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 景正先生が「随身」した牧野家の行方、その4.1

 下総 関宿

 

 藩の名前

関宿藩、下総関宿藩。久世大和守など。
せきやど、と読む。

伊勢亀山にも関宿というのがあるが(三重県亀山市関町)、こちらは「せきじゅく」、関という名前の宿場(東海道)。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

久松松平家は、譜代、城主。4万石、ただし天正19年(1591年)までは2万石。
能見松平家は、譜代、城主。2万6千石。
小笠原家は、譜代、城主。2万2700石。『諸国城主記』では2万2000石。

北条家は、譜代、城主。2万石。『諸国城主記』では2万3千石。
関ヶ原以前から、というか小田原落城以来、徳川家の直接の家臣のはずだが、ものの本では
外様になっていることがよくある。
小田原北条氏は豊臣家の敵であり、徳川家の親戚であり、氏重侯は家康公の甥にあたる。
ひとまず『日本系譜綜覽』に従って、譜代としておく。

山城守牧野家は、譜代、城主。
1万7千石、京都所司代への出世にともない、承応3年(1654年、おそらく11月28日までには)2万7千石。
『諸国城主記』では2万2千石。

板倉家は、譜代、雁間詰、城主。
5万石、弟に5千石を分けたため寛文元年(1661年)12月13日から4万5千石。

久世家は、譜代、雁間詰、城主。5万石。

牛久保牧野家は、譜代、雁間詰、城主。
5万3千石、側用人という権勢のおかげで元禄元年(1688年)から7万3千石。

久世家(2回目以降)は、同じ久世家。最初は5万石。
亨保3年(1718年)3月3日、6万石。老中への出世によるもの。
亨保5年(1720年)8月12日、5万8千石。弟に2千石を分けた。
万延元年(1860年)12月、6万8千石。老中復職によるもの。
文久2年(1862年)8月16日、5万8千石。老中失脚によるもの。
文久2年(1862年)11月20日、4万8千石。父の処罰の巻き添え。
明治元年(1868年)5月?、12月7日?、4万3千石。朝敵になった罰。
『諸国城主記』では、重之侯、広統侯、広明侯が掲載されており、すべて6万石とする。

 

 位置と、土地の性格

下総国葛飾郡、関宿付近。
現在の千葉県野田市
関宿三軒家。
江戸のほぼ真北に位置する。千葉県が北西に大きく突き出している所。

家康公が江戸城に入って以来、関東平野の川筋は、たびたび人工的に変えさせられている。
利根川は、かつては江戸湾(現在の東京湾)に流れ出ていたが、銚子へ流すようにした。
これにより、洪水被害は都会ではなくチバラギ方面にくらってもらうことになり、利根川は東北の外様大名の謀反を足止めするための巨大な濠になり、しかも、霞ヶ浦から利根川を経て江戸川へ入るという水運ルートができたので、黒潮と親潮にもみくちゃにされながら房総半島を大回りしなくてもよくなって、東北の米を大消費地へ運びやすくなった。

関宿は、利根川から江戸川が分岐する中洲のような部分。
『城郭みどころ事典 東国編』に、『何事も無駄のない家康は、利根川と江戸川の分岐点を城の改修を進めていた関宿近くにもってくることを決めた。川の水によって城の防御を強化すると同時に、城には河川交通の関所の役割を果たさせようとしたわけである。』とあり、わざと、この場所で川を分岐させたらしい。

だから戦略的にも治水的にも重要地点だったのだぁ!という郷土自慢が激しいが、実際には、意外に重要地点でもなかった。
幕末の、最も幕府がピンチの時に、8歳の藩主が関宿の地を任されていた。

「関東を制するための戦略拠点」という売り文句になっているのは、岩槻も川越も忍も、古河も結城も、館林も伊勢崎も高崎も前橋も沼田も、宇都宮も日光も、土浦も筑波も水戸も佐倉も、多摩も八王子も、川崎も横浜も鎌倉も平塚も小田原も、みーんな重要地点なのである、しまいにゃ白河も甲府も軽井沢もそうなのである、みんなそーゆーこと言う。
それはそれぞれ確かにそのとおりなのだが、おらたちの村が特に重要地点だっぺよと、強調しすぎてしまうのである。

千葉県は、おらが村自慢がとても激しいので、武術史研究を大いに邪魔される(俺が見かけた例では、柏が悪質)。
真実がわかってしまうと、短所も見つかるし、粉飾がバレて都合悪いから、そっとしておきたいのだろうけれども、千葉県にもすばらしい武術の歴史があったのだから、まだ知られていない長所も見つかるのである。

『千葉県の郷土史家の中には、他の土地にもよくあるように、非常に不公正な愛郷家がいるらしい。『千葉県古事志』の誤を指摘するたびに、ひどい悪罵に充ちた糺断状を衝きつけられるので大いに閉口する。』(『考証武芸者列伝』)

歴代の関宿藩主は、ほとんどが幕府の重職にあり、不在領主。
老中や寺社奉行や若年寄や京都所司代や大坂城代をやっていて、日本国の政治が忙しいので、関宿なんかほったらかし。

もちろん家臣の多くも、江戸か上方にいる。
戊辰戦争の時でさえ、関宿藩は関宿ではなく江戸城を防衛していた。

関宿の郷土自慢というと必ず、おらたちの藩主は幕府要職を勤めたっぺよという話になるが、幕府要職を勤めた藩主は、古河も佐倉も小見川もそう。

しかも房総半島の大名は、国替えが多い。
関宿藩主も2〜3年でコロコロ代わっており、8家が入れ代わって歴代22名いた。
それもまた、関宿びいきの人に言わせると、「こんなに名君を多数輩出しています!」ということになるのだが、輩出もなにも大名の子はだいたい江戸で産まれるのだし、幕府要職を勤める大名は国替えが多くて、関宿なんか出世の通過点にすぎず、2〜3年で異動してるようじゃあ、じっくり内政をやらなかったということを意味する。

関宿に腰を落ち着けた久世家でさえ、参勤交代が『参府毎年十二月、御暇毎年八月』(『藩史大事典』)であり、1年の3分の2を江戸で過ごしている。
留守がちどころか、久世広明侯は途中で領地替えがあったので、関宿藩主ではなかった時期もある。

牧野親成侯は、京都所司代を勤めたことから、河内国高安郡にも加増分1万石を持っていた。

板倉重宗侯の時は、下総国葛飾郡・猿嶋郡・相馬郡・豊田郡。

板倉重郷侯の時は、重宗侯と同じ5万石でも、一部の領地は常陸、武蔵、摂津であり、下総国4郡83ケ村、常陸国2郡22ケ村、武蔵国2郡4ケ村、摂津国嶋下郡11ケ村。

久世家の1回目の時は、下総国葛飾郡・猿嶋郡・相馬郡、常陸国新治郡・筑波郡。

牧野成貞侯の時は、下総国葛飾郡・猿嶋郡・相馬郡・岡田郡、武蔵国葛飾郡、常陸国筑波郡・信太郡・河内郡・新治郡、下野国芳賀郡・塩谷郡・那須郡、さらに2万石の加増分は、和泉国泉郡・大島郡、下総国相馬郡、常陸国筑波郡、下総国塩谷郡・那須郡。

久世重之侯の時は、常陸国、和泉国、下総国。
老中を勤めたため、亨保3年(1718年)3月3日から、下総国猿嶋郡・相馬郡、下野国都賀郡に1万石加増。

久世暉之侯の時は、こまかい変動があった。
亨保10年(1725年)7月8日、下総国の領地を、常陸国筑波郡、下総国都賀郡・河内郡に替える。
元文5年(1740年)6月15日、下総国の領地を、下総国葛飾郡・相馬郡、常陸国信太郡・筑波郡、下野国都賀郡・河内郡に替える。
延亨4年(1747年)7月25日、下総国の領地を、陸奥国信太郡に替える。

久世広明侯は大坂城代になったため、明和6年(1769年)11月15日、河内国、美作国に、領地を替える。
安永3年(1774年)8月13日、ふたたび領地が関宿になり、下総国都賀郡、常陸国信太郡・筑波郡、下総国葛飾郡・猿嶋郡・相馬郡。
天明元年から老中になったが、関宿は洪水被害が多いので、天明4年(1784年)5月15日から、石高のうち2万石を、伊豆国加茂郡・君沢郡・田方郡、相模国三浦郡、武蔵国秩父郡に替える(老中在職中のみ)。

久世広誉侯は、下総国葛飾郡・猿嶋郡・相馬郡、常陸国信太郡・筑波郡、下総国都賀郡・河内郡、和泉国大島郡・泉郡、河内国若江郡・渋川郡・丹北郡、伊豆国加茂郡・君沢郡・田方郡、相模国三浦郡、武蔵国秩父郡。
天明7年(1787年)10月28日、河内国、伊豆国、相模国、武蔵国に移していた領地を、旧領に復す。

久世広周侯は、下総国葛飾郡・猿嶋郡・相馬郡、常陸国筑波郡・信太郡、下野国河内郡・都賀郡、和泉国大島郡・泉郡、陸奥国信太郡。
このあとも変動あったが詳細不明。

老中が各地に持っている「年貢さえ取れればどこでもいい、どうでもいい土地」のうちのひとつが、関宿だったということ。
老中には、『名誉的な加石』(本多忠頼氏談)というのがあって、藩主自身も自分の領地がどんな所なのかよくわかっていなかったりするのだ。

大坂城代や京都所司代をやるなら上方に領地を持つが、老中をやるなら江戸になるべく近い農村を領有しとけば経理がラクチンというだけのこと。

関宿が老中の管轄になるのは、しいて言えば、洪水が多くて救済しなきゃならないから。
関宿の洪水は深刻で、宝暦7年、安永9年、天明元年の洪水では、それぞれ幕府から恩貸金5000両を受けている。
藩主が老中ならば、幕府から借金しやすいのである。

ところが、洪水が多くて儲からないという理由で、老中在職中だけ関宿をほっぽりだして他の土地に交換なんてこともやっていた。
政治活動資金が少ないと老中の職務遂行にさしさわるから、領地を替えようというのである。
関宿の心配よりも、日本国の政治が優先であり、関宿は小道具にすぎないのである。
治水をがんばろうではなく、見捨てて逃げるのである。

 

 藩主と、藩の性格

  簗田家、代々

やなだ、と読む。古河公方に仕えた。
関宿城を築いて、室町時代には北関東の重要拠点のひとつになっていた(この時は本当に重要地点)。

戦国時代には簗田晴助侯が当主。
北条家の勢力拡大に屈して、心ならずも北条家の部下にされてしまった。

ところが関東管領上杉家が、越後の長尾家に泣きついて、のちに上杉謙信になる人を関東に引っぱってくる。
風向きが変わったので、晴助侯はヘコヘコするのをやめて鼻息が荒くなり、北条家に敵対する。

しかし晴助侯は負けて追放され、異母弟の助縄侯が関宿城主になり、ふたたび簗田家は北条家の支配下に入った。

ところが、今度は猿が登場して、北条家をつぶしてくれた。関宿城も豊臣軍が奪い取る。
おっかない北条家を片付けてもらったので、晴助侯はコソコソ戻ってきて秀吉公に恭順、今度こそ関宿が自分のものになるかと思いきや、関宿どころか関東地方まるごと徳川家のものになってしまう。
晴助侯の孫の貞助君が、徳川家に召し抱えられたが、これはただの旗本だから、関宿城はもらえないのだった。

  久松松平家(本家)、2代

関宿をもらったのは、松平康元侯。
小田原の後片付けの功績で、天正18年(1590年)、葛飾郡2万石。
この人は家康公の異父弟。

久松松平は、家康公の生母の再婚相手、久松俊勝侯の家。
家康公の生母は水野家の娘で、松平家と水野家の同盟のために政略結婚したが、水野家は織田家に仕えたため、まだ今川家の子分をやっていた松平家としては都合が悪くなり、政略離婚(という言葉があるのかどうか知らないが)。
どっちみち、家康公の父は20代で亡くなる。
桶狭間以降、徳川家は今川家の顔色にビクビクしなくてもよくなり、水野家も徳川家の忠臣のひとつになり、家康公は異父弟たちに松平姓を与えたというのが久松松平家。

康元侯は次男だが、久松松平の本家(長男は、家康公の母の子じゃないので)。

東北では、南部家の親戚で家臣の九戸家が、5千人ほど率いて反乱。九戸一揆。
南部家は自力で処理できず秀吉公に派兵を要請し、豊臣軍6万で鎮圧した。
この時の功績で、天正19年(1591年)、康元侯は下総国2万石を加増され、合計4万石になる。

関ヶ原の時は、江戸城で留守番だった。
そして江戸幕府が始まって、江戸時代の幕藩制度の藩という意味でも
関宿藩がスタート。

長男の忠良侯が継いだ。
大坂の陣の功績により、元和2年(1616年)9月25日、
美濃大垣へ栄転。
『諸国城主記』では、元和3年。

  (幕府領?)

ここで、少し間があく。
忠良侯の大垣移封が元和2年9月25日だとするのは、『藩史大事典』。

  能見松平家

元和3年(1617年)12月、越後三条から、松平重勝侯が入封。

能見松平家は、家康公以前に、かなり早い段階で分かれた分家松平のひとつ。
この人は、松平忠輝公の付家老をやっていた。
堀家がつぶれた後の
越後に忠輝公が入ったので、そのそばにいて補佐をやっていたのだが、忠輝公もつぶれたため、かえって独立して正規の大名になれた。

元和5年(1619年)10月、遠江横須賀に移封。

  松尾小笠原家、2代

元和5年(1619年)10月20日、下総古河から、小笠原政信侯が入封。
『諸国城主記』では1月11日。

この人は、小笠原というのは名目だけで、血筋は酒井氏。
小笠原は甲斐源氏の支流で、いくつかあり、信濃だけで3家、府中(深志)・鈴岡・松尾(伊那)があったが、親戚同士で殺し合いをやっていた。
勝ったのが府中、しかし武田家に滅ぼされ、おっかない武田家がいなくなってから、また出てきて大名に返り咲き、のちの(中津を含めた)豊前小倉の小笠原家になった。
負けた松尾小笠原家も一応続いており、武田家の家臣になり、信長公に寝返って武田家撲滅の案内役をつとめ、本能寺以降は徳川軍に参加して、酒井忠次侯の指揮下にいた。
酒井忠次侯の三男が婿養子に入って松尾小笠原家を継いだのが、小笠原信之侯、その長男が政信侯。

政信侯の次は、信之侯の娘の子の貞信君(父は旗本の高松貞勝殿)が継いだが、幼少(9歳)という理由で、寛永17年(1640年)9月28日、美濃高須へ移封。
「関宿のような重要地点を9歳の子には任せられなかっただっぺよ!」と、この部分はとても強調されるが、どうせ藩主は留守がちなのだし、戦乱の時に8歳の子でも藩主がつとまる関宿が、泰平の時に9歳ではつとまらないと言い張るのは、やっぱり外縁相続は印象が悪いのだろうか。

  玉縄北条家

同日、遠江久能から、北条氏重侯が入封。
『諸国城主記』では11日。

この人は武田旧臣の名門、保科正直侯の四男。
母は久松俊勝侯の娘だから、家康公の甥にあたる。

保科家は、会津藩になるあの保科家。

この北条家は、北条とは言っても、北条氏綱侯の娘婿が北条の名前をもらって始まった家であり、小田原北条家が滅びた後は徳川家に仕えたから、それほど北条でもなかった(小田原北条家は、河内狭山藩になっている)。

北条氏勝侯に跡継ぎがなかったので、氏勝侯の弟の繁広君が養子に入ったが、これからの時代は徳川氏にコネがあったほうが得なので、家臣たちの手で引きずり降ろされ、氏重侯に継いでもらった。
抹殺されたのか、繁広君は翌年に変死している(その子孫は旗本として続いた)。

氏重侯は関宿藩主になって3年ほどで、すぐ異動。
正保元年(1644年)3月18日、駿河田中へ移封。

女児しか得られず、このあと改易になる。

  山城守牧野家、2代

同日、武蔵石戸から、牧野信成侯が入封。
『諸国城主記』では1月11日。

この牧野家は、長岡藩の牧野家(牛久保牧野家)とは少し別系統の、傍系の牧野家。
牛久保牧野家から古い時代に分かれた分家だとか、牛久保牧野家の家来をやっていたとかいうことになっている、一応。

それにしては、牛久保牧野家よりも、こちらの牧野家のほうが、今川家を裏切るのが早かった。
当時から、牛久保牧野家は、部下を制するのが下手だったのかもしれないが。
山城守牧野家が命令だか忠告だか仲介だかしたので、牛久保牧野家は徳川家に仕えることになったともいう。

信成侯の父の康成殿の時に、武蔵国足立郡の石戸城で、石戸宿・畔吉村・領家村・小敷谷村・藤浪村・古泉村・日出谷村・川田谷村・馬室諸村、合計5000石を持っていた。
これを相続した信成殿が、関ヶ原、大坂の陣、御留守居など勤め上げて、2000石加増、さらに忠長公への御使を勤め、4000石を追加されて、石戸藩1万1千石という大名になった。
それが関宿に異動になったわけで。

次男の親成君が継いで、京都所司代になったため、1万石加増。
京都にいるから、明暦2年(1654年)、仕事場に近い摂津国・河内国高安郡などに領地替え。
そのあとの話は、田辺藩のページ。

  三河板倉家(本家)、3代

前任の京都所司代、板倉重宗侯が、入れ代わりで明暦2年(1656年)8月15日、関宿に入封。

板倉氏は、政治家として優秀で、京都所司代や老中を担当した家系。
「たこ」こと燕陣内さんの一族である(嘘)。

長男の重郷君が継いだ。この人は寺社奉行。
死にぎわに、表高5000石(と、私墾田4000石。合計9000石)を、弟の重形君に分知。
この人ものちに寺社奉行。重常君から見れば叔父だが、『諸国城主記』では伯父となっている。

4万5000石に減った関宿藩は、長男の重常君が継ぐ。

寛文9年(1669年)2月25日、伊勢亀山へ移封。
関宿に3代いたといっても12年半。

  (預かり?)

少し間があく。

  三河久世家、2代

寛文9年(1669年)6月25日、新知で久世広之侯が入封。

久世家は、一向一揆に参加して家康公を攻撃して死んだ、浄土真宗テロの一味だったが、のちに家康公の旗本2500石になった。
しかも、その家ではなく、そのまた分家(三男家)の、たった500石だったものが、小姓から老中にまで出世しまくったというのが広之侯。
山城守牧野家と同様、将軍の側近というコネが強みだった。

三男の重之君が継いで、天和3年(1683年)8月21日、備中庭瀬へ移封。

  牛久保牧野家(儀成系)、2代

天和3年(1683年)9月2日、新知で牧野成貞侯が入封。
あの三越を幕府御用達にした人。

この牧野家は、長岡藩牧野家の、甥の家。のちに笠間藩になる家。

初代牧野康成侯の息子たちのうち、長男が初代忠成侯で長岡藩主だが、その弟(三男)に儀成殿というのがいて5千石の旗本だった。
それを息子たちが相続。
3千石もらった長男の成長殿は、素行不良と内政ヘタクソで改易。
2千石もらった次男の成貞殿は、綱吉公の家老。

綱吉公は将軍に成り上がったので、成貞殿は自動的に将軍の家老ということになり、このコネで常陸国内に1万3千石もらって大名になり、江戸幕府初の「側用人」になり、関宿に移封になった。

元禄元年(1688年)、さらに2万石加増。

ところが、権力者の腰巾着は、ハタから見るほど楽ではない。コネで出世した者は、ほかの人がコネで出世することを否定できないのである。
「綱吉公の生母」も得体の知れない女だったが、成貞侯は、「以前、綱吉公の生母に仕えたことがある女」なんてのを妻にあてがわれただけでなく、「以前、綱吉公の生母に仕えたことがある女の、父の、兄の、子。大戸家!」という、サッパリわけのわからない人物を養子にさせられる。綱吉公の命令。
オレは吉永小百合の実家のとなりの人の従兄弟の同級生が行きつけだったラーメン屋の二階に住んでいたことがあるんだぞーみたいな話で、側近政治もここまでくるとギャグである。

実子の貞通君をさしおいて、うさんくさい養子の成春侯が継ぐ。
牧野家が
大戸氏の血筋にすり替えられたということ。
宝永2年(1705年)10月晦日、三河吉田へ栄転。

  三河久世家、2回目、3代

おそらく同日、三河吉田にいた久世重之侯が入れ代わりで、ふたたび関宿藩主になる。
若年寄になったので、江戸の近くへ移ったということらしい。

『諸国城主記』では、重之侯の関宿城の『再為城主』は、『宝永二年十月晦日より』とする。

『藩史大事典』では、成春侯が関宿藩主でなくなったのが『宝永2・10・晦』、重之侯が関宿藩主に復帰したのが『宝永2・10・31』とある。
書き分けてあるのも不思議だが、そもそも旧暦に31日はない。

老中にまで出世し、亨保3年(1718年)3月3日には1万石加増。

息子3人が早死にして、四男の暉之君が、亨保5年(1720年)8月12日、家督を継いだ。
この時、弟の広籌君に表高2000石(と、私墾田3000石。合計5000石)を分知。
『諸国城主記』では、『外新田五千石養兄平九郎配分』という話が、牧野家の前、久世家1回目のところに書いてある。江戸時代の人から見ても、久世家の引っ越しは、ややこしかったと見える。
また、暉之侯のことは『広統』と表記して、『改讃岐守改広充又改暉之』と書き添えてある。

3代目の広明侯は、分家(旗本5千石)の久世広武殿の、長男が養子に入ったもの。
この人ものちに老中になるのだが、まず大坂城代になったため、明和6年(1769年)11月15日、河内・美作国内に領地替え。

  (佐倉藩預かり、堀田家(正俊系))

明和7年(1770年)、下総佐倉藩の堀田正順侯が、関宿を預かる。
この人ものちに大坂城代や京都所司代になるのだが、この時は25歳くらいで、まだ一度も幕府の役職についていなかった。

  三河久世家、3回目、5代

このまま久世家は別の土地に腰を落ち着けても不思議はないのだが。
安永3年(1774年)8月13日、ふたたび
久世広明侯が、関宿藩主になる。
この人は、このあと京都所司代も勤めるから、西国の領地をそのままにしておけばよさそうなものだが。

以後、明治まで久世家が統治。

広誉侯、広運侯を経て、広周侯になる。
広周侯は名君で、老中を勤め、安政の大獄に反対していったん罷免になるが、ふたたび老中に返り咲いて、万延元年(1860年)12月、1万石加増。
磐城平藩の安藤信正侯と共に、幕末の難しい政局で公武合体に奔走したが、信正侯と同様に失脚し、文久2年(1862年)8月16日、致仕謹慎、1万石没収。

広周侯の長男の広文侯8歳があとを継いだが、文久2年(1862年)11月20日、広周侯が永蟄居になったので、とばっちりが及び、さらに1万石没収。

幕末の関宿藩は、勤王・佐幕で意見が割れた末に、彰義隊と連携し、官軍側からも旧幕側からも迷惑がられた。
『藩士の一部は十六歳の藩主久世広文を上野の山に拉致し、彰義隊の戦いに参加した』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)

  (明治政府下の藩主・知藩事、三河久世家)

敗戦後、広文侯は謹慎。
明治元年(1868年)5月、5千石没収されて、関宿藩は4万3千石になる。

この時、広文侯は強制隠居、官位剥奪、藩主ではなくなったらしい。
『藩史大事典』では、『明治1・5』という日付で、広文侯は藩主ではなくなっている。
一説には、12月7日までは藩主だったともいうが、手続きや認可の問題かもしれないが、なんにしても、ここで空白がある。

12月14日、広文侯の弟(広周侯の次男)の広業侯10歳が、藩主になって再スタート
明治政府から見ても、関宿は、10歳の子にまかせておける土地だったらしい。

関宿藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月20日。

関宿城は廃棄と決まり、民間に払い下げて破壊。
現在は、なんちゃってレプリカ城を建てて、中身は千葉県立関宿城博物館になっている。

 

 江戸屋敷(久世家)

  上屋敷?
西御丸下。

  下屋敷
北新堀。現在の日本橋箱崎町。
北東は松平伊豆守邸(三河吉田藩)。南東は御船手屋敷。南は町屋。西は道を挟んで町屋。

  下屋敷
小日向。現在の文京区小日向二丁目。
北は久世内匠邸。東は道を挟んで武家地。南は智願寺、還國寺、町屋。西は川と道を挟んで町屋。北西は田中八幡。

  下屋敷
深川。現在の清澄三丁目、清澄庭園。
北は町家と、道を挟んで北誓寺。東は道を挟んで霊岸寺とその門前町。南は、岡部某邸、広瀬某邸、町屋。西は松平美濃守邸(筑前福岡藩?)、伊奈半左ヱ門邸、松平出羽守邸(出雲松江藩)。

 

 藩校

文政6年(1823年)11月15日、藩校を設立したという説もあるらしい。

文政7年(1824年)11月、藩校「教倫館」が成立(『藩史大事典』)。
久世広運侯が創設。関宿城三の丸、鍵の手十字路という所にあった。

文久3年(1863年)、学規を定める。

教科は、漢学・算法・筆道・習礼・兵学・槍術・剣術・柔術・弓術・砲術・馬術・遊泳。
詳細不明。

明治4年(1871年)7月、廃藩。藩校としては廃校。

関宿県の学校としては、その後も続いたらしい。
明治5年(1872年)、廃校。

『藩史大事典』では、『明治五年廃校し、印旛県に引き継ぐ。』とある。
明治4年11月13日に印旛県が設置され、明治6年6月15日に木更津県と合併して千葉県になる。
ということは、印旛県の学校として存続していた時期もあったか。

野田市立関宿小学校が、その後身に当たるらしい。
野田市の公式サイトは、歴史を古く見せかける小細工をなさっておらず、関宿小学校の開校は明治6年としてらっしゃる。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話は全く聞かない。

もしも景正先生が、幕府要職を勤める藩主にかまってもらいたくて関宿藩に接触したとすれば、年代的には牧野成貞侯あたりのはずで、その剣術が笠間に伝播したという形であれば、流れとしては自然ではあるのだが、なにも証拠がない。
やはり笠間の唯心一刀流は、安藤家が持ち込んだ可能性のほうが高いように見える。

 

 他の剣術の主なところ

  鏡心流
というより、関宿の剣術は、これしか聞いたことがない。
関宿藩士、荒尾次郎光政先生が創始。不完全ながら現存している。
鏡新明智流からの分派だが、千葉周作先生にも師事なさったらしい。

ということは、関宿藩校の教科に剣術があっても、藩士たちは、江戸の民間道場で剣術を習っていた人もいたのではあるまいか。
どっちみち藩士のほとんどは、江戸や京都や大坂にいる。

鏡新明智流には万力鎖術があるが、鎖のつなぎ方、分銅の形状と大きさ、全体の長さ、ことごとく正木流とは異なる。

なお、牧野成春侯の移封先の三河吉田では、鏡新明智流、直心影流、神道無念流、東軍流、平常無敵流が採用されており(『豊橋市史』第二巻)、一説には浄雲圓真流と柳生流もあったというが、要するに、大河内松平家以降のことしかわからない。

 

 現在の状況

不明。

 

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