古藤田家の仕官先、正木一刀流もあった 美濃 大垣
藩の名前 大垣藩、美濃大垣藩。戸田釆女正など。 『大垣の由来は、T東国と西国をわける大きな垣根Uということらしい。』(西ケ谷恭弘・多■正芳編『城郭みどころ事典 東国編』東京堂出版2003)
親疎、伺候席、城陣、石高 石川家は、譜代、城主。5万石。
位置と、土地の性格 美濃国大垣。安八郡を中心とする一帯。 戸田家の時は、美濃国安八郡88ヶ村・石津郡13ヶ村・多芸郡24ヶ村・不破郡10ヶ村・池田郡50ヶ村・大野郡43ヶ村・本巣郡31ヶ村。 現在の岐阜県大垣市周辺。岐阜県の南西に位置する。 当時の日本のほぼ中心に位置し(蝦夷や琉球は日本じゃなかったから)、砂時計のように本州がくびれている部分であり、中山道を東西どちらからも封鎖でき、東海道を側面から攻撃でき、中山道と東海道が連絡するのを封鎖でき、名古屋や岐阜や琵琶湖周辺を攻めるにも守るにも連携でき、西の敵は山脈の谷間を出てきた所を叩ける、東の敵は3つの川を渡るところを叩ける、そして、どちらに撤退しても有利という、誰がどう見ても戦略的重要地点であり、関ヶ原の戦いの緒戦では西軍の本陣だった。 今でこそ岐阜県と呼んで県庁所在地は岐阜だが、池田家の時は大垣が主城、岐阜が支城だった様子。 加納3万2千石より大垣10万石のほうが、はるかに大藩だった。
藩主と、藩の性格 竹腰家だか、宮川家だか 土岐氏が美濃を支配していた頃、大垣は竹腰家が担当していた。 天文4年(1535年)、宮川安貞侯(安定とも)が築城したのが最初ともいい、大垣市の公式ページでは、こちらの説をとってらっしゃる。 美濃氏家家、3代 その後、斎藤利政侯(いわゆる道三)が、下克上して美濃を支配する。 曽根城に稲葉良通侯、北方城に安藤守就侯、大垣城に氏家直元侯、これが「西美濃三人衆」と呼ばれて斎藤家の重臣をやっていたのが、そっくり織田家にくらがえした。 氏家直元侯は、友国ともいい、出家して卜全ともいう。 長男の直道(直昌)侯が継いだが病死したので、次男の行広侯が継ぎなおし、美濃三塚に移封。 美濃池田家、2代 次は、池田恒興侯が、秀吉公から大垣13万石を与えられた。天正11年(1583年)。 池田家は、どこの馬の骨ともわからぬ家だが、恒興侯の母は信長公の乳母だから、恒興侯は信長公の乳兄弟で、織田家の重臣だった。 信長公なき後は、秀吉公の中国大返しに合流して、共に光秀侯を討ち、清洲会議でも三法師支持と、秀吉公寄り。 小牧長久手でも秀吉公側について戦い、永井直勝侯に討ち取られる。 この時、長男も戦死したので、池尻城主だった次男の輝政公が継ぐが、岐阜城が居城になる。 (豊臣家?) 天正19年(1591年)3月、豊臣秀勝侯は美濃国を与えられ、おそらく岐阜城に入ったと思うのだが(通称も、岐阜宰相)。 伊藤家、2代 小田原攻めの功績により、大垣は伊藤盛景(祐盛)侯に与えられる。 『慶長元年(一五九六)、城主伊藤祐盛が天守閣を四層四階に修築した。三層や五層に造るのがふつうの城郭建築を、四が死に通じるとして忌み嫌われる四層四階にした珍しい形である。』(二木謙一監修・工藤寛正編『国別 藩と城下町の事典』東京堂出版2004) 『つまり四層は「死相」に通じるとして、他では造られなかったものだ。だから当の大垣でも、古文書には四層とは書かず、一階の屋根を付け庇とみなして三層で押し通しているという。』(『日本の城ハンドブック新版』) 伊藤はどこにでもある名前なので素性がわからないが、この人は秀吉公の家臣。 息子の盛正(盛宗)侯が継いだ。この時点で3万4千石あったという。 豊臣家(西軍、戦時編成) 伊藤盛正侯は、関ヶ原の戦いでは西軍についた。 大垣城は、福原長堯侯、熊谷直盛侯(いずれも三成侯の妹婿)などが守っていたが、東軍に取り囲まれ落城。 盛正侯は大垣城を出ていたために、かえって生き延びたが、改易されて加賀前田家の家臣になったらしい。 (預かり、松井松平家) 落城後の大垣城は、松平康重侯が城番を勤めた。 三河石川家(家成系)、3代 慶長6年(1601年)2月、上総鳴渡から石川康通侯が入封。 石川家というのは家康公に最も信頼されていた譜代最古参の重臣、石川数正侯の家で、徳川家の筆頭家老を勤めていたが、徳川家の軍事機密を手土産に秀吉公に寝返った。 大垣藩をやってた石川家は、数正侯の叔父の、家成侯の家。 康通侯の時、江戸幕府が始まって大垣藩がスタート。 康通侯が亡くなり、嫡子が幼かったので、普通ならこれだけでも改易だが、すでに隠居していた父の家成侯をふたたび当主に復帰させて、2代目藩主にした。 しかし70代なかばの年寄りなので、家成侯は2年ほどで亡くなる。 大久保家と本多家の権力争いで、大久保長安侯が負けたことから、忠隣侯は改易。 このへんはすべて、家康公の指示だったともいう。 大坂の陣で活躍したことから、元和2年(1616年)9月26日、豊後日田に栄転。 久松松平家(本家)、2代 28日付で、下総関宿から松平忠良侯が入封。 次男の憲良君(のち忠憲。『諸国城主記』では延良)が継いだが4歳くらいなので、寛永元年(1624年)9月、信濃小諸へ飛ばされる。 (預かり?) 少し間があく。 藤原南家工藤氏流岡部家、2代 12月20日、丹波福知山から岡部長盛侯が入封。 もともと今川家に仕えていた家で、父の正綱侯は人質時代の家康公に親切にしていた。 長盛侯も戦場での働きが抜群だから、「黒鬼」と言われていた。 長男の宣勝侯が継いだ。 久松松平家(定綱系) 3月23日、山城淀から松平定綱侯が入封。 家康公の甥にあたる。 大坂の陣で家康公が一時的にピンチになった時は、この人が親衛隊長として家康公の近辺を守っていた。 寛永12年(1635年)7月28日、伊勢桑名へ栄転。 大垣戸田家(一西系)、11代 同日、摂津尼崎から戸田氏鉄侯が入って、あとは明治まで戸田家。 戸田氏は、河内源氏の森氏のいくつかある支流のひとつ。 大垣の戸田家は、それらとは少し別の家。 もともと牧野氏だったという珍説もある。 上田2回戦は別記。島原の話は古藤田家のページ。 7代目藩主の氏教侯だけは老中になったが、大垣戸田家は、政治家よりも軍人として、軍事拠点の大垣を押さえることを担当した、武将の家だった。 4代目藩主の氏定侯の時に、親戚たちが刃傷事件をやらかして大迷惑するが、その話は真壁藩のページと、畑ヶ村藩のページ。 大垣戸田家は、たびたび松平の血筋が養子に入っていることもあり、幕末の大垣藩は、鳥羽伏見までは徳川方についていたが、城代家老の小原鉄心殿が勤王論に舵を切り、官軍側に寝返った。 元大名は華族になったが、準大名が男爵、正規の大名はほとんどが子爵、大身の大名には伯爵、御三家など超大物には侯爵、島津家ともなると公爵が与えられた。 大垣藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月17日。 大垣城は、その後も現存して国宝だったが、アメリカ軍に落とされた(城も、焼夷弾も)。
江戸屋敷(戸田家、安政年間) 上屋敷 溜池。現在の赤坂一丁目、東京全日空ホテル改めANAコンチネンタルホテル東京の周辺。 中屋敷 下屋敷
藩校 日本で一番最後まで御元気だった藩主は、広島藩の浅野長勲侯(96歳、昭和12年没)。 天保9年(1838年)、岡田主鈴という藩士の私塾を公立化? 天保11年(1840年)8月21日、東外側町2丁目に校舎完成、「学問所」設立。 天保15年(1844年)、「致道館」と改称。 弘化4年(1847年)1月、「敬教堂」と改称。 文久2年(1862年)4月、「文武館」なるものを新設? 慶應2年(1866年)12月、敬教堂を「学館」と改称。 『慶応年間には諸規則を改めて藩外の子弟も入学が許され、職員七十五人、生徒は五百人が学んだ。』(『藩と城下町の事典』) 明治元年(1869年)12月、「文学校」「武学校」を設置。 『創設当初は漢学を主として、それに算術・習字が加えられていたが、文学校時代には、和学・漢学・洋学・医学・算術・書道を教授し、武学校では兵学・馬術・槍術・砲術・柔術・遊泳などを教授した。』と同書にある。 明治4年(1871年)1月、文学校を「北校」「南校」に分離。 明治4年(1871年)7月、廃藩により廃校。 明治4年(1871年)11月、学校自体が消滅。 「廃校」になったはずが、大垣市立興文小学校は現在、天保11年以来の藩校の歴史を、丸ごと自分たちの沿革に含めている(同校ホームページ)。
唯心一刀流継承者 古藤田勘解由左衛門俊直先生。 正木太郎大夫利充先生。 ほかに、各先生のお弟子さんたちがいらっしゃる。伝系のページ。 古藤田家が、いつからいつまで召し抱えられていたかは、古藤田家のページ。
他の剣術の主なところ 正木一刀流 北辰一刀流 神道無念流 大垣藩では、慶應2年(1866年)11月1日、兵制改革をして、12月に「僧兵隊」および「農兵隊」なるものを編制し、翌年3月には、旧式武器を廃止している。
現在の状況 不明。
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