっと早くやるべきだった話ですが。

ある程度は史実を元にしていても、娯楽エンターテイメント作品を作るというと、脚色や演出して、話が史実どおりではなくなるばかりか、うっかり八兵衛とか、おつうさんとか、オリジナルの架空人物が追加されることがある。

『西遊記』には、神仏や魔神や妖怪や仙人がたくさん出てきますが、これも、仏教や道教の教義にあるものと、『西遊記』にしか出てこないものがある。

沙悟浄は、沙悟浄という名前だけは『西遊記』のオリジナルです、たぶん。

しかし、もともとの古い『西遊記』では、沙悟浄は深沙神という名前だった。

深沙神という神様は、本当に仏教にあります。
あることはあるんですが、やっかいな問題も山積みにある。

 

 もともとは仏教神ではない?

仏教は、ありとあらゆる神仏を揃えてます。
バラモン教やヒンドゥー教の環境で成立して、ヘレニズムや景教の影響を受けつつ、道教の環境に普及して、神道の環境に普及して、その土地土地の神を吸収しているからです。
ヴィシュヌ、インドラ、ナーガ、ガルーダ、ミスラ、ヴィーナス、アポロン、キューピッド、ミノタウロス、セイレーン、イエス様、ルシファー、ミカエル、サンタクロース、泰山府君、スサノオ、応神天皇、神功皇后など、たいていのものは仏教にもある。

それは、パクったとか、どっちが先ということだけではなくて、ものすご〜く古くからあったものを共通の元ネタにして各宗教が取り入れた場合もあるし、人類共通の発想というか、どこの宗教にも普遍的にあるものは、まったく交流がないはずの離れた地域の神話同士がたまたま似てることもある。
だから異説が多くて、なかなか断定しにくいこともあるんですが、考古学的に、だいたいの流れが特定できるものもあります。

深沙神は、なんらかの他宗教から仏教に取り入れられた可能性が大きい。

その理由と、それがどれだけややこしい問題を生むかは、これから順に書きますので。

 

 神将である

深沙神は深沙大将ともいう。
俺が見聞きする限りでは、仏教ではこの言い方のほうが一般的です。

『西遊記』では、沙悟浄が天界にいた時は捲簾大将という名前でしたが、仏教には捲簾大将というのはないと思う。

仏教には数えきれないほどの神仏がいるから、たとえば明王なんかは日本に伝わらなかったものもだいぶあるので、もしかしたら捲簾大将というのも、中国だったら正統な仏教の中にあるのかもしれませんが、聞いたことがない。

とにかく、大将つながりではありますね。

 

 神将は、眷属であることが多い

神仏は、お弟子さんとか家来のみなさんを引き連れてることがよくあります。
眷属といいます。

仏教で、大将という名前になっているのは、たいてい如来や菩薩の眷属です。

薬師如来に十二神将、千手観音に二十八部衆、そのほかいろいろあるんですが、後述します。

 

 呪術的である

玄奘三蔵法師がやってる仏教は北伝、大乗です。
劇中では、唐には大乗仏教がないから死者が救われなくて困っている、早くインドから大乗仏教を持ってこい、とかなんとか、まるで葬式仏教を取りに行くようなことになってますが。

大乗は大きな乗物ということで、誰でも救われる仏教です。
出家してヨーガをやった人だけが超能力者になるなんていう発想を、基本的に嫌う。

後述しますが、大乗仏教の重要経典の守護神が、深沙神なんです。

だから、密教や修験道や陰陽道など、魔法使いの分野では、深沙神をあんまり重視しない…などと言われてますが、俺が見聞きした限りでは、全くそうではない。

こういうことは口止めされていて、あんまりお話しできませんが、深沙神の儀式は、だいぶ戦闘的な内容です。
世の中のためにならない悪をこらしめるなんていう正義でやるんじゃなくて、自分にとって邪魔だから弱らせてしまおうという黒魔術的なものまで、深沙神を召喚しておこなう場合がある。

こうした攻撃的な神様が仏教にいる場合、どちらかといえば、他宗教から取り入れた神様であることが多い
教義にそぐわないが、あまりにも強力(人気も、効き目も)なので、取り入れないわけにいかなくて取り入れた、というような感じになっていることが多いです。

 

もうひとつ、重要な話が…。

 続く→ 

 

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