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 アンドウ家の行方 その2.1

 下総 小見川

 

 藩の名前

上代藩、小見川藩、下総小見川藩。内田出羽守、内田主殿頭など。
おみがわ、と読む。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

土井家は、譜代、城主。1万石。

安藤家は、譜代、無城。1万6600石、のち3万6600石。

内田家は、譜代、菊間広縁詰、無城。1万石。
外様としている本もあるが、新知だから譜代。

陣屋の名前は小見川陣屋。
家の格式は無城でも、関ヶ原の戦いの時、小見川城はあったはず。
廃城になったにしても、その時期は、深溝松平家が去った時だとか、安藤家が去った時だとか、諸説あるらしい。
『諸國廢城考』に、小見川城は掲載されていない。

 

 位置と、土地の性格

下総国香取郡竹ノ内村・本郷村・野田村・布野村・平山村・仁良村・富川村を中心とする、その他もろもろ。

土井家は、下総国香取郡。

安藤家は、上野国多胡郡に6600石、下総国香取郡・結城郡に1万石。
のちに常陸国鹿島郡、下総国結城郡、近江国神崎郡に合計2万石加増。

内田家は、下総国香取郡・都賀郡。
天保9年(1838年)4月4日、香取郡2000石だけ残して、あとは陸奥国白川郡8000石と交換。
弘化3年(1846年)11月30日、白川郡のうち4000石を旧領と交換。

現在の千葉県香取市小見川。平成の大合併までは香取郡小見川町といった。

霞ヶ浦の南東に位置する。
利根川を曲げて以降は、江戸の都市物流の水運中継地のひとつ。

香取様鹿島様の目の前だから、剣術で名のある先生方ならば、一生に一度くらいは、この付近を通りかかった可能性がありそうで、こういうページを書いてもあんまり意味がないとも思うが。

現地には、ちば醤油さんという醤油会社がある。
ここの製品「下総醤油」は、愛用させていただいている。この世で最もうまくて万能の醤油だと俺は思っている。
上野松坂屋さんの在庫処分のワゴンに、720ml瓶で700円台で出ている時がチャンス。

都内から行くなら、何らかの方法で成田まで行くか、またはJR総武線を千葉まで下るかして、とにかくJR成田線に乗り込み、香取駅の2つ先である。
空港利用者のための交通手段はいくつかあるが、成田駅に止まらない便もあるので注意。
秋葉原駅で山手線と総武線を乗り換える時、上り線と下り線を間違えやすいので注意。都内在住の者でも、考え事なんかしてると間違えて、気付かずにしばらく乗っていることがよくある(俺だけ?)。
武術が目的で総武線に乗るなら、本当は錦糸町で降りたほうがよっぽど得るものが多いのだが、言うと叱られる話なので1Gで。

 

 藩主と、藩の性格

  千葉粟飯原家、代々

粟飯原氏が小見川城を築いて、鎌倉時代から500年くらい小見川を領有していた。
粟飯原は、あいはらと読む。
異説もあるが、下総の有力豪族の千葉氏の、支流のひとつということになっている。

戦国時代になると、安房の里見氏による下総侵攻をくらう。
小野忠明先生(当時の名前は神子上典膳)も、里見軍にいたことがある。
小見川城を攻め落としたのは、槍大膳こと正木時茂侯らしいが、諸説ある。

  三浦正木家

その後、正木時茂侯の弟の、正木時忠侯が、支城として領有していたらしい。
正木一族は里見家の重臣たちだが、里見家と婚姻関係もあり、ほとんど里見家と同格みたいなもので、家臣団も領地も独自に持っており、里見家からの独立志向も少なくなかった。

粟飯原家は北条家につき、北条家は里見家を圧迫し、秀吉公は小田原を落とし、結局、関東地方はおおむね家康公のものになる。

  (徳川家直轄領)

代官は吉田佐太郎殿。

  深溝松平家、2代

文禄元年(1592年)2月19日、武蔵忍から、松平家忠侯が入封。1万石。
忍は松平忠吉公の領地だが、幼少だったので家忠侯の預かりになっていたのが、忠吉公が元服したため、家忠侯は異動になった。

領地は、下総国香取郡、上総国長柄郡・武射郡・山辺郡・望陀郡。吉倉郷・平川郷。
最初は香取郡上代の上代城に入り、いわば上代藩だった。

上代は、『藩史大事典』は「かしろ」、『藩と城下町の事典』は「かじろ」とフリガナを振っている。
上代は人名にもあるが、古い時期ほどカジロと読むようだから、現在はどうか知らないが本来はカジロ郡だったのではあるまいか。

文禄3年(1594年)、小見川城に本拠を移した。
これをもって小見川藩のスタートかというと、まだ家康公が天下をとっていない。
豊臣政権の一武将が、自分の領地を部下に分けているだけなのである。

松平家忠侯の入封をもって、『小見川藩が成立した。』(『藩史大事典』)、『陣屋を構えて立藩した。』(『藩と城下町の事典』)としている本が多いが、これはおかしい。
徳川家の幕藩体制が出来あがる前に、深溝松平家は小見川を去るのである。

深溝松平家は、譜代。
三河額田の深溝城にいたから深溝(ふこうず、ふこうぞ)といい、かなり早い段階で家康公の先祖から分かれた家の、そのまた分家。
親子そろって建築土木を得意とし、江戸城や伏見城の工事に活躍、あのゼネコン猿から直々に大絶賛されたほどなので、だから小見川へ、つまり利根川の治水の担当になったということらしい。

関ヶ原の時は、7月に、息子の忠利侯が、小見川で佐竹家を見張るよう命ぜられる。
小見川というのは、もともと、佐竹氏を押さえる拠点のひとつという性格だったのである。

8月1日、家忠侯が伏見城で討ち死に。
忠利侯は父の仇討ちとして関ヶ原への参戦を望んだらしいが、許されなかった。

伏見城で捨駒になった者は忠義の英雄であり、遺族は優遇されるので、忠利侯は大幅な加増を打診されたが、かねて念願の旧領回復をおねだりする。
領地の広さは1万石のままでもいいが、一族発祥の地、アイデンティティの深溝が欲しいと。
慶長6年(1601年)2月、三河深溝へ移封。

  (幕府領?)

そのあと、しばらくは幕府直轄だったらしい。

  古河土井家

慶長7年(1602年)12月28日、下総臼井から、土井利勝侯が入封。
小見川藩がスタート。徳川家の幕藩制度のもとでの、最初の、小見川の大名。

この人は、江戸幕府初期の、おそらく最も有能な政治家。のちに大老になる。
武将としてはあんまりパッとしなかった。
じつは家康公の隠し子だったんじゃないかという話が当時からあり、子ども嫌いの家康公が膝の上に抱いて口に食べ物を運んでやるほどの溺愛だったとか、歳をとればとるほど顔がどんどん家康公そっくりになっていったとかいう。
家康公の母方の従兄弟なので、どっちみち血族ではある。

土井家は、どこの馬の骨ともわからない家。水野家から養子に入った利勝侯が、実質的に始祖。

慶長15年(1610年)2月、下総佐倉へ栄転。

  (幕府領?)

ここで、少し間があく。幕府領になっていたか。

  三河安藤家(重信系)

すでに上野多胡に6600石を持っていた安藤重信侯に、慶長17年(1612年)、加増1万石を追加になり、小見川が、その土地に使われる。
この人も老中で、かつて土井利勝侯と共に幼い秀忠公の御世話をした、おもり役だった。
小見川では、用水堰の整備にはげんだ。

安藤家は、家康公の父の代から仕えており、織田家や武田家との戦いで代々の当主が戦死している忠義の譜代。
本家は紀伊徳川家の付家老をやっていた。
重信侯は次男で分家だが、本家よりも大名らしい大名、正規の大名であり、このあとも優秀な老中を続出して本家よりも栄えた。

元和元年(1615年)8月、さらに2万石加増。
元和5年(1619年)10月、上野高崎へ栄転。

  (佐倉藩領、古河土井家)

その後、小見川は、佐倉藩の領地に組み入れられたため、ふたたび土井利勝侯のものになる。
佐倉藩は、幕府直轄地の多かった房総半島では珍しい10万石クラスの藩。
寛永10年(1633年)4月7日、下総古河へ移封。

  (佐倉藩領、三河石川家(家成系))

6月7日、豊後日田から移封してきた石川忠総侯が佐倉藩主になったが、あいかわらず小見川は佐倉藩領のまま。
忠総侯は、大垣藩主だったこともある。

  (矢作藩領、義村流三浦家)

土井利勝侯が土井家に養子に入ったのは、土井家に男子がなかったからだが、女子ならいて、三浦家へ嫁に行った。
三浦氏は鎌倉時代以来の三浦半島の豪族。
そして産まれた子が
三浦正次殿といい、家光公の小姓。

家光公の小姓というだけでも大名に取り立てられそうなものだが、ましてや利勝侯の義妹の子ということは、当時の幕府の実質的最高権力者の甥っ子さんということだから、当然、加増されて、自動的に大名に成り上がる。
寛永7年(1630年)から、三浦家は下総矢作で1万石。
矢作は、
磐城平に来る前の鳥居家の領地。現在の香取市本矢作付近。

寛永13年(1636年)11月22日から、小見川は、矢作藩の領地に組み込まれる。
寛永16年(1639年)1月14日、下野壬生へ移封。

  (幕府領)

ふたたび、幕府直轄。

  (鹿沼藩領、勝間田内田家、3代)

小見川は、下野鹿沼藩に組み込まれる。

内田家は、もともと今川家の家臣だった家。
内田正信侯は、これまた家光公の小姓をしてて大名に成り上がった。
800石だったものが、相模国に1000石追加され、さらに寛永16年(1639年)11月10日、下総国香取郡と常陸国鹿島郡に一気に8200石の加増を受けて、鹿沼藩がスタート、さらに下野国に5000石を加増。

鹿沼藩1万5千石のうち、1万石は小見川だから、鹿沼藩はほとんど小見川藩だったのだが、藩庁が鹿沼にあったから鹿沼藩だった。

正信侯は、家光公に取り立てられた人なので、家光公に殉死、即日の追腹。
この時代には、まだ戦国の気風が残っていて、まだまだ殉死が多かった。
長男は早死にしていたので(この家は、早死にがとても多い)、次男の
正衆君6歳が継ぐ。

正衆侯の長男も早死にして、そのまた長男の正偏君が3代目を継いだが、この時、叔父2人に分知、内田正長殿に1500石と久世正広殿に500石、これで鹿沼藩は1万3千石に減る。

この正偏侯の時、鹿沼藩はつぶれる。原因は、なんと性犯罪。
江戸の町人の妻に惚れて、強引に連れさらってきて、その夫や子が探しに来たのを無礼討ちと称して殺害、うしろめたいもんだから自分の妻にも斬り付けるというようなキチガ◯をやり、蟄居、強制隠居。

なお、正偏侯の正室は、徳山藩主の毛利元次侯の娘。
この8年前に、徳山藩も、いったん改易になっている。

  勝間田内田家、10代

鹿沼藩は廃藩。
正偏侯の長男の
正親君が、旧鹿沼藩の領地のうち小見川部分だけを継ぐ形で、存続が許される。
ざっと100年ぶりに「小見川藩」が復活した格好。

以後、明治まで、内田家の統治。

2代目、正美侯は、19歳で死亡、実子なし。
3代目、
正良侯は、分家の旗本の内田家からの養子。
4代目、
正純侯は、その長男。
5代目、
正肥侯は、その長男。27歳で死亡、実子なし。
6代目、
正容侯は、旗本の石河家からの養子。全身の彫物と女遊びを咎められ強制隠居。
7代目、
正道侯は、正容侯の長男、24歳で死亡、男児なし。
8代目、
正徳侯は、正容侯の次男、34歳で死亡、実子なし。
9代目、
正縄侯は、正容侯の三男、31歳で死亡、実子なし、藩主になって1年で死亡。
10代目、
正学侯は、分家の旗本の内田家からの養子。

という具合で、レイプ殺人の呪いが末代まで止まらない状態であり、御苦労なさっている。
こう書き並べると多いが、正容侯のお子さんたちは正容侯よりも先に亡くなっていて、隠居したバカ殿のほうが長生きした。

佐幕藩だったが、戊辰戦争では官軍側についた。
小見川藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月24日。

 

 江戸屋敷

  土井家
神田橋。ただし、これは利勝侯の役宅か。

  内田家
   上屋敷
麻布日ケ窪。現在の都立六本木高校や区立南山幼稚園などの付近一帯。
北は道と空地を挟んで毛利右京亮邸(ママ。長門府中藩上屋敷)。東は町屋。南東と北西は、いろいろな寺領。南西は空地を挟んで松平左金吾邸(旗本1500〜2000石)。

 

 藩校

不明。

藩庁跡地は現在、香取市立小見川中央小学校になっていて、校庭に陣屋跡を示す石碑が建っている。
同校の公式サイトによれば、『創立』は『明治7年』、『小見川善光寺を仮校舎として発足』とおっしゃっていて、藩校とはつながらない様子。

順天堂医院(順大の附属病院)の設立者、佐藤尚中先生は、小見川藩医の山口家の次男だが、蘭方医学は江戸の私塾で学ばれた。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話を聞かない。

とにかく、安藤家はここから大名になったので、何が手がかりになるともわからないから、チェックしておくというだけ。
なお、安藤家の本家の紀伊田辺藩は、心形刀流を採用していた。

 

 他の剣術の主なところ

どういうわけか、まったく謎。

昔から言われている冗談に、「武蔵野音楽大学吹奏楽部」、「電気通信大学パソコン同好会」というようなことがある。
本当にそんなクラブが実在するのかどうかわからないが、こりゃ恐ろしいね、趣味のレベルじゃないよ本職だよと。

日本体育大学に陸上競技部というのがあって駅伝の強剛だが、「勉強が体育学ならば、クラブ活動はほかのことをやったらどうよ? 若いうちから人生が狭くなるよ」という冗談があったところ、部員が合宿所のベランダで大麻を栽培したり、カラーコピーでニセ札をこしらえたりと、じつは意外に多趣味で器用だったことが発覚し、笑い事ではなくなってしまった。

恐れ多くも香取様鹿島様のお膝元の藩というのは、どのような剣術をやっていたのか、神道流・新當流に決まりきっているのか、あえて珍しい流派がウケるのか、あるいは流派の区別なんて超越している土地柄なのか、まったく想像がつかない。
情報が出回らないということは、剣術そのものが盛んではなかったのか、あるいは誰もが当然のように剣術巧者なので話題にもならないのか。

 

 現在の状況

不明。

 

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