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景正先生が「随身」した牧野家の行方、その1
越後 長岡
藩の名前
長岡藩、越後長岡藩、牧野駿河守、牧野備前守など。
京都にも長岡京でおなじみの山城長岡があり、短期間だが「長岡藩」が存在した。
山城国乙訓郡長岡町、現在の京都府長岡京市。
そのほか、宮城に長岡郡、茨城に長岡町、静岡に伊豆長岡町、高知に長岡村というのが存在したことがあり、現在でも、高知に長岡郡、宇都宮市内に長岡町があるので注意。
親疎、伺候席、城陣、石高
堀家は、譜代、菊間広縁詰、無城(城は所有)。8万石。
牧野家は、譜代、雁間のち帝鑑間詰、城主。
『シリーズ藩物語 長岡藩』では、牧野家が帝鑑間に出世したのがかなり遅かったかのように書いてあるが、『武鑑』では、忠精侯が寛政4年(1792年)時点で帝鑑間。
入封時は6万2千石。
福島正則公を滅亡させ、その処理もおこなった功績で、元和6年(1620年)古志郡栃尾1万石を加増、知行目録では7万2千石、寛永2年(1725年)の朱印状では7万4千石、差額2千石は将来の新田開発を見越して、あらかじめ見栄をはったのだという。
寛政4年(1792年)8月28日からは、大坂城代の役知が1万石。
幕末には官軍に負けたため、占領下に置かれ、藩庁機能は会津へ、実質的には改易で領地没収、0石。
明治元年(1868年)12月22日、新たに2万4千石だけ「下賜」されたが、戦場になった焼け野原で、ちっとも米が取れなかったという。
『十二月一日、城地を召し上げられたが間もなく家名存続を許され、二万四◯◯◯石を賜った。』(『藩史大事典』)
長岡藩の実高は、目減りする分がある。
信濃川がたびたび氾濫するので、洪水40回、城の浸水7回だという。
御存知のとおり、地震多発地帯でもある。
元和6年(1620年)、大洪水。
寛永元年(1624年)、洪水。
寛文4年(1664年)、大洪水、損毛24000石。
寛文10年(1670年)、洪水、損毛33000石。
延宝2年(1674年)、洪水、損毛30000石余。大飢饉。
延宝6年(1678年)、凶作。倹約令を出す。
元禄2年(1689年)、洪水、損毛31000石。
元禄7年(1694年)、洪水、損毛32000石。
元禄15年(1702年)、洪水、損毛32000石。
宝永元年(1704年)、洪水、損毛36000石。
宝永4年(1707年)、洪水、損毛38000石。
亨保5年(1720年)、大風、倒壊36軒、破損2780軒余。
亨保8年(1723年)、洪水、損毛52000石。
亨保13年(1728年)、大火、延焼1500戸、長岡城焼失。
亨保16年(1731年)、洪水、損毛51000石。
元文元年(1736年)、洪水、損毛60000石余。
元文2年(1737年)、洪水、損毛34000石。
元文3年(1738年)、洪水、損毛43000石。
寛保2年(1742年)、洪水、損毛56000石。
寛延4年(1751年)、地震、倒壊73軒、半壊562軒。
宝暦4年(1754年)、幕府から借金7000両と藩士の知行半分借上で長岡城再建。
宝暦6年(1756年)、火災、町家377軒、同心屋敷15軒焼失。
宝暦7年(1757年)、大水害、損毛75200石余。
宝暦8年(1758年)、旱魃、損毛47600石。
明和2年(1765年)、洪水、損毛45000石余。
明和5年(1768年)、洪水、風害、虫害、損毛58200石。領民が重税に武力抵抗。
明和6年(1769年)、火災、商家155軒、小屋170軒焼失。
安永元年(1772年)、大火。
安永2年(1773年)、旱魃、虫害、損毛41500石。
安永4年(1775年)、火災、町家171軒焼失。
安永7年(1778年)、洪水、損毛64500石。
安永8年(1779年)、洪水、損毛58790石。
天明元年(1781年)、洪水、損毛65970石。
天明4年(1784年)、大飢饉。粥を配布。
寛政元年(1789年)、洪水、損毛60800石余。
寛政4年(1792年)、大坂城代を命ぜられ、幕府より10000両借金。
寛政10年(1798年)、京都所司代を命ぜられ、幕府より10000両借金。
文化8年(1811年)、大火、町家数百軒焼失。
文化13年(1816年)、大火、540軒焼失。
文政11年(1828年)、三条大地震、全壊3632軒。老中を命ぜられる。
文政12年(1829年)、幕府より5000両借金。
文政13年(1830年)、洪水、虫害、損毛56700石。
天保4年(1833年)、洪水、地震、高波。洪水の被害だけで42000石余。
天保6年(1835年)、洪水、損毛48640石余。
天保7年(1836年)、洪水、損毛68096石余。
天保14年(1843年)、蒲原郡新潟浜村を没収される。
天保15年(1844年)、火災、城内門塀、家老屋敷等が類焼。
弘化2年(1845年)、洪水、損毛43800石余。
嘉永2年(1849年)、洪水、損毛34771石。
嘉永3年(1850年)、洪水、損毛41546石。
嘉永4年(1851年)、洪水、損毛31129石。
慶應2年(1866年)、不換紙幣10000両を発行。
川の下流で肥沃な平野が広がり、米どころで、熱心に新田開発して、家柄の格式は74000石でも実際の収入は140000石以上あったというのだが…。
たとえ表高の2倍の実収入があったとしても、災害で7万5千石以上も減収の年がある。
しかも長岡藩主は、たびたび幕府要職に抜擢されており、出費が多かった。
老中ともなると仕事上でも物入りだが、家臣たちもずっと江戸にいるから、都会は物価が高いうえに、江戸で金を使っても長岡藩の領民が潤おうわけじゃなし。
『その状況に追いうちをかけたのが、天保十四年(一八四三年)六月十日の「新潟浜上知」の命令である。新潟浜村六〇〇石は、日本海側の代表的な港町である。そこから長岡藩に入る収入は、仲金(すあいきん。積荷取引税、売り買い仲介手数料のようなもの。引用者注)だけでも年平均五五〇〇余両である。新潟浜村は、長岡藩にとって金櫃であった。それだけに、代替地が同石高の三島郡高梨村であったから、新潟浜上知は長岡藩にとって致命的ともいえる打撃であった。この結果は、領内における施策が、一段と苛歛・誅求になっていったのである。』(『藩史大事典』)
新潟港は禁制品の密輸の温床になっており、新潟は関東地方じゃないけど幕府は八州廻を派遣して対応していたという。
長岡藩は抜荷を取り締まらないばかりか、収入源にしていた、と公儀御庭番が通報、港全体が没収になった。
要するに、財政難は幕府も同じであり、儲かる土地を奪ったのである(幕府は、陸奥磐城の小名浜も途中から幕府領にしている)。
神楽南蛮という、ピーマンのような唐辛子があり、これを使った辛味噌がオススメ。
旧山古志村で産出されるものが特にうまいのだが、山古志村は中越地震で壊滅し、長岡市に吸収合併されている。
位置と、土地の性格
越後国古志郡、三島郡の北東部、蒲原郡の西部。
現在の新潟県長岡市、新潟市付近。新潟県の中部に位置する。
亨保9年(1724年)4月5日から、頸城郡・三島郡・刈羽郡・古志郡・魚沼郡の幕府領6万4千石を、一時的に預かったことがある。
寛延2年(1749年)から、上野吾妻郡1万5千石を一時的に預かったことがある。
寛政4年(1792年)の役知1万石は、摂津国東成郡、河内国若江郡・茨田郡。
前述のとおり、蒲原郡新潟浜村が没収され、かわりに三島郡高梨村を与えられる。
生粋の越後武士は、全員、越後を去ってしまった。
『秀吉は景勝の国替えに当たって「上杉家中の侍は、中間・小者に至るまで一人も残さず召し連れよ、しかし検地帳に記載され年貢を負担する百姓は、すべて残して行け」という朱印状を発した。兵農分離政策を徹底させ、強力な上杉軍団を支えた地侍層を、検地帳記載の農民として家臣団から切り離すのが狙いであった。』(糠澤章雄著『シリーズ藩物語 二本松藩』現代書館2010)
残ったのは専業ではない半武半農の下級戦闘員だけ、しかも、このあと純粋な農民になってしまう。
戦時には、各村から雑兵を差し出させて従軍させるから、この人々の遠い子孫は、幕末に、馬の世話くらいなら参戦しているはずだけれども。
長岡藩士は、もともと長岡の人ではない。
『牧野忠成移封に際し、上野の大胡より三河以来の家臣・家族合わせて三・四千人の大移動がなされた。したがって、長岡藩には、三河時代に培われた藩風が継承された。』(『藩史大事典』)
実際は、大胡から直接行かずに、いったん越後長峰を経由して行った人もいたのだけれども。
「三河以来の」ということに関しては、長岡藩では大変に保守的で、伝統を大切に守り続けた。
三河武士の家風を代々まじめに貫いたのである。
長岡藩士が優秀だったのは、長岡の人だからではなく、三河の人だったから。
我慢強く、質実剛健で、主君のために命を惜しまない純朴な忠義、これらは全部、三河武士の長所とされるもの。
いわば、県民性の入れ替え、人工的な移植がおこなわれたのである。
藩主と、藩の性格
越後上杉家、2代
越後の守護代、長尾景虎侯は、関東管領上杉家を継いだり、室町将軍から一字もらったりして、上杉輝虎公(いわゆる謙信)になる。
カリスマの名将だったが、酒と塩分の摂り過ぎで亡くなる。
姉の子が養子に入って継いだのが景勝公。慶長3年(1598年)、会津へ移封。
ここから、ふたたび、越後は群雄割拠になるのだが、話が複雑なので越後全体の話から。
斎藤堀家、いろいろゴチャゴチャ
春日山藩、福嶋藩
同年、越前北ノ庄から、堀秀治侯が45万石で入封、…といっても全部を直接支配していたわけではない。
与力や家老などの高級家臣がいて、これらに分配されていた。
村上頼勝侯が、本庄(のちの村上)9万石。
溝口秀勝侯が、新発田6万石。
堀親良侯が、蔵王堂4万石。
堀直政侯が、三条3万石。
堀直竒侯が、坂戸2万石。など。
『秀治の地位はこれら与力衆の統括者であり、自らの知行裁量権の及ぶ範囲は小給人分と久太郎台所入りの一〇万石余にとどまった。』(『藩史大事典』)
これらは大名の家臣というより、ほとんど大名に近いものだったらしく、それぞれ自分の城や領地や家臣を持っていた。
朱印状がどうなっていたかは俺にはわからないが、それぞれ実力を認められ、秀吉公からも一目置かれていたということ。
家康公に対しても、ほとんど直接やりとりしている。
たとえば直竒侯の坂戸2万石というのは、秀治侯から1万、秀吉公から1万(と、羽柴姓)というもらい方。
こういう例は珍しいことでもない。
直江兼続侯は、秀吉公から直接評価されており、会津120万石の執事ともなれば30万石ももらっており、これを直属の部下たちに分けても自分の分がまだ6万石もあった。
島清興侯は石田三成侯の家来といっても、2万石で召し抱えられている。
江戸時代に入ってからも例があり、仙台藩の片倉小十郎殿の家、加賀藩の人持組頭8家、熊本藩で八代城を代々まかされた松井家、鳥取藩の家老たちによる分権委任統治など、いずれも大名の家来だが、格式以外のことでは大名とほとんど遜色なかった。
当時、国替えの時には、その年の年貢を半分取って、半分は次に来る領主に残しておくことになっていたが、上杉家は全部持っていってしまった(『越後風土記』、『関原始末記』)。
これは石田三成侯と直江景続侯が示し合わせてやったという。
堀家が上杉家に返還を求めて抗議したところ、蒲生家が会津を去る時にそうしたから自分たちもそうせざるをえなかった、あなたたちは越前北ノ庄から年貢を持ってこなかったのか、そりゃ御気の毒様(笑)とかなんとか言われて、返してもらえなかったという。
しかたなく堀家は、新潟代官から2000俵の米を借りた。
堀家というのは、堀秀政侯の家。
織田・豊臣家に仕え、戦闘から事務から政治から同性愛まで何でもそつなくこなすので「名人」と言われた武将。
小田原征伐に参加している最中に、30代で病死した。
『先祖は美濃国茜部村(大垣市)の土豪地侍』(『藩史大事典』)
この時は、その息子たちの代になっていた。
長男の秀治侯が、本家として春日山城にいたから、この10万石余が何かと言えば春日山藩ということになる。
関ヶ原の時は、上杉家が、越後の民衆をあおって一揆を起こさせるという嫌がらせをしてきたが、堀家はきっちり鎮圧した。
慶長11年(1606年)、秀治侯も30歳で若死に。
長男の忠俊侯が継ぐが11歳これまた病弱で、家老が実権を握ることになる。
春日山城の東、福島(現在の上越市港町)に、新しい城を築いて、春日山城は廃棄。
慶長12年(1607年)には福嶋城に移ったので、春日山藩は福嶋藩ということになった。
蔵王堂藩
秀治侯の弟(秀政侯の次男)の親良侯が、蔵王堂城と4万石を持っていた。
うち1万石を家老の近藤重勝殿に分けたので、実際は3万石。
この蔵王堂藩3万石が、長岡藩の前身。
この人は秀治侯や直政侯(後述)と意見が合わず、一揆制圧の恩賞のことなどで争いになり、この騒動が改易につながらないよう、みずから身を引いた。
兄の子(秀治侯の次男。忠俊侯の弟)の鶴千代君を自分の養子にして、慶長7年(1602年)、病気と称して家督を譲る。
なんだか、とてもいい人だったのではあるまいか。
その後、親良侯は、本多正純侯に仕え(本多正信侯の息子。これまた親子そろって文治派)、慶長16年(1611年)下野真岡1万2千石になる。
親良侯の正室は、浅野長政侯の娘。
浅野長重侯が、父の真壁藩を相続するというんで手放した真岡藩が、今度は親良侯に与えられたということ。
なお、鶴千代侯は慶長11年(1606年)、9歳で死亡し、蔵王堂藩は2代で終わる。
三条藩、坂戸藩
堀家の家老職は、秀政侯の従兄弟の奥田直政侯が勤めていたが、主君の苗字をもらって、これも堀家だった。
のちに主君の堀家よりも栄えることになる。
堀直政侯は、直江兼続侯、小早川隆景侯と並び称される名宰相。
家老といっても、この時点でも沼垂郡5万石、三条城主。
息子が4人いた。
長男、直次(のちに直清)侯
三条城の城代を勤めた。
慶長13年(1608年)、父の三条藩5万石と堀家家老職を継いだ。
次男(一説には三男、または長男だが庶子)、直竒侯
魚沼郡の坂戸城にいて坂戸藩2万石。
鶴千代侯の後見人として、蔵王堂藩の政務も代行。
鶴千代侯の死後は、蔵王堂藩を吸収して5万石になる。
三男、直之殿
旗本。息子の直景殿のとき大名になる。上総苅谷藩、のちの上総八幡藩。
直景侯の孫のひとりは、養子に行って、湯長谷藩の2代目藩主になる。
四男、直重殿
旗本。のちに信濃須坂の大名になる。
家老堀家の騒動と、主家堀家の滅亡
家老堀家の直政侯が慶長13年(1608年)に亡くなると、その息子のうち上の2人、直清侯と直竒侯が、権力争いを始めてしまう。
もともと、どっちが年長か嫡男か、ハッキリしない兄弟だったようだ。
主君も幼いし、自分たちもほとんど普通に大名で、しかも自分たちも堀家。
斎藤、陶、鍋島、島津など、もともと家老や親戚だったのが、主君や本家の地位を奪って、すり代わる例は、珍しいことでもない。
考えてみりゃ、信長公も秀吉公も家康公もやったことだ。
主君の堀家 忠俊侯(幼君、傀儡)
┃
┣━ 主君の弟の堀家 鶴千代侯(幼君、死亡)
┃ 蔵王堂藩は後見人の直竒侯が吸収合併
┃ ↑
┗━ 家老の堀家 直清侯 実力者 ↑
┃ 地位向上
┃ ↑
┗━━━ 家老の弟の堀家 直竒侯
兄弟喧嘩も収拾つかなかったが、直清侯は宗教弾圧もやっていたという。
歴史上で、敗者は暴君だったと伝えられるのが常だから、話に尾ヒレがついているかもしれないが。
浄土宗と日蓮宗(仲が悪い。教義がお互いを否定する内容)の優劣を論争させて、敗者を処刑したとか。
みずから浄土真宗の僧侶と宗教論争して、その僧侶を処刑したとか。
とにかく僧侶を殺したので、宗教的な一揆が起きる寸前だったとか。
これを家康公が、じきじきに裁定する。
豊臣恩顧の大名が御家騒動をやらかしてくれたなんて、願ってもないチャンス。
越後は、東北の外様や加賀100万石を牽制すべき役割なので、外様にやらせておいても意味がない。
そうでなくても、家康公は浄土真宗の武装蜂起のせいで滅亡しそうになったことがあるから、宗教戦争がどんだけキチガ◯で恐ろしいかを熟知しているので、わざわざ一向一揆を生み出すような奴に大名をやらせておくわけにいかない。
三条藩は改易、直清侯は出羽最上へ流罪、身柄は最上義光侯にお預け。
坂戸藩は改易、直竒侯は豊臣寄りだったが、優秀な武将だったせいか家康公に召し抱えられ、信濃飯山4万石へ減転封。
『恩栄録』『徳川実紀』では、この時から直竒侯は大名になったとする。
江戸幕府のもとでの大名、完全に独立した大名、という意味ではそうなのかもしれないが。
主君の堀家も監督不行届きとかなんとか理由をつけて、慶長15年(1610年)閏2月2日、福嶋藩は改易、忠俊侯は陸奥磐城平へ流罪、本多忠政侯にお預け。
忠俊侯の正室は、本多忠政侯の娘だった。
忠俊侯の弟のひとり季郷君は、内藤家の家臣になっている。
この内藤家は、陸奥磐城平から日向延岡に左遷されることになる、あの内藤家。
家康公みずから堀家の御家騒動を裁くことになった経緯については、諸説ある。
藩政について兄弟で意見が合わず、両者それぞれが幕府に訴えたとか。
直清侯の讒言によって、慶長14年に直竒侯は越後を追放されたので、江戸、さらに駿府へ出かけて、家康公に泣きついたとか。
それは追放ではなくて、自ら出かけたのだぁーとか。
その時に、自分だけは悪くないっ、というふうに話を説明したので、直竒侯だけは改易されずにすんだとか。
母親がオロオロして秀忠公の正室に相談したとか。
母親が家康公のもとへ送る使者として、直竒侯が選ばれたに違いないであろう、だから直竒侯は追放されたわけじゃないんだぁーとか。
長岡藩の始まりは直竒侯なので、「越後を追放され、兄を謀殺し、主君を滅亡させて地位を奪い、自分だけチャッカリ罪をまぬがれて出世した奴が、長岡藩の祖!」というのは都合が悪いらしく、とかく直竒侯が美化され、ここは「訴訟に勝った」と書かれることが多い。
『藩史大事典』も、兄弟のどちらが勝ったかという視点であり、『駿府城で裁きがあり、直清は負けて』、『直竒の勝ちとされたが、』などと書いている。
いくら越後の人間が純朴だからといって、これを兄弟の勝ち負け問題だと思っているようであれば、そんなことだから潰されたのである。
勝ったのは幕府、負けたのは主君の堀家。家老の堀家兄弟はまんまと利用されたのである。
(越後高田藩領、長沢松平家)
堀家の裁きの翌日というから、おそらく慶長15年(1610年)閏2月3日、信濃川中島から松平忠輝侯が、60万石(一説には75万石)で移封になる。
家康公の六男。
同母弟の七男の松千代君が早世したので、その家を継いでいたという人。
兄が弟を継ぐっていう。
正室が伊達政宗公の長女だったことから、伊達政宗公らに高田城を作らせた。
慶長19年(1614年)7月から本拠とし、福嶋城は廃棄したので、福嶋藩は高田藩ということになった。
この人はどういうわけか、赤ん坊の時から一貫して家康公に嫌われていた。
畜生腹(双子)で生まれたせいとか、母の兄が石田三成侯の重臣だったとか、性格が乱暴だったとか、顔が醜かったとか、死んだ信康侯に顔が似ていたのが気に入らなかったとか、諸説あるが、家康公が抹殺した身内のことなんて、都合悪くて、正確なところは歴史に残らないのかも。
元和2年(1616年)7月、改易、伊勢朝熊に流罪。
大坂の陣の時、忠輝侯の家来が秀忠公の旗本を殺害し、その処罰のための身柄の引き渡しに替玉を差し出してバレたとか、それは戦場で軍法違反(抜駆)を斬捨御免にしたので罪にならないとか、それにしても秀忠公の旗本を殺せば只では済まないとか、戦国最後の重要な激戦だった天王寺岡山の戦いで大和方面軍の総大将のくせに遅刻したとか、夏の陣の結果を朝廷に報告する時に仮病を使って参内せず船遊びをしていたとか、信長公の大ファンだったとか、じつはキリシタンで海外貿易に積極的だったとか、諸説あるらしいが、とにかく家康公が嫌ってるんだからもう、どうしようもない。
奥田堀家(直竒系)
10月、信濃飯山から、堀直竒侯が、蔵王堂に戻ってくる。
堀家の騒動のあと、直竒侯は飯山藩4万石と言っても、家康公のそばに仕えていたから駿府にいた。
駿府城の消火活動で最も活躍したことから美濃国多芸郡1万石を加増されていたが、今度は大坂の陣で大活躍したため3万石加増、かつての蔵王堂藩跡地に8万石で入った。
蔵王堂城は信濃川の洪水をしょっちゅう浴びて削れるので、南東の長岡に移転したいという話が以前からあって、すでに慶長10年(1605年)ごろから移転を始めていたが、信濃飯山に飛ばされたため、やりかけのまま中断していた。
この移転事業を再開、これで蔵王堂藩ではなく長岡藩になり、徳川政権はとっくに始まっているので、これで長岡藩がスタート(というのは、このあと牧野家が藩主になった時には、いきなり長岡城に入っている)。
長岡では、牧野家の美化がはなはだしいので、最初の長岡藩主は堀家だということが歴史から抹殺されており、捏造が恒常的におこなわれている。
しかも都合いいことに「牧野忠成」は2人いるので、「初代忠成」という言い方をすれば、長岡藩牧野家の初代を長岡藩の初代に見せかけやすい。
実際のところ、ここまでの堀家の経緯が複雑すぎて面倒くさいので、長岡の歴史を語る本はもう、牧野家の話ばかり書いてあることが多い。
しかも、堀家が「長岡藩」をやっていたのは1年ちょっとにすぎず、しかも長岡城が完全には完成していないまま長岡を去っている。
加増の沙汰があり、堀家は元和4年(1618年)越後村上10万石へ栄転。
ただし、次の代でつぶれる。跡継ぎがなくて改易されるのである。
牛久保牧野家(本家)、12代
上野大胡から越後長峰へ移封している途中の牧野忠成侯が、5月、長岡へ移封になる。
この人は上野大胡2万石をやっていたのが、元和2年(1616年)7月、越後長峰5万石へ国替えを命ぜられる。
しかし長峰は何もない所だったので、城や城下町や家臣たちの家を、一から作らなきゃならない。
大胡に移封してくる大名もいなかったので、その後も大胡に居座ったまま、長峰への移転準備をしていた。
長峰城も建築途中、まだ引越が終わりきらないうちに、今度は長岡に移封という話になった。
しかも、忠成侯が長岡に初めて入ったのは、寛永7年(1630年)6月。
以後、長岡は牧野家が統治して明治に至る。
牧野家は三河武士の東側で、もともと今川家の家臣だったが、のちに松平家に負けて子分になり、ふたたび裏切って今川家についたが、家康公の勢いに屈して、またまた徳川家に従属させられた家。
牧野氏は出自が怪しいもんだから粉飾して、よけいに怪しく、同姓同名の人物が多くて、先祖がどうなってるのか謎だらけ。
『シリーズ藩物語 長岡藩』では、武内宿禰の子孫だとか本気で書いてあるうえに、それを根拠に「不死身の家系」などと書いてある。
つまり、人間ではなく磯野サ◯エであるということが、歴史の本に史実として書かれてしまうくらいに、長岡の領民からは歴代名君として慕われており、絶大な人気がある。
『藩史大事典』によれば、もともと紀氏を称していたのが、家康公に臣従した頃から、『清和源氏を称することになった。』とかで、じつは天皇家のほうがよっぽど不老不死の家系なのだけれども。
地方の一武将にすぎない、素性もウサンくさい牧野家が、徳川家の天下取りに乗っかって成り上がったわけだが、最初は上野大胡2万石にすぎなかった。
しかも上田攻めの時の牧野家は、軍令違反、挑発に乗って無断で攻撃、しかも惨敗、さらに、責任を取らずにバックレた部下の責任を取らずに自分もバックレて行方をくらますという、大失態をやらかして罰せられる。
上田の戦いについては、別記。
牧野家は、一度落ちぶれたところから、挽回して、見事に返り咲いたのである。
まずは家光公生誕の恩赦で、罪を許される。
『 大坂冬の陣(一六一四)では先陣五番。夏の陣(一六一五)では四番だったというが、二七級の首をとったにすぎない。戦功で五万石以上の大名になるには、戦局を転回させるような働きが必要だった。
だが、元和二年(一六一六)に越後長峰で五万石。
元和四年には越後長岡で六万四千石。ついで元和六年に一万石の加増を受けて、七万四千石余りの大名となる。
それには、情報戦での勝利。その陰で人身御供になった女性たちがいた。承応三年(一六五四)に忠成は、七十四歳で没しているが、その際多くの遺産を女性たちに分けている。その総額は五万三〇七〇両にも及ぶ。お千代に三千両、おまんに百両、お吉に一万五千両、おふくに二千両、おみ津に二百両、おかつに一千両などである。そのすべては女性たちであった。そのなかに忠成を助けた女性が大勢いたと思われる』
(稲川明雄著『シリーズ藩物語 長岡藩』現代書館2004)
『伊賀者、加藤者、柳生者などといわれる忍びの者と称される家臣の構成が意外に多い。』
(同書)
『福島正則には津田氏から出た正室がいたが、亡くなったので、その継室に牧野忠成の妹(昌泉院。引用者注)が選ばれた。実は昌泉院は、福島家の内情を幕府に通報していた。その間、福島正則との間に二女をなしている。
広島城の無断修理が表沙汰になった際、昌泉院は、広島城を脱出して、兄の下に逃げ帰っている。いよいよ、福島正則が改易と決まった際、その使者に牧野忠成がなった。芝愛宕下の福島邸に牧野が入ると、福島正則は一人の女の子を抱き、もう一人を連れてあらわれ、改易の口上に「是非もない」と応じたという。
この功により、長岡藩の牧野忠成は、一万石の恩賞にあずかった。』
(同書)
どうやら、女たちを操って、スパイ活動で実績を上げたらしい。
こういう分野は派手ではないので、後世あまり評価されにくいが、絶対に必要な役目である。
しかも、牧野家は女の体を出世の道具に利用したという、とても損な役でもある。
腹を痛めて産んだ子を捨てて逃げるほど、情に流されない仮面夫婦で、スパイ任務に忠実というのもすごいことで、単純な善悪ではなく、政治の大局が見えている。
長岡藩牧野家初代の忠成侯には、弟が2人いた。
すぐ下の異母弟、秀成君は、寛永14年(1637年)6月6日、変死している。
古志郡椿沢町の椿沢寺に幽閉され、暗殺または切腹させられた。
牧野家は、都合の悪い肉親を殺したのである。
藩内が武断派と文治派に分かれ、温和で人気があった秀成君は文治派に擁立されており、忠成侯にとっては藩主の座を奪われかねないので、邪魔だったのだという。
綿貫軍兵衛という忠臣がいて、幽閉中の秀成君によく仕えたため連座で謹慎になったとか、じつは忠成侯がもぐりこませた刺客だったが、暗殺が成功して用済みになり抹殺されたとか。
しかも、秀成君暗殺は闇から闇へと隠し続けたため、昭和49年(1974年)までは出版物に載ることもなかったという徹底ぶり。
もうひとり、末弟のほうの人、儀成君は、旗本。
その孫の貞通君は笠間藩主になる。
長岡藩牧野家6代目の忠敬侯と、同7代目の忠利侯は、延岡藩牧野家からの養子。
同8代目の忠寛侯は、5代目の実子だが、すでに養子を入れてしまっていたので、手続き上は、笠間藩牧野家からの養子。
しかも表高は、長岡は7万4千石、笠間は8万石、笠間藩のほうが家格が上なのである。
三根山藩から米をめぐんでもらった話もそうだが、「牧野家の本家はだらしないので、分家に助けてもらっている」というのは、聞こえが悪い。
現在でも、笠間藩のことを言われた時には、「でもでも、長岡は、本当は実高では14万石以上あったのだァ!」とかなんとか、必ず実高の話を持ち出すのが、長岡では絶対のしきたりになっている。
寛永11年(1634年)、忠成侯は、跡取り息子以外の息子たちに、分家を作らせる。詳細はそれぞれのページ。
次男の武成(のち康成)侯が、與板藩、のちに小諸藩になる家。
四男の定成殿は、旗本、のちに三根山藩になる家。
ほかに娘がいて、忠成侯の長女は、大垣藩の戸田氏信侯の正室になっている。
長岡藩牧野家は、武蔵川越へ国替えさせられそうになったこともあったが、奇蹟的に中止。
精力絶倫の将軍家斉公が、大量の子を産ませ、大名の養子や正室にしては、えこひいきして反感を買っていた。
川越藩松平家は、莫大な借金で首が回らなくなっていたので、跡継ぎ息子をどかして、家斉公の25男の斉省侯を養子に入れて継がせた。
このコネを利用して、もっと豊かな土地への移封をおねだり。川越藩松平家は、出羽庄内へ移転と決まった。
庄内藩酒井家を長岡へどかすため、天保11年(1840年)11月1日、長岡藩牧野家は川越へ国替えを命じられた。
しかし酒井家は、儲かる米どころを立ち退けと言われて面白いわけがないし、せっかく今までインフラや福祉や金融を整備して自分の国を作ったのを手放したくはない。
庄内の商人は、酒井家に50万両も貸していたので、踏み倒されてはかなわない。
庄内では、大名から農民まで結束して、強い反対運動を起こした。
ちょうど家斉公が翌年1月に死亡、もう死んだからいいやと思って、家斉公の公私混同ムチャクチャ政策に対する批判が強く出て、水野忠邦侯の潔癖な改革が始まる。
前将軍の身内びいきのための国替えなんてものは、7月12日に立ち消えになってしまった。
大名が拒否したら将軍の決定すら覆った!、藩の既得権は幕府といえどもほとんど不可侵!、このことは悪い前例になってしまい、幕末に雄藩が好き勝手に動く遠因になる。八幡和郎氏などは、庄内藩が幕府崩壊の引き金を引いたとまでおっしゃっている。
すでに吉宗公の時、参勤交代や国替えなど大名の負担を軽くする方向が始まっており、大名はつけあがり、幕府の権威はどんどん落ちていくのだった。
(奥羽越列藩同盟に属する藩主、牛久保牧野家(本家))
長岡藩はたびたび老中を輩出したことから佐幕色が強く、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍についた。
ところが戊辰戦争では、慶喜公が戦うなと言っているにもかかわらず、長岡藩は官軍を敵に回し、天皇家に弓引いた犯罪者「朝敵」になり、大量の死者を出す。
長岡の人が書いた文章では、時代の形勢をきちんと読んでいたので無益な戦いを避けるため中立の立場を取ろうとしただの、官軍と会談して戦争回避を試みたが交渉が決裂したので仕方なかっただの、長岡藩ばかりが正しかったかのように美化しまくって書いてあるが、どうも長岡藩は最初から官軍と戦うつもりアリアリなのである。
中立に失敗しただけなら、官軍側につくことだってできたのだから。
長岡藩主は、何度も養子が相続している。
4代目の忠寿侯は、近江膳所藩本多家の康慶侯の三男。
6、7代目は、前述のとおり笠間藩から。形の上では8代目も。
11代目の忠恭侯は、三河西尾藩大給松平家の乗寛侯の三男。
12代目の忠訓侯は、丹後宮津藩本庄家の宗秀侯の次男。血筋は大河内家だが松平姓。
13代目の忠毅侯は、忠恭侯の四男。
合戦で活躍できないもんだから、女を食い物にして出世し、邪魔な肉親を次々に暗殺したのは、すべて長岡牧野氏がやったこと。
幕末の牧野家は、牧野氏の血筋ではない!
安政の大獄を押し進めて尊皇攘夷を弾圧した松平宗秀侯の、息子さんが、長岡藩牧野家当主をやっていたのである。
徳川家には、「徳川十六神将」「徳川二十将」「徳川二十八神将」という武将リストがあり、江戸幕府設立に貢献した優秀な家臣が数え上げられていた。
牧野家は、関ヶ原のとき大失態、大坂の陣でもろくな活躍がなく、このリストに入れてもらえなかったことから、「徳川十七神将図」なんてものをでっちあげ(狩野秀信画伯に描かせた。しかも、ちゃっかり牧野氏が中央寄りにいる絵)、これを家宝にしていたという。
では佐幕かというと、そうでもなく、河井継之助殿の進言で、忠恭侯は幕府要職を辞している。
幕府を見捨てて縁を切り、朝廷にも従わず官軍を攻撃する。一体なにがしたいのか?
このへんの事情は、八幡氏の『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』によれば、河井継之助の『自己陶酔』が、長岡滅亡の原因としている。
『大政奉還後、忠恭の隠居により藩主となった牧野忠訓(23)と継之助は、二人して上京したうえで政権をそのまま徳川家に委ねるように上申したが入れられるはずもなく、つぎに江戸に回って藩邸の什器や美術品を横浜で売り払ってガットリング砲など近代的な装備を買い入れて国元に帰った。』(同書)
この時点で、官軍を相手に戦争する決意だったことは間違いない。
というのは、武器を手に入れて何をしたかというと、今度は藩内の恭順派を押さえ込むのである。
『官軍が越後に進行(原文ママ)してきたときには、官軍に恭順するという意見も藩内で強かったのだが、継之助は反対し、忠恭もこれを積極的に支持した。継之助は小千谷で官軍の軍監だった長州の岩村精一郎と談判し「官軍側に立って戦うとか献金をすることには、藩内の意見が時間をいただかないと集約できない。また、会津などを説得するので時間が欲しい」と述べたが、このような子供だましは通用せず、継之助の態度も横柄であったので相手にされなかった。継之助は「局外中立」を宣言するも官軍が聞き入れるはずもなく戦いが始まった。』(同書)
もし、戦争準備の時間かせぎのための口実ではなく、言ってることが全部本当だったとしても、「この政治指導者は、藩内を勤王でまとめあげる能力がない」ということだから、官軍から見れば、危なっかしくて、うさん臭いだろう。
『この継之助の構想を官軍側が退けたことを、「岩村のような人物には河井継之助とほかの小賢しい家老たちとの区別が付かなかった」とする情緒的な表現をよくみるが、継之助のいうように各藩が勝手に軍備を増強し、政府の命令を無視して好きなように行動できるとなれば、国家としての日本は軍閥が割拠して列強が領土を食い荒らすままになった中国のようになっただろう。
その意味で、彼の構想は慧眼でも何でもなく、国家としてこのうえもなく危険なものだったのだ。そして、老中まで務めた忠恭がそれに気付かなかったとしたら不見識なことであったとみるべきだ。岩村の失敗は、河井の提案を受けなかったことではなく、その場で拘束せず長岡に戻らせたことである。』(同書)
慶応4年(1868年)5月19日、長岡城はたった1日で落城。
それをまた奪い返したが、4日後にふたたび落城(現在でも、長岡城というのは跡形もない)。
ここで長岡藩は、ひとまず滅亡。
(交戦団体、牛久保牧野家(本家))
ここからは亡命政府?(長岡藩の行政機能が会津に疎開している格好)
『ところで、忠恭と忠訓の殿さま親子は、最初の落城の際に会津に逃亡して、そこで悲報の数々を聞いたというのだが、足手まといになりかねないバカ殿さまならともかく、老中まで務めた忠恭のような人物ですら家臣を放り出して他領に逃げるというのは私にはどうしてもが合点(原文ママ)がいかない。』(同書)
8月16日、河井継之助は逃亡中に戦傷が腐って死亡。
明治に改元して、9月25日、忠訓侯が降伏。
ここで長岡藩という組織は滅亡(交戦団体としても終了)、藩主父子は江戸に出頭して謹慎。
(明治政府下の藩主・知藩事、牛久保牧野家(本家))
12月7日、忠毅侯が牧野家の当主になる。
22日、新政府から2万4千石だけ下賜されて長岡藩が再スタート。
せっかく復活した長岡藩だが、廃藩置県を待たずに、みずから滅びた。
米百俵などと格好つけてみたが、やはり戊辰戦争の疲弊が深刻で、明治政府に何度も救援を要請したが、逆賊の自業自得なんぞには、ろくな救済措置がなかったため、財政破綻して長岡藩は倒産。
内戦が終わったら、勝った政府は国民を救助する義務とか責任があるのではないのか?
贅沢しようというのではない、その日の最低限の食べ物くらいは人道支援だろ?
明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還。
明治3年(1870年)10月22日、牧野家は藩政を放棄(知藩事を依願退職)、東京へ去る。
長岡藩は完全に消滅した。
『藩史大事典』では、年表では『明治三 10・22 牧野忠毅、藩知事の辞職認められる。』『10・22 長岡藩廃藩、柏崎県となる。』としながら、歴代藩主の一覧では、忠毅侯の藩主在位期間が『明治1・12・7〜明治3・10・27』となっている。謎。
江戸屋敷
上屋敷
外桜田。現在の皇居外苑。元禄16年(1703年)の地震で被災。
『東京時代MAP』では、呉服橋を渡ってすぐ上屋敷らしきものがある。
北は道と濠を挟んで御勘定御奉行。東は呉服橋。南は北町奉行所。西は松平伊豆守邸(三河吉田藩上屋敷)。
中屋敷
飯倉町。と『藩史大事典』にある。
増上寺の西側一帯のことだとすれば、『東京時代MAP』では、このあたりには『牧野筑後守』(のちに三根山藩になる旗本?)しか掲載されていない。
宝永4年(1707年)から、愛宕下大名小路。現在の西新橋三丁目、愛宕一丁目交差点の南東付近。
『藩史大辞典』は、これを上屋敷だとする。
北は薬師小路を挟んでこまかい武家地。東は松平隠岐守邸(伊予松山藩上屋敷)。南は片桐助作邸(旗本)。西は道と桜川を挟んでたくさんの寺。
下屋敷
代々木町。
文化14年(1817年)8月、『西の丸下屋敷を返上、改めて小川町阿部備中守屋敷家作とも拝領』(『三百藩藩主人名事典』)
『東京時代MAP』では、現在の江東区平野一丁目にも下屋敷らしきものが見受けられる。
北は法花山浄心寺。東は朽木山城守邸(旗本か)。南は秋田筑後守邸(旗本5千石)。西は上田主殿助邸ほかこまかい武家地。
下屋敷
平井町(現在の東陽町)あたりにも、下屋敷があったらしい。
抱屋敷
本所小梅村。現在の向島三丁目。本所高校の西。
『東京時代MAP』では僻地すぎて空白地帯。おそらく周囲は農村だったと思われる。
藩校
長岡藩は、三河武士の誇りということに関しては、藩士たちを規則でしばって徹底的に思想統制していた。
しかも歴代藩主が幕府要職を勤めた。婚姻により、松平定信侯と親戚にもなっている。
にもかかわらず、寛政の改革に遠慮することなく、藩校が朱子学一辺倒にならず、学問の自由をしっかり守ったのが大きな特徴。
藩校の教授たちは慶應4年(1868年)2月、勤王の意見書を提出している。意見が言えたのである。
『崇徳館設立の先駆となったものは、山本老迂斉が宝暦五年七月に設けた書堂である。これは、老迂斉の自邸に開かれ、同志を集め儒学を研修奨励した。』(『藩史大事典』、斉は原文ママ)
文化5年(1808年)4月28日、千手口御門の正面「俗称、追廻しの角」という所に藩校を開校。
のちに「崇徳館」と命名。
『越後長岡年中行事懐旧歳記』に、施設の鳥瞰図が載っている。
授業料は年間たったの100文。
書籍掛、都講2、督学2、教授4、助教12、監事、という職員構成、つまり校長よりも蔵書管理人のほうが偉い。
講釈をしないで素読ばかりを教えていたという証言があり(渡辺廉吉)、ろくに意味もわからず読むだけであり、のちの国漢学校のような理解する学習ではなかったという。
河井継之助殿も、こんな藩校で満足する器ではなかったので、江戸や備中松山に遊学して、高名な学者たちに師事した。
ほかに、文政13年(1831年)、江戸の上屋敷にも、藩校「就正館」を設置している。
慶應3年(1867年)、崇徳館のための寄宿舎「造士寮」を設置。
その後、藩主が藩を捨てて逃げ出したり、藩がいったんつぶれたりしたので、崇徳館は自然消滅したらしい。
明治2年(1869年)5月1日、四郎丸村の昌福寺の本堂を借りて「国漢学校」を開設。
国学と漢学を教える学校。講師陣は新進気鋭の若手に刷新。
平民も入学できたが、実際に入学した平民はいなかったという。
明治3年(1870年)、家老の山本帯刀殿の、坂ノ上町の邸宅跡地に、新校舎を建設。
これは貧困と飢餓の極限状態の中でやりとげている。
4月22日演武場、6月15日国漢学校を、移転。
5月、支藩の三根山藩から救援物資として贈られた米100俵を、食べずに換金、270両ほどになり、これを教育費に回す。
食えば消えてなくなってしまうが、飢えているからこそ教育を優先、未来への投資という考え。
目の前で人々が飢えているからには、大反対があったが、断行してしまった。
ところが、角栄先生の娘さん眞紀子先生は、変人を産んでスカートを踏まれ、大臣をクビになる。
劇場型パフォーマンス内閣が「痛みに耐えて構造改革(自称)」をやる時に、この「米百俵の精神」という言葉だけが借用され、痛みに耐えてもなーんにも世の中が良くならず、郵便局が民営化しただけであり、問題は未来に先送りされた。
『この事例に倣うならば、教育予算を増やさなければ事例を正しく使ったことにはならない。小泉さんは教育予算を削ろうとしているのだから、本当はその場できちんと反論できる政治家の人たちがいなければならなかった。(中略) 世の中には、このように情緒的な意味で過去事例を利用する人がいるので気をつけなければいけない。(和田秀樹『大人のケンカ必勝法』PHP研究所2008)
しかも、中越地震の時に、被災者におにぎり1個しか行き渡らず、それを眞紀子先生が「ダイエットになっちゃうわね」と言った時にも、眞紀子先生を叩こうとする人たちが、この「米百俵の精神」を不謹慎なブラックジョークに使った。
俺はあの時、募金もしたし、見舞状と熨斗紙をつけた食糧を現地に送ったぞバカ野郎。
明治3年(1870年)10月22日、廃藩により、すべて廃校。
唯心一刀流継承者???
「一刀流」は、あった。
江戸時代末期には藩内の剣術を一刀流に統一した、という珍説もある。できるものか?
藩校の指導内容がそうだったという意味なのかもしれないけれども。
今まで他流をおやりになってた先生方はどうなったのだろうか。
『藩史大事典』では、剣術流派を列記した一番最後に、『一刀流(嘉永年間)』と書き、そのすぐ後に1スペースあけてから、[野口鉄彌]と書いてある。
たとえば、中西派か北辰一刀流による竹刀剣術が流行して、他流を駆逐したということであるとすれば、それはどこの藩でもありうるが、長岡藩の場合、神道無念流と直心影流が入っているので、一刀流というのがどの一刀流なのか。
『藩史大事典』は、長岡藩には外他流もあったとするが、どの外他流なのか書いてないうえに、『後滅びた』という。
他の剣術の主なところ
一刀流
前述。
鏡捲流
『藩史大事典』に、このように表記されているのだが、鐘捲流の誤植か。のちに滅びたという。
真影流
どの真影流か不明。窪田系か。村上藩に捕縄の真影流があった。
一説には、長岡には心景流というのもあって、真影流と同じものだとか違うとかいうが、柔術以外で心景という表記は未確認。
神道無念流
斎藤派の根岸先生が有名。
直心影流
御存知のとおり。
東軍流
長岡の東軍流は、中津の東軍流よりももっと詳細不明の東軍流。
のちに滅びたという。
戸田流
外他流とは別系統らしい。『藩史大事典』も外他流と戸田流を別扱いで併記している。
どの戸田流なのか不明。一説には富田流系らしいのだが、それにしても不明。
外他流
前述。
三留流
三富流(新富流)のことらしいが、長岡では三留という表記が一般的だったらしい。
のちに滅びたという。
柳生流
一刀流が主流になるまでは、これが最も長岡で流行っていたようでもある。
これの話は常時4Gで。
現在の状況
現在にも過去にも、唯心一刀流の痕跡は見当たりません。
中越は武術の穴場で、演武会に出場なさらない謎の流派がゴロゴロ現存してます。特に居合。
御親切な先生方ばかりで、大量の複写や、詳細な手書き説明をくださる。
明治以降に作った流派や、現代武術の新団体も多い。
しかし唯心一刀流に関しては、本当に何も見当たりません。
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