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 平の内藤家の娘婿、しかし唯心一刀流の痕跡がありそうもない

 越中 野々市
 下総 田子
 陸奥 窪田
 能登 石崎

 

 藩の名前

野々市藩、布市藩。田子藩。窪田藩菊多藩。石崎藩? 土方掃部頭など。

『藩史大事典』、『三百藩藩主人名事典』では、窪田藩で項目を立てて、菊多藩と書き添えてある。
『藩と城下町の事典』では、菊多藩で項目を立てて、窪田藩と書き添えてある。
菊田郡窪田だから、どっちでも良さそうなものだが。

藩庁所在地の地名を藩名とするのが一般的であること、本拠地の藩庁施設の名前が『窪田陣屋』であること、菊多郡には磐城平藩領もあったことから、うちのサイトでは窪田藩としておく。

郡山の安積郡にも窪田、出羽秋田にも久保田(最初は窪田と表記)、そのほか、ちょっと凹んだ土地があれば窪田なので注意。
野々市が、どっちの野々市か、という話は後述。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

外様、無城。

城は無い。
『日本系譜綜覽』では『菊多城主』となっているが、菊多城跡地の領主、という意味?

石高の変遷は後述。

窪田藩としては2万石でスタート。
延宝7年(1679年)11月27日、弟に2千石分けて、1万8千石になる。

 

 位置と、土地の性格

野々市は、越中国新川郡付近。1万石。布市とも書く。
現在の富山県富山市布市または上栄から、富山市東猪谷あたりまで。
富山県の中央北部、
富山市の南部に位置する。
石川県にも野々市があるので注意。
『藩と城下町の事典』、『日本歴史人名辭典』、『江戸時代全大名家事典』、いずれも、野々市藩は加賀の野々市だとする。
うちのサイトでは越中説に従うが、根拠は後述。
この領地は、前田家の希望により石崎と交換。

下総国田子。多古とも書く。
現在の千葉県香取郡多古町付近。約5000石。
千葉県北東部、
成田の東、香取の南あたりに位置する。
これは手放して、かわりに窪田をもらった。差額5000石は大坂の陣での功績。

陸奥国(磐城国)菊多郡窪田。現在の福島県いわき市勿来町窪田付近。1万石。
北茨城市の北。
茨城との県境部分。泉藩の南西。
大昔から「なこその関」と呼ばれ、明確に関所があったわけでもないが、関東と東北の境目。

能登国石崎。現在の石川県七尾市石崎町付近。合計で表高1万石(実高は1万3千石)。
石崎は、石川県北部、能登半島の湾になっている所、
七尾湾の西湾と南湾を分ける中央部分。
石崎を中心に、能登国羽咋郡・鳳至郡・珠洲郡・能登郡。

 

 藩主と、藩の性格

  窪田家

菊多郡には窪田氏がいて岩城氏に仕え、窪田城を構えていたはずなのだが、その後どうなったのか、よくわからない。
『諸國廢城考』には、郡山の窪田城しか載っていない。

岩城氏と佐竹氏は親戚で、元亀年間までには岩城重隆侯が佐竹義重侯の傘下におさまっているので、窪田氏も佐竹氏の影響下に入ったと思われる。

  常陸佐竹家?

菊多郡というのは、いわきの最南端で、すぐ南は常陸(茨城県)であり、どうやら佐竹氏の領地に組み込まれていたか、少なくとも勢力下にはあったらしいのだが、詳細不明。
佐竹義宣
侯が秋田へ飛ばされたことは、他のページに書いたとおり。

  (平藩領?、三河鳥居家?)

そのあと、幕府直轄地でなければ、誰かの領地になっていたのでなければツジツマが合わない。
磐城平藩の最初の大名、
鳥居忠政侯は、12万石ももらっていたので、このへんまで磐城平藩に入っていたのかもしれない。
磐城平藩は、常に菊多郡に領地を持っていた。

  宇野土方家(本家)、3代

土方雄久侯は、親の代から織田家に仕え、伊勢平定に貢献したことから菰野7千石、のちに織田信雄公の配下として尾張犬山4万5千石をもらっていた。
『寛政重修諸家譜』、『藩史大事典』、『藩と城下町の事典』、いずれも、ほかの土方家の人間には「雄」に「かつ」とフリガナを振って、「雄久」だけ、「かつひさ」ではなく「おひさ」とフリガナを振っているが、理由がわからない。
『寛政重修諸家譜』によれば、雄久の雄は、織田信雄公からもらった文字なので、信雄公が「のぶかつ」なのか「のぶお」なのか、という話なんだろうけれども。
大石内蔵助先生のことも「よしお」と書いてる本が結構あって、こういうことは、よくわからない。織田も当時は「おた」だとかいう。
『三百藩藩主人名事典』では、信雄、雄久、いずれも雄は「かつ」。
工藤寛正『江戸時代全大名家事典』東京堂出版2008では、『おひさ(かつひさ)』という書き方。
Mや麻美さんに問い合わせたところ、軍事用のオカルトでは、雄を「お」と読んだら軽薄で臆病という意味になるので、迷信深い人物だった場合、おとは読みたがらないのではないかという。

豊臣政権下では、菰野2万4千石をもらっていたらしい。菰野藩のページ。

俗説では、雄久侯は、前田利長&利政兄弟とは従兄弟にあたる?とかなんとか。
この情報の出どころがまた、よくわからない。
その根拠というのは、雄久侯の母が、利家公の正室の芳春院おまつ殿の、姉だ?とかなんとか。

『寛政重修諸家譜』では、雄久侯の母は『前野長兵衛某が女。』。
おまつ殿の出自は、『父は篠原主計。『寛政重修諸家譜』等は高畠直吉の女とするが、これは生母が再婚したためという。』(小和田哲男編『戦国大名閨閥事典 〈第二巻〉』新人物往来社1996)
ということは、おまつ殿には、なんだかよくわからない姉妹がいた可能性はあるのかもしれないが。
おまつ殿は天文16年生まれ、雄久侯は天文22年生まれ。
姉が出産した時に妹は6歳って、あるかな、昔の人ならあるか。
おまつ殿が前田家の養女になったのは4歳の時。
もっとも、乳母とか継母とか、母が複数いる場合もあるのかもしれないが。

雄久侯は、磐城平藩や泉藩の内藤兄弟とは従兄弟なのである。その話とごっちゃになっているのではあるまいか。

雄久侯の実弟の太田長知殿が、前田家に仕えて1万5千石もらっていたので、なんにしても雄久侯は前田家に親しかったらしい。

秀吉公が亡くなると家康公がのさばってきて、利家公も亡くなると、家康公は前田家を失脚させる。
「たぶん前田利長公がひそかに企んでいたに違いないであろうと思われる家康公暗殺計画」という、わけのわからない疑惑騒動が起きる。
土方雄久侯も嫌疑をかけられて改易、常陸太田へ流罪、身柄は佐竹義宣侯へお預け。

その後、雄久侯は、前田家に親しいことが重宝がられて家康公に呼び戻され、指令を受けて加賀に派遣され、前田家に東軍に引っぱり込む交渉を担当する。
『五年下野國小山にをいて雄久父子めされて東照宮にまみえたてまつり、仰によりて加賀國に赴き、前田利長に内旨を告しかば、利長速に軍を出して北國をたひらけ、利長と共に大津の御陣営に至る。』(『寛政重修諸家譜』)

前田家は母親おまつ殿を江戸に人質に出していたが、弟の利政侯はかなり西軍寄りで油断がならなかったし、名将大谷吉隆侯の老獪な謀略によって、北陸大名たちは西軍についていた。

関ヶ原の戦いは決して楽勝ではなかったから、徳川家にしてみれば、前田家のような大物が西軍側につかなくて良かったというのはある。
前田軍が敵にならなくて良かったということもだが、前田家が西軍になると、つられて西軍になっちゃう大名もいるだろうから。

ただし、本によって話のニュアンスが違っちゃっている。
『日本歴史人名辭典』では、『内旨をうけて加賀に至り、
前田利長と倶に北陸を鎮む、』。
『藩と城下町の事典』では、『家康の命で前田利長の許に赴き、
丹羽長重との抗争を調停したが、』。
『三百藩藩主人名事典』では、『しかし上杉景勝の征討に赴く家康の陣中に
願い出て、加賀の前田利長へ使者に立ち、』。 

   「野々市藩」 宇野土方家(本家)

とにかく、戦場で前田軍を討ち破るのと同等以上の手柄だから、この外交の功績によって、慶長5年(1600年)、越中野々市(布市)に1万石を与えられ、雄久侯は大名に復帰。
合戦で実績を上げた連隊長は、戦後、大名になるのが、封建制の常識なので、最低でも1万石もらえるのである。

どうして加賀ではなく越中か。
『寛政重修諸家譜』に、『越中國野々市』と書いてあるからだが。

第54代横綱の輪島関は、輪島市ではなく七尾市の御出身であり、輪島功一さんと従兄弟同士だというのは大嘘である。この手の俗説は多い。

菰野町の公式サイト内の『歴史こばなし』第278回によれば、慶長10年(1605年)、利長公が富山城を補修するのに使う飛騨の材木を、神通川に流して運ぶから、土方領の猪谷村の人々には協力してもらいたい、という文書が、金沢市立図書館に現存しているのだという。

このあたりで、江戸時代に突入する(江戸幕府が始まる)。

   「田子藩」 宇野土方家(本家)

さらに下総田子(多古)に5千石の加増を受け、こっちに陣屋を置いて本拠としたので、この合計1万5千石が何かと言えば「田子藩(多古藩)ということになる。
『三百藩藩主人名事典』では『下総多古一万五千石を領するに至った。』としており、これは田子藩と総称して、野々市1万石はその中に含まれるものらしい。

この5千石加増は、雄久侯の生前におこなわれているはずなのだが、時期がよくわからない。
『寛政重修諸家譜』を読む限りでは慶長9年(1604年)、あるいはそれ以降。
『三百藩藩主人名事典』では慶長9年(1604年)、これも『寛政重修諸家譜』に拠ったのだろうけれども。
『日本歴史人名辭典』では、『功を以て加賀野々市にて一萬石を賜ひ、七年正月、従五位下河内守に叙任し、ついで五千石を加増せられ、併せて二萬二千石を領し、』などと、地名も足し算もめちゃくちゃだが、とにかく雄久侯の生前らしい。

慶長13年(1608年)11月12日、雄久侯が亡くなる。

慶長14年(1609年)2月、次男の雄重君が相続(この日付の出典は『寛政重修諸家譜』)。
長男の
雄氏侯は庶子で、別家を立てて菰野藩をやっていたため、本家は次男が継いだということ。

   「窪田藩」 宇野土方家(本家)

雄重侯は、大坂の陣に参加したので、また御褒美。
元和8年(1622年)9月28日、野々市1万石はそのまま、田子を手放して窪田1万石、合計2万石になる。
田子から窪田への国替えだけではなく、5千石加増しているということ。
窪田のほうを本拠にしたので、
「窪田藩」ということになる。

これで窪田藩がスタート。

この窪田への国替えは、となりの磐城平藩に内藤家が入ったのと同時。
雄重侯の正室は、平藩内藤家初代の内藤政長侯の娘。
親戚だから、土方家は内藤一族の仲間、内藤家の与力大名のような位置付けらしく、内藤家にくっつけて異動になった。

その後、前田利長公の希望により、領地を交換することになった。
土方家の野々市1万石と、前田家の能登石崎ほか能登各地に合計1万石(実高1万3千石分)を、取り替えた。
富山城のすぐそばに他人の領地があるのは困るという、前田家側の一方的な都合だから、前田家は実高3千石分の色を付けてくれたのだという。

『寛政重修諸家譜』では、石崎に領地交換の話を、雄重侯のところに書いてある。
話の順番としては、元和8年に窪田に国替えの後、寛永3年9月の家光公上洛の前。

ところが、前掲の『歴史こばなし』によれば、石崎に領地交換したのは慶長13年(1608年)で、石崎には城館を構えていたという。わけがわからん。

長男の雄次君が継いで2代目藩主になり、これは名君で、藩内を整備した。
雄次侯の正室は、平藩内藤家2代目の内藤忠興侯の娘。
『雄次の母は平藩主内藤政長の娘であるから、次の平藩主内藤忠興や泉藩主内藤政晴とは従兄弟関係であったので、平藩らと相呼応して各種の農業政策を行なった。 (略) また酒井用水も建設し、治山治水に功があったが、平藩と協同事業だったことが面白い。』(『三百藩藩主人名事典』)

雄次侯の息子は、長男の雄信君が病弱だったため、次男の雄隆君が3代目藩主になる。
三男の
雄賀君は、雄隆侯が藩主になる時に2千石わけてもらった。窪田藩は1万8千石に減った。

雄隆侯は、兄のように病弱だったわけではないようだが、40代後半になっても子がないので、万一に備えて、跡継ぎをあらかじめ決めておこうと思ったらしい。
天和3年(1683年)5月13日、初めて領地の窪田に出かけるにあたって、異母弟の
貞辰君を、幕府に養子として届け出た。
『不慮の事あらば弟助之進貞辰を養子にせん事を言上すといへども、』(『寛政重修諸家譜』)

『四代家督継承者として言上した』(『藩史大事典』)
『弟貞辰を養嗣子とする旨幕府に届出て、許しを得た。』(『三百藩藩主人名事典』)
つまり、ほとんど決定らしい。幕府に言っちゃったから。

しかし貞辰君は、すでに窪田藩の筆頭家老の林家に養子に行っていて、家臣に降りた身。
本来ならば長男が継ぐはずだったものを、兄をさしおいて弟が3代目になったのだから、次は、弟の子ではなく兄の子が継ぐべきである、雄信君の子の
内匠君が4代目になるべきだ、…という意見が、国もとの家臣たちから出る。
もっともな話なので、雄隆侯は、内匠君を跡継ぎにする方向に転換。
ところが、内匠君を連れて江戸に戻ってみれば、江戸の家臣たちはもう貞辰君擁立で話がまとまっちゃってる。

あんたは不要と言われて他家へ追い出され、急に必要になりました戻ってくださいって言うから期待してたのに、やっぱ要りませんと言われた貞辰君は、納得いかないので大目付に訴え出る。
これは藩主になりたいというより、腹いせに邪魔してやろうという感じだったのか、貞辰君は上野寛永寺に自主謹慎している、つまり、騒動になって自分も処罰されるリスクは承知で、最悪でも共倒れを狙っている感じに見える。

2派に分かれて藩内が対立、林家が藩主側室を殺したりした。
貞亨元年(1684年)7月22日、御家騒動を理由に、窪田藩は取り潰される。元も子もないとは、このことだ。

雄隆侯は、越後村上藩の榊原政邦侯へお預け。

貞辰君は、伊勢長島藩の松平康尚侯へお預け。
『三百藩藩主人名事典』によれば『藤堂佐渡守預かり』、伊勢久居藩の藤堂高通侯にお預けということか。

貞辰君を擁立した家臣の林亮之進殿は、陸奥三春藩の秋田輝季侯へお預け。

内匠君は、武蔵久喜藩の米津政武侯へお預け。
『三百藩藩主人名事典』によれば、八丈島へ流刑。

内匠君を擁立した家臣の川合某、阿倍某は、越後新発田藩の溝口重雄侯へお預け。
『三百藩藩主人名事典』によれば、いずれも切腹。

内匠君の父、雄信君は、信濃飯山藩の松平忠倶侯へお預け。

さらに、貞辰君から仲裁を頼まれたのに放置したとして、筑後松崎藩の有馬豊祐侯(雄隆侯の正室の弟)も改易、その息子の英致君も連座、親子そろって本藩(筑後久留米藩)の有馬頼元侯へお預け。

分家の雄賀殿は、領地を返上したが、幕臣になり、領地はそのまま下賜され、旗本として明治まで続いた。
雄賀君の
次男が、養子に行って湯長谷藩の3代目藩主になる。

  (幕府領)

以後は、幕府直轄
元禄元年(1688年)3月19日、窪田の検地を、平藩が代行している。
延亨4年(1747年)、幕府小名浜領に編入。

 

 江戸屋敷

不明。

 

 藩校

おそらく無かった。この時代には、ほかの藩にも無い。

 

 唯心一刀流継承者

不明。
磐城平と窪田はすぐ近所で、しかも親戚で、用水や寺社の工事も共同でやっていたのだから、磐城平藩の剣術が、窪田藩に影響しないわけはないと思うのだが…。

安藤家が磐城平に唯心一刀流を持ってきたことは、おそらく間違いない。
窪田藩が存在していた頃には、いわきには唯心一刀流は無かったと思われる。

菰野藩が一刀流正木派だから、念のため、窪田藩もチェックしておくという程度。

 

 他の剣術の主なところ

不明。

 

 現在の状況

不明。

  

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