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 沙悟浄はキリスト教の人物なのか?

岩波版の注、さっきの後半部分をもう一度。
『(略) 仙術を学んだけれども過失のため月に流謫され、そこでいつも月桂樹を斫らされているが、斫っても斫っても再生するので、永遠にこの作業をやりつづけなければならないらしい。』

これは、初耳でした。さすが天下の岩波文庫。

罪をおかした人、いつまでも続く罰、月に流刑、木を切る…。
そういう図式になっていたんだったら、俺もちょっと
知ってる話がある。
じつはコレ、西洋にもあるんです。

西洋では、話の細部はいろいろですが、薪を盗んだか、安息日なのに薪を切ったか、貧しい人に薪(または暖炉にあたること)を与えなかった男が、罰として月に流され、最後の審判の日まで、薪を背負った姿を地上の人々に見せものにされている、さらしものにされている。
それが月の表面の、あの陰影模様だと説明されているんです。

一説には、イエス様が暖炉にあたらせてくれと言うのを、ケチケチして断ったのだという。
イエス様が貧乏人の格好で訪れて物乞いし、それを冷たくあしらった人にはバチが当たり、親切にほどこした人には福がもたらされるという民話や童話は、これまたよく聞くところです。
パン屋に来て、商売物のパンをタダでくれと言い、しかも売れ残りではなく、わざわざ新たにパンを焼かせたとか、寒い日に通りすがりの親切な少女を呼び止めて、着ている服を身ぐるみ全部はいだとかいう。

イエス様ともあろうものが、ずうずうしいこと頼んで、きいてもらえなかったからといって逆恨みして、腹いせにバチを当てるなんていう、そんな安っぽい神様であるはずがなく(このパターン、じつは弘法大師にもある)、これは慈善とか喜捨とか博愛を教えるための、道徳的な教訓話としてやってるわけです。

唐の時代っていったら、イエス様からざっと600年以上でしょう。
景教(キリスト教ネストリウス派)も、三蔵法師が旅に出る前に、すでに中国に伝わっている。
もし
『酉陽雑俎』よりも古い記録があんまりないんだったら、キリスト教系の月の神話が、中国文化に取り入れられた可能性も出てきますね。
貿易やってりゃ、いくらでも影響はあるでしょうし、しかも相互にあるから、西側がマネたのかもしれませんが。

中国の場合、木を切っていると、犬が弁当をぬすみ食いしようとしたり、雄鶏がつついてきたりするので、追い払って、ふたたび切ろうとすると、さっきまでの切り口がふさがっている、ということの繰り返しなんだそうです。
こういう滑稽さを含んだ不条理は、なんとなくスラヴをとおりこしてゲルマン・ケルト系の昔話のような印象を受けます。

ただ、「魔法の杖」ってのがあんまり西洋色を帯びてくると、話がどんどんややこしくなる。
カバラやってる方は御存知のとおり、西洋にはあるんですよねえ魔法の杖。
それの話だけでもいろいろとさしさわりがあるのに、物理的か呪術的かにかかわらず武器として使うのであれば、ここには書きにくい話になってしまうので、隠しページにして、読む人を限定しなければならなくなる。
本当の魔術は、子ども番組に出てくるようなのとは全然違いますからね。

 

悟浄も、過失を罰せられて追放された人ですよ、月に関係ある木を持ってますよ。
もし西洋の宗教を起源にしていて、そのせいで仏教や道教の世界観にそぐわなくて、だから物語の中では妙に存在感が薄い脇役なのだとしたら…、
これはまずい。
いくら『西遊記』がフィクションだからといっても、このコンテンツはキチガ○のトンデモじゃないんで、学術的な検証と、妄想のこじつけ遊びは、少し分けておきたいです。

このへんで、ちょっと沙悟浄自体の話に行きます。

 続く→ 

 

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