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 加藤清正公の槍は、折れたのか?

本丸に書いた話ですが、こちらに移転しときます。

「清正公の槍が、虎退治の際に折れた」という俗説は、本当なのかどうか。
結論から言うと、俺にはわかりません。

 

 虎狩りをおこなったことは、史実

清正公に限らず、朝鮮に渡った武将たちが、アムール虎を仕留めては日本へ送っていたのは確か。

虎の毛皮が、勇ましくて珍しくて、武士には重宝だったこと。
虎の肉や骨は漢方薬になるもので、滋養強壮剤と信じられていたため、もともと子宝に恵まれにくい秀吉公への贈物としては最適だったこと。
双方の戦死者の遺体を、虎が食いあさっていたともいう。

秀吉公は、毛皮は要らないから頭の肉と内臓を塩漬けにして送ってこいと指示したが、その後、もういい充分だ送ってくるな、これ以上いらない、と指示したという(そういう文書が現存しているのかもしれない)。

もちろん狩猟には鉄砲を用い、しかも、実際の作業は部下たちがおこなったはず。
しかし、そのうちの1頭が急に清正公に襲ってきたので、手ずから槍で仕留めた、というような俗説もある。

 

 本当に折れるものか

槍の刃(柄ではなく)が、折れるという現象自体はある。
空襲だか震災だかで折れた槍というのだったら、実例がある。
古いものは錆びて折れることだってあるだろうし。

しかし、戦闘によって折れるものか。
清正公は、合戦の時に、槍の刃を折られたことがあるという。
後述。
人間が相手の合戦で折れるくらいなら、虎にも折ることは可能なのかもしれない。

アムール虎、シベリア虎、朝鮮虎などと呼ばれているこの虎は、ネコ科最大の動物であり、体重300キロを超える。
虎の頭蓋骨を見ると、たしかに、そこそこの厚みがある。
300キロの質量が突進してくる所へ、無理に力を加えようとして、槍は長いから巨大なテコの原理でひっかかれば、直槍ならともかく、枝刃の先端の薄い所くらいは折れるということも、絶対ないとは俺には断言できない。

「噛み折られた」というのは言葉のアヤで、実際は頭蓋骨に深く刺さったのをこじって折れたにもかかわらず、いちごポッキーか何かをアゴの筋力だけでバリボリ食いちぎったかのように、いかにも虎が凶暴で大変だったんです!という言い方になったのかもしれない。
この時代のほとんどの日本人は、虎なんて見た事ないから。

清正公ほどの武闘派が、しかも異国へ出陣する時に、ナマクラを持っていくわけがない。
しかし荒木又右衛門先生でさえ、ここ一番の大事な時に刀を折られている。

長柄は、刀と違って、身につけるものではない。
使う槍が、つねに自分の槍とは限らず、たまたま近くにあった誰かの槍を使うこともあるかもしれない。

 

 どこかで、話に尾ヒレがついたか

『黒田家譜』によれば、黒田長政侯の軍勢が機張城で虎狩りをたびたびおこなっており、鉄砲によるものもあるが、刀や槍で仕留めた話もあり、林太郎右衛門という人が虎の口に槍を突き入れたが噛み折られたので刀で仕留めた、ということが書いてある。
これは、柄が折れたのかもしれないが。

つまり、別の人の、もしかすると柄が折れた話が、清正公の槍の刃が噛み折られたかのように、話がごっちゃになった可能性というのがある。

朝鮮侵略は、日本国の外でやってたことだから、実際どうだったかなんて細部はよくわからないから、帰国した人が苦労話や自慢話をおおげさに膨らませたとしても、わからない。
おそらく、朝鮮に渡った本人ですら、長い悪夢を見ていたかのような、激動の混乱した思い出なのではあるまいか。
なんの落ち度もない人様の国を攻めて、しかも失敗して、まあ誉められることではないから、都合の悪い話はいじっているかもしれない。
途中で秀吉公が亡くなって、日本ではふたたび政権交代の内戦に突入していくから、虎どころではなかった。

こういう逸話や史料がある、あるかないかと言えばあるのだが、あるからといって話が正確に伝わっているとは限らないから、肯定するのも否定するのも、結局は想像の範囲を出にくい。

 

 現存しているものは、最初から片鎌

この俗説がウソだと言われている根拠は、遺物。
「加藤清正の槍」という伝来のあるものが、東博に現存しており、折れた痕跡のない片鎌槍。

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          こちら側にも短い刃

不完全な十文字のような形状だが、日本の武術では、このタイプを片鎌槍といい、十文字鎌槍とは言わない。
同じ横手が2つあるより、長短あるほうが使い分けられて便利、という考えなのである。

槍をよく知らない人がこれを見て、「もともと左右対称だったものが折れたのかな?」と誤解しちゃったのだろう、うん、きっとそうに違いない、そうに決まってる、これだからシロートは困るなァ、というのが一応の定説になっている。

『 清正が、朝鮮の役の時、どこかで突然襲いかかった虎の口中に槍を突刺したところ、鋭い牙で噛み折られてこのようなかたちになった、ともっともらしく、多分は江戸時代から伝えられている。今日でもなおこれを信じている人が必ずしも少なくはない。
 しかし、これは、話としては面白いが、実は飛んでもない誤りで、この位まともに鍛えられた槍が、虎の牙などに噛み折られる筈もなければ、また実物を見ればわかる通り、噛み折られた形跡もない。つまり、形に微塵の崩れがなく、地・刃にも全く異常がない。
 思うに、これは、天正十七年、肥後に封ぜられた清正が、天草の木山弾正と戦い、これを討取った時、十文字槍の片枝を折られたという記録に基づいてつくられた話であって、信ずるに足らない。』
(沼田謙次『日本の名槍』人物往来社1964)

しかし、よく考えると、この根拠は意外に破綻している。
少なくとも1589年までは、
清正公は片鎌ではなく十文字を使うこともあったし、鎌槍の枝刃は折れるということを自ら証明していることにもなる。

 

 現存するからといって、一例にすぎない

「清正公の槍が現存していて、十文字ではない」とは言うが、この品物は正確に言うと、清正公の娘の八十姫が、徳川頼宣公に嫁いだ際の、嫁入り道具
しかも、これは3条セットのうちのひとつであり、あとの2条は直槍なのである。

八十姫は、まさか御自分では槍をお使いになるまい。小薙刀ならともかく。
嫁入りに槍を3つも持って行くというのは、武将の娘としての、形式的な威儀の飾りにすぎない。

しかも、これが清正公の愛用の品かどうかは、話が別。
傷が全くないのなら、清正公の所蔵品だったとしても、未使用かもしれない。

『加藤清正息女 瑤林院様御入輿之節御持込』と茎に朱書があること、紀伊徳川家から帝室博物館に寄贈されたこと、そこまでは真実。
しかし、あくまでも
「清正公のの槍」である。
嫁入りの時、新たにあつらえたのかもしれない。

そもそも「そういう伝来がある」というのは、必ずしも史実ではない。
草薙剣だって小烏丸だって、現存するものはアレなのである。
紀伊徳川家では、途中で紛失か破損してしまって、程度のいい別の槍を代役に立てたのかもしれない。
大名家はみんな、自称正宗の刀を所有していたが、そんなにいくつも正宗の本物があるわけがなく、大名ともなれば正宗くらい持ってなきゃ格好がつかないということであり、レプリカとわかりきっていても、それは正宗ということになっていたりするのだ。

清正公が、これ以外に槍をひとつも所有していなかったわけはあるまい。
清正公には、嫁に行った娘がもう一人いた(あま姫)。
というより、息子や重臣たちもいた。清正公の愛用の槍は、嫡男が受け継ぎそうなもんだ。
他の大名や武将と、武具を贈ったり贈られたりもあるはず。

たまたま現存している槍ひとつだけを基準にして、清正公の槍術すべてを判断するというのは、強引すぎる。

 

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