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 アンドウ家の行方 その2.4

 美濃 加納

 

 藩の名前

加納藩、美濃加納藩、永井伊賀守、永井肥前守など。

ほかに、加納という名前の人がやっていた藩(伊勢八田藩、上総一宮藩)もあるので注意。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

奥平家は、譜代、城主。10万石、忠政侯の時は6万石(4万石は信昌侯の隠居料)。

大久保家は、譜代、城主。5万石、一説には7万石。『諸国城主記』では5万石。

戸田松平家は、譜代、城主。
7万石。寛文8年(1668年)9月29日、弟に分知して6万石。

安藤家は、譜代、雁間詰、城主。
6万5千石、バカが原因で宝暦5年(1755年)から5万石。

永井家は、譜代、雁間詰、城主。3万2000石。『諸国城主記』では3万1500石。

 

 位置と、土地の性格

美濃国加納。
現在の岐阜県
岐阜市付近。

奥平家の時は、美濃国厚見郡・羽栗郡・各務郡・方県郡・山県郡・蓆田郡・本巣郡・大野郡。

大久保家の領地は不明。『藩史大事典』も『不明』としている。

戸田松平家の時は、美濃国厚見郡・方県郡・蓆田郡・本巣郡・大野郡。

安藤家の時は、美濃国厚見郡・方県郡・蓆田郡・本巣郡・大野郡・羽栗郡、近江国蒲生郡。
蒲生領は5000石。

永井家の時は、美濃国厚見郡、摂津国嶋上郡・嶋下郡、河内国茨田郡。
河内国北河内郡渚に佐太陣屋を置いていた。

斎藤家は、稲葉山城を美濃の中心地としていたが、あまりにも古いタイプの山城だった。
ところが信長公も、ここを本拠地にする。

城は、平地のほうが簡単なのである。
山の上まで建材を持ち上げるだけでも余分な手間であり、そんな費用があるなら、普通は兵員を増やすことを考える。
さらに、山の上では、兵力を展開できる平地がほとんどなく、交通にも不便、経済も流通もだが、まず軍事的に連絡も補給も不便、尾根にあるから常に強風にさらされる山小屋生活であり、籠城しても飲み水は雨しかない。

信長公は破天荒なイメージがあるが、戦術に関しては意外に手堅く常識的な采配をしている。
ところが、どういうわけか居城だけはバカと煙方式であり、時代と逆行して、どんどん高い所へ引っ越していく人で。
清須城は平野のド真ん中、川のそばにあった。
小牧山も平地の中ではあるが、古墳のように、そこだけ小高くなっていて見晴しのいい所。標高86m。
稲葉山は、なんと329m。美濃全体が標高が高いが、さらに、山の端が平地に突き出した所。
安土山も平地に山が突き出した所で、198.9mだが、安土城の天守は展望台ではなく住居であり、高層ビル生活だったのである。

俺も子どもの頃に岐阜城へ登ってみたが理由がわからず、のちに騎士道や軍事風水を学んでから、やっとわかったのだが、城というのものは、たしかに高い所でなければならない理屈も一応はある(城に何を求めるかという、使い道の問題)。

しかし、それにしても、岐阜城なんてものは、誉められたものではなかった。
難攻不落とは口先ばかり、7回くらい落城していて、関ヶ原の時は半日で落ちた。
歴代の城主がろくな死に方をしていない。
土岐家と斎藤家がそれぞれ身内を殺しあってドロドロに泥沼をやって、主君の寝首をかく下克上の象徴みたいな土地であり、岐阜という名前からして、天下取りに失敗したうつけ者の残骸であり、徳川家にとって気分のいいものではない。もう徳川の世で固定したいから。

とっくに平城の時代になっていた。
これから泰平時代になれば、平時の政庁の機能も重要になる。

だから岐阜城を破棄して、加納城を作りなおした。石垣と濠を多用して、垢抜けた近世城郭。
さらに、長篠を守りきったあの奥平家を置いた。完璧である。

ところが、美濃を押さえる役割は、尾張藩と名古屋城に移ってしまう。
江戸時代の美濃で最大の藩は、じつは尾張藩
尾張徳川家の領地のうち、13万3千石は、美濃国内にあった。岐阜も尾張藩の管轄。
木曽川・長良川・揖斐川の管理権も尾張藩が保有しており、東国から京へ上がる軍勢も、西国から江戸を襲う軍勢も、ここで川を渡るところを叩くというのが、尾張藩の担当なのである。
騎兵だろうと戦車だろうと、橋があろうとなかろうと、渡河は陸戦のキモである。川はいっぺんに渡れないので、渡りやすい所で少人数ずつ渡ることになる。敵がどんだけ大軍勢だろうと、渡ってきた先頭の連中だけ次々に袋だたきにできる。わざと渡らせておいてから力押しすれば、敵はみんな川に落っこちて溺れ死んでくれる。上流でダムをやっておいていきなり大洪水をくらわすなんてこともできる。こんな都合のいい位置をあらかじめ押さえないわけがないのである。

さらに大垣藩10万石も軍事担当の大名だから、加納藩なんぞには用は無かった。
加納藩10万石はどんどん小さくなって、最終的に3万2千ほどになってしまう。
予定されていた加納城の天守も、中止して、建てなかった。

しかも、岐阜は信長公の楽市楽座以来、その後も美濃の経済の中心であり続け、加納はどちらかといえば経済よりも物流の拠点、宿場町だった。
『美濃十六宿では最大、中山道でも高崎、熊谷に次ぐ大宿だったといわれています。東西に細長い加納宿は普通の宿の三倍の長さがありました』(和田バス有限会社、中山道六拾九宿刊行会『古街道昔と今中山道六拾九宿』)

加納藩の役割は、傘張り。
武士の内職として和傘作りがおこなわれ、永井家の時から藩の特産物にして、年間50万本以上、1万両以上も売り、大都市など日本中で使われて、大変に評判が良かったという。
明治初期には年間150万本、昭和の最盛期には年間1500万本も生産したとか、海外にも売って好評だったとかで、世の中が洋傘になるまでは日本の傘の生産の中心地だった。

長良川の特産の鮎寿司は、徳川将軍家へ御献上になっていたが、これも尾張徳川家が贈っていた。

 

 藩主と、藩の性格

  藤原南家乙麿流二階堂家、代々

鎌倉時代、政所の執事は二階堂家が世襲していた。
始祖の
二階堂行政侯が、建仁元年(1201年)、稲葉山に砦を築き、これが岐阜城の前身。
しばらく二階堂家の一族が代々管理していたが、廃城になる。

鎌倉時代には、美濃の支配者はいろいろだった。

  美濃土岐家、4代+1名

土岐氏は美濃における源氏の本流で、源頼光公の子孫なので名前に頼という文字が入る。
本拠地の土岐郡を中心に、美濃各地に一族を配置して、地縁血縁の強力な軍団を形成し、合戦のたびに活躍した。

鎌倉時代にはすでに頭角を現していたが、土岐頼貞侯は尊氏公によく仕え、後醍醐天皇のとき美濃国の守護に任じられる。以後、美濃は土岐家が世襲で支配。

次男の頼遠侯が継ぐ。延元4年/暦応2年(1339年)。この時に厚見郡に拠点を移して、長森城を居城にした。
勇猛な武将だったが、馬場で騎射して泥酔して、とても高揚した気分で帰宅中に、光厳上皇の牛車に出逢い、暴言と暴力を振るい、逃げ隠れたが逮捕され、六条河原で首を刎ねられた。

十一男の頼明侯が継いだが、なかったことにして、甥(兄の子)の頼康侯が継ぎなおした。
気分も一新したいし、手狭になってきたとかで、正平8年/文和2年(1353年)川手城(革手城)に移る。川手城は、城というよりただの屋敷。

このころが土岐家の最盛期で、頼康侯は美濃・尾張・伊勢の守護、幕府評定衆も兼ねた。
あまりに強大な権力と軍事力が、室町幕府から危険視された。

頼康侯が亡くなったが男児がなく、甥(弟の子)の康行侯が継いだ。
幕府は、康行侯の弟の満貞侯に尾張の守護職を与えて、土岐家の本家になるようにそそのかし、内紛や反乱を起こすようにしむける。
康行侯は挑発に乗っかって挙兵して、鎮圧される。

  西池田土岐家、代々

叔父の頼忠侯が土岐家の本家になり、土岐家は美濃一国だけの守護に戻る。
しかも康行侯は殺されたわけではなく、のちに許されて伊勢の守護になったため、美濃では新参とか外様とかマムシなどの家臣が台頭することになる。
とにかく権力は分散され、室町幕府の思いどおりになった。

次男の頼益侯が継ぎ、優秀な武将だったが、部下の富島家と斎藤家が喧嘩ばかりしていた。
さんざん戦った末に斎藤家が勝って、斎藤利永侯の傀儡の
成頼侯を土岐家の当主に据える。

このあと応仁の乱があり、ますます実力主義の時代で、斎藤家の独壇場になり、土岐家はいよいよ傀儡になる。

成頼侯のあとは長男の政房侯が継いだが、なぜか舞の達人だった。
応仁の乱から疎開してきた公家たちを迎え入れ、美濃では京文化が栄えて、とても都会だったようだが、そんなことやってるから、ますます斎藤家がのさばるのだった。

このあと、長男の頼武侯を無視して、次男の頼芸侯が跡継ぎに指名されたため、兄弟で合戦になる。
このドサクサに毒マムシが乗っかって、いよいよ土岐家は衰退していくのである。

  美濃斎藤家(守護代家)、3代

斎藤家は土岐家の家老。
宗円侯の時、美濃の守護代の地位を富島家から奪ったが、富島家に暗殺された。

その次が、斎藤利永侯。優秀な守護代。

文安2年(1445年)、利永侯は沓井城を築いた。
川手城の支城というか戦闘機能担当として作られたもので、天文7年(1538年)まで存在した。
これが
加納城の前身(いわば旧加納城)であり、加納藩の前身のようなもの

利永侯は、稲葉山の砦も再建しており、こっちが、のちの岐阜城。
稲葉山城とか金華山城とか井口城とか、いろいろに呼ばれた。

次の利藤侯は年少だったので、後見人で叔父の斎藤妙椿殿に実権を握られてしまう。

  美濃斎藤家(持是院家)、2代

妙椿殿は、利藤侯の異母弟の利国(妙純)殿を自分の養子にして、守護代の世襲を自分の家系に移そうとする。
利藤侯が抵抗したので合戦になったが、押しつぶした。

利国殿の三男の彦四郎侯、その次は、利国殿の長男の長男の利良侯が、守護代を勤めたが、この2人も対立して合戦になる。
前者は土岐頼武侯、後者は土岐頼芸侯を支持したため。

利良侯の後は、頼芸侯の守護代は、いわゆる斎藤道三侯。
内紛なんかやってるから、斎藤の名と守護代の地位は、長井家に奪われちゃったということ。

ほかに、頼武侯の側の守護代で斎藤利茂侯というのもいたが、頼芸侯の側に寝返った。

  長井改め美濃斎藤家(利政系)、3代

斎藤利政(のちの道三)侯は、土岐家を追放。美濃を手に入れる。
拠点の稲葉山城が、美濃の中心になった。沓井城は廃城。

僧侶だったのが還俗して、油の行商人になり、油を細く注ぐパフォーマンスで人気を集め、入り婿して京都の油問屋を手に入れ、この資金力を背景に、長井家に世話してもらって土岐家に仕官し、権力を拡大、忠告してくれる長井家を殺して乗っ取り、斎藤家の名前を奪い、土岐家を傀儡にしたり追放したりで美濃を手に入れた、…というような話になっているが、かなりデタラメらしい。
少なくとも、すでに父の代の時に長井を名乗って土岐家に仕えていたことは、証拠文献が見つかっている。

土岐頼芸侯の妾を妻にしたので、長男は誰の子だか怪しいうえに、ライ病か何かにかかっていて、しかも生意気。
利政侯は長男に家督を譲り、道三と名乗って出家したものの、長男を殺して次男に継がせようとたくらむ。
事前に察知した長男は、次男と三男を呼びつけて暗殺。怒った道三侯と合戦になる。
道三侯は恨みを買いすぎていて味方が少なく、殺された。

長男というのが義龍侯で、合戦はうまくて、信長公の侵略をたびたび跳ね返した。

次の代、龍興侯は13歳で継ぐ。酒色におぼれたクソガキだったとされている。10代なのに?
『龍興は「暗愚で酒色にふけり」というのはきまり文句だから信用ならないが、人望のない主君だったらしく』(『日本の城ハンドブック新版』)

家臣の竹中重治侯19歳が、わずか16人だか17人だかで1日で稲葉山城をのっとって(すぐに返した)、こんなにスキだらけなのですぞと諌言したりした。

重治侯はいわゆる半兵衛、のちの秀吉公の参謀。

信長公の侵攻により、龍興侯は19歳のとき美濃から追放される。

  尾張織田家、2代

織田家については、尾張藩のページ。

信長公の父の代から、たびたび美濃を攻めては負けていた。
ひとまずナアナアの関係でいくことになり、政略結婚として、
織田信長公は斎藤利政侯の娘を正室にしていた。有名な濃姫。

信長公は今川家を倒し、尾張全域を確保、松平家と同盟して背後の安全も確保、斎藤家が内紛をやらかしてくれたので美濃を取りに行く。
義理の兄弟や甥を殺す大義名分が、「義父のカタキ討ち」ということらしいのだが、なるほど筋道は通っている…、信長公から見て道三侯は目上なのだから。

信長公は、斎藤家を追い払って美濃を手に入れ、稲葉山城を拠点にし、岐阜城と改名。

『六韜』でおなじみ、理想的な名君とか聖王とか言われる周の文王の、善政と天下平定の故事にならって、稲葉山を岐山に見立てて岐阜と地名変更したとか言われているが、じつはそれ以前から禅僧たちの間では詩的表現として岐阜という呼び方はあった。

信長公は、息子の信忠公を跡取りに指名していたとか、すでに家督を一応は譲っていたとかいうが、本能寺の変で、親子ともども亡くなる。
明智光秀侯は、土岐氏の支流。

  美濃斎藤家、2回目

道三侯の息子のひとり斎藤利堯侯が、信長公に仕えていたが、本能寺の変のドサクサで、ほんの一時期、岐阜城を制圧した。
すぐに明け渡したけれども。

  尾張織田家(信孝系)

美濃国は、信長公の三男、信孝侯のものになる。

おまえは家来だろ? ここは猿の惑星か?と思って、秀吉公を排除するため2度挙兵した。
2度とも負け、天正11年(1583年)切腹。

  美濃池田家、2代

池田恒興侯が大垣に13万石を与えられた時、長男の池田元助侯が岐阜城主を勤めた。
池田家については大垣藩のページ。
小牧長久手で恒興侯も元助侯も戦死したため、次男の
輝政侯が相続し、三河吉田に移封。

  豊臣家(秀勝系)

天正19年(1591年)3月、甲斐甲府から豊臣秀勝侯が入封。
この時代に美濃国を与えられた場合、岐阜城主なのか大垣城主なのかといえば、たぶん両方であり、居城でないほうの城には城代を置いたということなのだろうか。

秀吉公の子に、秀勝というのは3人いる。
石松丸君。俗に羽柴秀勝侯。妾腹の実子、初の男児。6歳で死亡(ということになっている)。
羽柴秀勝侯。信長公の四男。織田家中での地位向上のため養子にもらったが、18歳で病死。
豊臣秀勝侯。甥(姉の子)。養子にして羽柴秀勝侯の跡を継がせた。美濃をもらったのは、この人。

小田原陥落後に家康公が関東へ移り、家康公が持っていた甲斐と信濃が秀勝侯に与えられたが、秀勝侯は岐阜へ移封になった。
しかし、すぐに亡くなる。侵略に出かけた朝鮮で病死してしまった。

  尾張織田家、2回目

文禄元年(1592年)、織田家の本家が、ふたたび岐阜城主になる。織田秀信公。
信長公の跡取り息子の息子。かつての三法師君。

関ヶ原のとき西軍側について落城。
福島正則公が、自分の戦功と引き換えにしてでも責任を取るからと助命を主張したため、秀信公は剃髪して、高野山へ送られた。

どうして高野山なのかが、よくわからない。
高野山は、救いを求める者を等しく迎え入れるから、落武者でも何でも匿うので、それが原因で信長公と合戦になったことがある。
高野山に対して人殺しをすれば当然、真言密教の恐ろしいオマジナイを食らうわけで、たちまち本能寺の変が起き、信長公は死んだ。
その信長公の孫の面倒を見てくれというのは、いくら慈悲深い高野山でもいったんは拒否、結局は受け入れることになったが、結局は追い出され、秀信公は歴史の舞台から消えていった。

  三河奥平家(のち忠政系)、3代

慶長6年(1601年)3月、岐阜は奥平信昌侯に与えられる。『諸国城主記』では2月。
奥平家については、中津藩のページ。

岐阜城は燃やしてしまったことだし、新たに加納城を造った。
いわば2代目沓井城。建材の一部は岐阜城の残骸を流用し、川手城の土塁も流用したという。
築城の時期は、よくわからない。
工事を始めたのが慶長5年とか慶長7年とか、岐阜城を廃城にしたのが慶長6年とかいう。

とにかく加納城を中心にした藩、加納藩がスタート。

信昌侯の三男の忠政侯は、菅沼家に養子に行っていたが、戻って奥平家を継ぐ…というか、奥平家を継いだのは長男の家昌侯のほうで(のちに中津藩主になる家)、加納のほうは御隠居の遺産相続というか、浅野家の真壁藩のようなことらしい。
しかも6万石。
10万石のうち4万石は、信昌侯が隠居料として手放さず、忠政侯を後見した。
というのは、忠政侯は病弱で、信昌侯より先に亡くなる。

忠政侯の長男の忠隆侯が継いだが、寛永9年(1632年)1月5日、子がないまま25歳で亡くなる。
改易。死後に息子が産まれたが、これまた病弱だった。

  大久保家

11日、武蔵騎西から大久保忠職侯が入封。
『諸国城主記』では7月8日、忠季としている。

鉱山をまかされていた大久保長安侯が、ちゃっかり金銀をちょろまかしていた、という罪(おそらくは冤罪。政争に負けたせい)で、大久保一族は連座して没落していたが、忠職侯だけは、幼少を理由に軽い処分ですまされていた。
母は奥平信昌侯の娘。女系とはいえ奥平子孫が加納藩を継いだ格好。

しかし、すぐ国替え。
寛永16年(1639年)3月3日、播磨明石へ移封。

  戸田松平家、3代

同日、播磨明石から、入れ代わりで松平光重侯が入封。
『諸国城主記』では11月19日。

戸田氏の本流。
先代のとき長男と次男が早世して三男が継いだが、子がなかったので、次男の子が養子になって継いだというのが光重侯。

寛文8年(1668年)9月29日、長男の光永君が継ぐ。
この時、2人の弟、光澄君と光賢君に5千石ずつ分けた。
光永侯は年貢が厳しかったので、農民たちが江戸へ訴えに出かけてしまい、あわてて郡奉行が追いかけて、藤沢で連れ戻した。

光永侯の長男の、光熙君が継ぐ。『諸国城主記』では光通。
宝永8年(1711年)2月15日、山城淀へ移封。

  三河安藤家(重信系)、3代

同日、備中松山から安藤信友侯が入封。『諸国城主記』では重行。
長男と次男があったが早世。
祖父の弟の子の信周君を養子にしたが、藩主になる前に亡くなる。

信周君の長男の信尹君が継ぐ。
安藤がバカ殿の代名詞になったのは、この時であり、重税を搾取して豪奢にふけった。
藩士たちもダラケて、バカばっかり。
苦しみに堪えかねた民衆が強訴したため、信尹侯は家老たちに幽閉され、幕府にもバレて強制隠居。

加納藩は1万5千石を減らされて5万石になり、妾の子だが長男の信成君が継ぐことで、改易だけはまぬがれた。『諸国城主記』では信明。
さらに宝暦6年(1756年)5月21日、
陸奥磐城平へ移封、これも左遷だという。

  伊賀守永井家、6代

同日付で、武蔵岩槻から永井直陳侯が入封。
以後、永井家で明治に至る。おおむね、そつなく統治していた。

この永井家は、尚政侯の三男の尚庸侯から始まった分家。
本家のほうは信濃守を称したが(東京の信濃町の由来)、加納藩の永井家は伊賀守と称した家。

最後の藩主、尚服侯は、陸奥福島藩の板倉家から養子に入った人。
永井家は幕府要職を勤めることが多かったが、新政府に対し早めに恭順し、戊辰戦争も官軍側についた。

『加納には、のちに偽官軍として処断される赤報隊が現れ、よく事情が分からないまま大砲を供出させられている』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)

加納藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月20日。

 

 江戸屋敷

  戸田光永侯
上屋敷
、呉服橋内。中屋敷、八丁堀。下屋敷、深川、高輪。

  永井尚典侯
   上屋敷
矢ノ倉。現在の日本橋浜町一丁目の一部。
北は道を挟んで半井策庵邸。東は諏訪因幡守邸(信濃高島藩上屋敷?『東京時代MAP』では、木挽町の屋敷は川越藩が使っている)。南東は道を挟んで一橋殿。南は道を挟んで牧野遠江守(
信濃小諸藩上屋敷)。西は道を挟んでこまかい武家地。北西は道を挟んで町屋。
   
中屋敷
浜町。現在の日本橋蛎殻町二丁目、首都高6合向島線の新大橋通りへの出口のあたり。
北は土屋采女正邸(常陸土浦藩上屋敷。小川町へ移転前?小川橋から?)。東は濠を相合橋で渡って秋元但馬守邸(上野館林藩中屋敷)。南は永井能登守邸(旗本)。西は町屋。
   
下屋敷
四谷鮫河橋。
現在の信濃町駅の北側、創価学会の吹きだまりになっている所、かなり広い一帯。
北はたくさんの寺。東は永井金三郎邸(旗本)。南は永井鉄弥邸。西は永井若狭守邸(大和新庄藩、下屋敷か。上屋敷は麹町らしいので。信濃守家を復興したもの。この家が、信濃町の由来)、そのむこうは永井遠江守邸(摂津高槻藩下屋敷)。
   
下屋敷
本所二ツ目。
現在の菊川一丁目2〜3番地一帯。
北は道を挟んで、こまかい武家地。東と南も、こまかい武家地。西は五間掘を挟んで大久保喜平次邸(旗本5千石)。
   
下屋敷
深川。現在の江東区冬木。『東京時代MAP』の範囲外。

 

 藩校

寛政4年(1792年)4月21日、加納城丸の内字中門に「学問所」を設置。
細井平洲門下の堀尾増太郎という学者を、藩儒、学頭とした。

文政年間、「憲章館」と改称。
文久年間、一説には慶應3年(1868年)、「
文武館」と改称。

『和学・漢学・算法・筆道および兵学・弓馬・鎗剣・砲術・柔術などを教授。生徒は必ず文武両道を兼修。』(『藩史大事典』)

『廃藩置県後廃校となり、明治五年学制頒布に際し小学校を開設して憲章学校と称した。』(『藩史大事典』)

憲章学校は士族用の学校であり、のちに加納小学校になる。
ほかに、3つの寺子屋を前身とする平民用の曲成義校が作られ、のちに沓井小学校になる。
加納小学校と沓井小学校が統合、加納小学校になる。
加納町立加納尋常高等小学校、岐阜市立加納尋常高等小学校、岐阜市立加納国民学校、と改称を経て、現在は岐阜市立加納小学校。
同校のホームページに沿革のコンテンツがないので、藩校との関連は不明。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話を聞かない。
磐城平藩への伝播の過程で、一時的に、加納藩にも唯心一刀流があったことは、もはや状況証拠から確実だと思うのだが、確認できず。
しかし、探せば必ず何か出ると俺は確信している。

 

 他の剣術の主なところ

  直心影流
江戸にいる藩士が江戸でやっていたもので、加納ではおこなわれなかったともいう。

  電撃流
  天与剣術
備中松山藩のページに書いた。
もし天与剣術という言い方が惟貞先生一代だけだったとしても、惟貞先生は晩年、加納在住だったらしいので、天与剣術は加納藩にあったということになる。
そのお孫さん惟益先生も安藤家の家臣、この人は天与剣術とおっしゃったかどうか不明だが、少なくとも電撃流はお使いになるので、備中松山にも、加納にも、このあと磐城平にも、安藤家の移封と共に、電撃流は移動したことになる。
しかし、これは家伝なので、他人にも指導なさっていたかどうか。

 

 現在の状況

不明。

文政年間の江戸の力士、2代目鏡岩(源之助とも浜之介とも)が、もともと素行の悪い乱暴者だったとか、廃業後に加納で宿屋を経営し、従業員を酷使したとかで、僧侶に諌められて改心し、中山道と伊勢街道の分岐点に等身大の自分の木製座像を設置し、旅人に棒でぶったたいてもらって、茶をふるまう、というSMちっくな罪滅ぼしを始めた。これを「ぶたれ坊」といい、伏見町の妙泉寺に現存するという。

 

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