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 大垣の支藩なので一応、押さえておく

 三河 畑ヶ村
 美濃 野村

 

 藩の名前

大垣新田藩畑村藩、畑ヶ村藩、畠村藩、畠藩、野村藩戸田淡路守など。

新田の分を独立させた、いわゆる新田藩なので、現在ほとんどの本では大垣新田藩と書いている様子。
しかし、まったくの新田藩ではないうえに、畑ヶ村のほうに藩庁を置いていたので、畑ヶ村藩という言い方のほうが、より正確ではある。

「藩」という言い方が一般的になるのは版籍奉還以降なので、本当に厳密に「なにか?」と言えば、野村藩ということになるが。

『藩史大事典』では、大垣新田藩で項目を立てて、『別称 畑村藩』と書き添え、『はたむら』とルビを振っているが、これを「はたむら」と読む根拠を俺は知らない。

はたけむら」と読んだ実例は見かける。
俳人の坪井杜国は、本業は米屋で、架空販売の詐欺がバレて、この地に流罪になっていたところ、貞亨4年(1687年)、俳句の恩師であり同性愛の御相手でもある松尾芭蕉が面会に訪れ、あわれな流刑生活を悠々自適の風流な隠棲に見立てて、「麦生えてよき隠れ家や畑村」と詠んで、なぐさめている。もちろん肉体もなぐさめたかもしれないが。

現地に畠神社というのがあり、本来は畠村という表記が一般的だった可能性もあるのかもしれないが、神社名はいろいろと替字を使うことがあるので、よくわからない。

ここでは、ひとまず『三百藩藩主人名事典』に従い、畑ヶ村としておく。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

譜代、菊間広縁詰、無城定府。
1万石、最後のほんの一時期1万3千石。

 

 位置と、土地の性格

三河国渥美郡、畑ヶ村(畑村、畠村とも書く)・古田村・亀山村・日出村・伊川津村。
現在の愛知県田原市福江町(旧渥美町)付近。
愛知県の南に2つ突き出している細い半島のうち、東側のほうの、先端部分。
温暖な農業地帯であり、現在でも生花やメロンの栽培が盛ん。
渥美半島は、もともと戸田一族の本拠地であり、戸田家中興の祖である戸田宗光侯が渥美半島を統一した。
となりの田原藩も戸田氏の傍流が始めた藩。

三河国額田郡の一部。
現在の愛知県旧三河郡の一部(岡崎市になっている部分の一部か、その近く?)。
愛知県の東側は、徳川譜代の家臣たちそれぞれの思い出の土地なので、複雑に小分けされて小さな領地がひしめきあっていたが、そのうちのひとつ。

美濃国大野郡野村
現在の岐阜県揖斐郡大野町付近。
大垣市の北に位置する。揖斐川と根尾川にはさまれた一帯。
越美山地が終わって濃尾平野が始まるところ。

美濃国内の新田の一部。
詳細不明。
現在の岐阜県大垣市付近の一部。大垣藩の新田の一部。

 

 藩主と、藩の性格

支藩の定義と種類については、凡例に書いたとおり。

石川家が大垣藩をやっていた頃、3代目の忠総侯の時に、補佐役で親戚の大久保忠為侯が「大垣新田藩のようなもの」をやっていたらしい。
戦国時代にも、今から見れば「野村藩のようなもの」があった(少し後述)。
これらは別モノ、しかも唯心一刀流に関係なさそうなので略。

まず、戸田氏鉄公の次男、氏経殿が、とにかく1500石を持っていた。

『藩史大事典』では、
『大垣藩主戸田氏鉄の次男氏経は元和四年(一六一八)、二代将軍秀忠につかえ、その後
加増により三河国渥美郡内に一五〇〇石を知行していたが、寛永十年(一六三三)十二月、同国額田郡の内七〇〇石を加えられた。』
などと書いてある。
旗本として将軍に仕えて、加増された結果1500石に到達したような口ぶり。
これは『寛政重修諸家譜』に拠ったものと思われる。

『三百藩藩主人名事典』では、
『氏経は、三河国渥美郡の畑ケ(畠とも書く)・古田・亀山・日出・伊川津の五ヶ村
千五百石を領有していた間宮権左衛門之等の女婿となり、』
ということで手に入れた1500石、つまり
逆玉の輿で得たような話。
しかし、間宮家を相続したのであれば、名前が間宮氏経になってない理由がわからない。

『寛政重修諸家譜』巻第九百十五、『藤原氏 支流 戸田』の『氏經』には、
『元和四年めされて台徳院殿
(秀忠)につかへたてまつる。時に十六歳 のち御小姓をつとめ、采地を賜ひ、その後加増ありて三河國渥美郡のうちにをいて千五百石を知行し、』
というようなことが書いてあるが(原文では徳や増は旧字)、一番最後に、
『妻は間宮權左衛門之等が女。』
とも書いてある。

1500石の旗本がいて、嫁の実家もたまたま1500石でした、というだけの話かもしれないが。
結婚するなら普通は同等クラスの家同士でやるだろうから。

寛永10年(1633年)12月、三河額田700石を加増される。

明暦元年(1655年)5月、氏鉄公の遺言で、大垣藩のうち大野郡の新田4000石を相続。
実父が大垣藩主だから、兄が大垣藩を継ぐ時に、大垣藩を分けてもらえた。
本来の大垣藩を削ったのではなく、大垣藩が開拓して増やした石高をもらったということ。

『氏鉄は入封当初から地方知行制を廃して俸禄制を実施し、検地による農民の掌握、農業生産力の把握につとめ、新田開発の奨励により新田高一万三千石の増収をあげた。走り百姓を禁じる農民保護政策を取り、勧農政策として優良品種による増産をはかるとともに農耕法の改善を指導し、治山治水を積極的に行った。』(『藩と城下町の事典』)

氏鉄公の息子は7人くらいいて、ほかにも旗本になった子がいる。
『氏信は父の遺志により、新田高のうち弟氏経と氏照(氏好)にそれぞれ四千石、氏利(氏親)に五千石を分与した。』(『藩と城下町の事典』)

寛文4年(1664年)、新田の治水工事をする資金力がないので管理しきれないとかいう理由で、大野郡の新田4000石を、大野郡10ケ村の本田と交換。

寛文12年(1672年)、息子の氏利殿が相続。

元禄元年(1688年)7月、3代目大垣藩主の氏西侯の次男、氏成君が、養子に入って相続。
またもや実父が大垣藩主なので、氏西侯の遺言で、大垣藩の新田3000石を分与される。
1500+700+4000+3000、さらに渥美郡に開拓した新田の分もあったらしく、合計だいたい
1万石たまったので、大名になる。

ほかにも微調整したのか、立藩時の内訳は、美濃4000石、三河6000石だったという。

  大垣戸田家(氏経系)、8代

戸田氏成侯以下、明治まで続く。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城白書院前の「松之大廊下」において、播磨赤穂の浅野長矩侯がアレをやらかした時は、氏成侯も従兄弟ということで連座、出仕差し止めをくらっている。
赤穂浪士のうち、討ち入りギリギリ直前でバックレた、最後の脱落者こと、毛利小平太殿は、兄が氏成侯の家臣だったので、戸田家が手を回してやめさせたんじゃないかという説もある。

亨保10年(1725年)7月28日、もうひとつの、松の廊下事件がある。
大垣藩戸田家の4代目の氏定侯の娘(5代目の氏長侯の養女という形にしてあった)が、信濃松本の水野忠恆侯に嫁いだ。
そのことを吉宗公に報告するため、婚礼の翌日、忠恆侯は登城した。
この時、扇子を置き忘れて取りに戻ったところ、長門長府の毛利匡広侯の跡取り息子の師就君が、気をきかせて拾っておいてくれて、「そこもとの扇子、ここもとにござる」と、渡してくれた。
そこもと、ここもと、という言葉のリズムが、おっちょこちょいさん♪、という嘲笑のニュアンスに聞こえたのか、嫁をもらって舞い上がって忘れ物をしたと思われそうで気恥ずかしかったのか、忠恆侯は師就君に斬りかかる。
この時は、おそらく柄糸のない短刀を帯びていて、それを抜いたのだろうと思う。

忠恆侯は酒乱で(祝言の翌日ともなれば、この時も酔いが残っていたのかも)、しかも狩猟マニアというか武器マニアみたいなところがあったという。
師就君は負傷しつつも、鞘刀(抜いていない。鞘ごと)で受けさばいて、短刀を打ち落とし、正当防衛おとがめ無し。
この時、畑ヶ村藩2代目の氏房侯が居合わせて、その落ちた短刀を忠恆侯に拾われないよう取り上げたらしく、『寛政重修諸家譜』では『氏房速に其腰刀を奪て狼藉を鎮む。』とある。

事件後の事情聴取では、忠恆侯は、日頃から素行が悪いから改易されて自分の領地が没収されて師就君のものになるから斬り付けたとかなんとか、アレによる被害妄想のようなことを口走ったらしいが、幕府側にはそのような事実はなく、お望みどおり改易になる。
大名家としてはつぶれたが、忠恆侯の叔父(といっても九男だから、忠恆侯より6つ年下)の忠毅殿が継いで、旗本として存続し、
信濃佐久で7千石、その長男の忠友侯は田沼意次に乗っかって大名になり、以後、側用人や老中をたびたび輩出した。

畑ヶ村藩の最後の藩主は氏良侯。このまま、この人が廃藩置県まで勤め上げる。

  (明治政府下の藩主・知藩事、大垣戸田家(氏経系))

戊辰戦争では官軍側についた。

版籍奉還の時、端数の飛び地の寄せ集めの1万石なんぞでは明治政府の地方自治体知事に任命されなかったことから、明治2年(1869年)5月27日、畑ヶ村藩を野村藩と改称した。

昔、信長公の甥(有楽斎侯の子)で織田長孝侯というのが、この場所に1万石の領地をもらって、2代30年ばかりやっていたことがあるので、238年ぶりに野村藩を復活させた格好。

これにより、由緒正しい一区画という感じになり、藩の知事になることができた。
『藩史大事典』によれば、『(略) 明治二年(一八六九)二月、版籍を奉還、同年五月改めて藩屏に列せられ、旧領の大垣新田藩(畑村藩)を野村藩と改称。同年十月藩知事に任命された。』とあるが、版籍奉還したのは10月23日だともいう。

11月には、さらに大垣藩から大野郡3000石をもらって補強。

明治3年(1870年)夏、本当に美濃国大野郡野村に藩庁を移したが、翌年には廃藩置県。

 

 江戸屋敷

『藩史大事典』には記載がないので、『東京時代MAP』で『戸田淡路守』となっている屋敷を以下に書いておく。

  上屋敷
外桜田。現在の霞ヶ関二丁目、中央合同庁舎二号館総務省から国交省海保にかけて。
北は松平中務大輔邸(豊後杵築藩上屋敷)。東は道を挟んで阿部因幡守邸(上総佐貫藩上屋敷)。南と西は松平安芸守邸(広島藩浅野家上屋敷)。

  下屋敷
小石川大塚。現在の文京区小日向三丁目、拓大からザンビア大使公邸にかけて。
北は道を挟んで佐竹左近将監邸(出羽岩崎藩下屋敷)。東は林泉寺とその門前町らしき町屋。南東はこまかい武家地と寺領。南西は町屋。西は安藤長門守邸(
陸奥磐城平藩上屋敷)。

 

 藩校

あったという話を聞かない。
そもそも、藩の実態がほとんど無いに等しい。大身の旗本のようなもの。

 

 唯心一刀流継承者

不明。

 

 他の剣術の主なところ

不明。

 

 現在の状況

不明。

 

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