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  城陣

律令制の区分で言うところの国(出雲国とか備前国とか)を、ほとんどまるまる持っているのが国主(国持大名)です。
2国3国持つ人もいる。何十万石も持つ。
たいてい外様の大物です。親藩は身分で、譜代は国政参政権で、外様は土地で満足させる方向にしてある。

これは格式のことなので、実際は国主でなくても国主同等に扱われることもあります。准国主。国持格、国主並。
伊賀や壱岐みたいな小さいのは国主とは言わない、しかし対馬は対朝鮮外交を担当するから国主扱いになる。
本当に一国を丸ごと持ってる大名は12家だけで、たとえば陸奥国というのが広すぎるから、伊達家は60万石以上あっても一国まるまるというわけではなかったり。

あるいは領地の広さではなく受領名(なんとかの守という肩書。朝廷からもらう)のほうで優遇される場合もあります。肩書だけは守護大名みたいな。

領地は一国に満たないが、城は持ってるのが、城主(城持大名)。
城は持ってないけど、自分の陣屋を「城」と公称する権利を持ってるのが
城主格(城持格)。
城を持ってないし、陣屋が陣屋でしかないのが
無城(陣屋大名)。

この区別も、大名の格付けです。例外も変更もあります。

この5段階ランクになったのは宝永7年(1710年)以降らしく、それ以前は、こういう分け方ではなかったらしい。
元禄3年(1690年)の『土芥寇■記』(変換できない。隹言隹)では、だいたい3万石を境にして、
居城居所の2ランクに分類されており、しかも三河田原城を居所と呼んでいたり、なにか別の選別基準もあったらしい。
詳しいことは白峰旬『江戸大名のお引っ越し居城受け渡しの作法』新人物往来社2010というのを読んでください。かなり通説と違う。

陣屋大名という言い方は、当時はほとんどしなかったらしいが、陣屋という言葉も一般的というわけでもなかったようで、陣屋のことを各藩いろいろに呼んでいる。
武蔵松山のように、陣屋大名が6万石以上を統治していた例もあります。

戦争で使い物になる城を構えるということは、それ相応の人数と軍資金が必要です。
陣地が広いほど、境界線が長くなるから、人を配置しなければほころびが出る。
陣地が堅いほど、奪われたら取り返すのが難しい。守りやすい場所というのは、攻めやすい場所でもあり、いったん不利になったら形勢逆転できず一気に負ける場所だったりすることが多い。

苗木藩1万石のような例外もあるけれど、うちの築城時に本気で試算してみたところ、江戸時代の城なら実高3万石では全然足りません、その倍は必要。

あとは、周囲の城との相互関連です。
一国一城令は、城は1国に1つだけにしなさいという命令ですが、支城をなくして本城を丸裸にしようという目的なので、たとえ小さい城でも外様の城の近くにあると、謀反を起こした時に連携されちゃって困る。

軍事の1+1は2になりません。
単体で1のものは、連携して使うと3くらいになる。時間を操れるからです。場所がうまければ、5くらいの時もある。
というより、実力が1のものを単体で使うと0.7くらいしか発揮できません。
なお、一国一城令は、全国に向けてそういう法律を発布したわけではなく、外様大名、特に西国大名に対して、個別に命じたものなので、例外もあります。

城の話は本気で書かなきゃならない。
「城」の定義は、財団法人日本城郭協会(日本100名城を選定した組織)の、井上宗和理事長が定めたのが一応あります。
『城とは人によって住居・軍事・政治目的をもって選ばれた一区画の土地と、そこに設けられた防禦的構築物をいう』
つまり、これは後世になってから国際的な視野で作られた基準であって(この理事長は外国の城にも大変に造詣が深い)、アホ貴族の豪邸や、山賊盗賊の砦を含んでしまう。

俺の個人的な定義で言うと、城は、城と呼ばれるものが城です。

浄土真宗が恒常的に要塞化していれば寺も城だし(寺院城郭という)、広くていいやと思って新選組が本願寺を屯所にしているだけでは城とは言わない。

本能寺は、たびたび他宗派から攻め込まれて何度も焼失しているため、信長公の時には濠も土塁も石垣も厩舎も火薬庫も備えて要塞化されてましたが、城だというイメージを持ってる人はほとんどいない。

現存する4代目二条城は単なる儀式会場と宿舎、しかも、使い道のなくなった、なれの果てです。
平安京の中に将軍が要塞を築くなんてツジツマが合わないから、朝廷側では二条亭と呼んでいた。
幕府側としても、こんなとこに無人の城があったら倒幕軍が立て籠っちゃって困るのは自分たちなので、大きさも構造もそれほど本格的にしなかった。
家綱公以降の将軍宣下は、将軍の位を江戸まで持ってこさせて、勅使を下座に平伏させちゃってたので、徳川家が京都へ頭を下げに行く必要ないから、二条城なんて230年間くらい全く使ってなかった。
それでも、二条城と言い慣れちゃっていて、修学旅行で一度は行くから、なんとなく城だと認識されている。

聚楽第は品物自体は完全に城ですが、豪華な御屋敷という使われ方だったし、また誰もが、あんまり城だとは思ってない。これもまた、天下統一後の京都に関白が城を構えてどうすんだ、戦争するのか?という話。

縄文時代に集落を柵で囲って、物見櫓を建てていれば城なのか? 当時はこの程度でも城かもな、とか。
世間様がそう思えば必ず、城でないものは城の範疇から落ちる。

わが「ぱんだ城」は、自分で城と言い出したのではない、世間様がそう呼んでくださった、ということが、城であることの根拠のひとつになっております、本当にありがたいことです。番長とか姫とか、そう呼んで呼んでってお願いするもんじゃないだろう。

感覚的な定義にまかせる、そして、時代の移りゆくままにまかせるということです。
こうでもしないと、たかがワイン工場ごときが城と訳される現実を包摂しえない。

昨今のバカ女にとっては、映画村だろうがネズミの遊園地だろうがラヴホテルだろうが、なんとなくウットリお姫さま気分になれるんだったら城であり、それは違うとどんなに言ったって聞きゃあしないのだ。

 

 

 

それは、現代の日本人にとっての城のイメージというものが、ある程度に共通で一般的であれば、もう、しょうがないのです。
城マニアよりも圧倒的多数派なんだし、それが現代の城の需要であり、それでみなさん楽しんでらっしゃるのだから何も問題ない。

言葉は変わっていくから、正しいとか正しくないというのは、時代を越えて固定できるものでもない。

城に詳しい方が見て回ってらっしゃる「城」も、ほとんどは、城マニアをおびき寄せて金を落とさせるための観光用レプリカであり、その都市のシンボルとしてのモニュメントであり、市民の憩いを目的に整備された公園庭園であり、資料館ないし博物館であり、壕なんかとっくに埋めちゃってて自動車で乗り付けられて、たいてい鉄筋コンクリート建て、下手するとエレベータ−付きであり、間違っても戦争施設とか政庁として作られていない。あくまでも熱海城。

復元もなにも、今の大阪城が、かつての大坂城と同じものだと思いますか?
大坂城は、壕も埋めたし焼け落ちたし、徳川家が建て直させ、また戊辰戦争で焼け落ちて廃城になり、今のやつは昭和になってから建てました、庶民の善意の募金で。
あれが復元だとすれば、秀吉公が黙っちゃいませんよ、秀吉公いますよ五所川原に。「大阪城奪還」とおっしゃってますよ。大阪府知事に当選することが、奪還なんだそうですけど。

現在の大阪城の所有者は、上沼恵美子さんです。天下のNHKで所有権を宣言し、どこからもクレームが付かないのだから、実効支配が完了しちゃっている…。

江戸時代の「城と陣屋の違い」は、法的なものと、構造的なものがある。

法的根拠は、武家諸法度と一国一城令です。
破損の原状回復だけの補修でも幕府の認可が厳しいかどうかということと、そこを管理する大名の格付け。

構造で言うと、城は立てこもる持久戦を想定した要塞であり、陣屋は永続的な本陣つまり司令部です。

は、そこが決戦になる前提であり、陣地構築物。
侵入してきた敵を右往左往させて袋だたきにする、邪魔な構造物が機能の大部分。
築城というのは、そのほとんどが壕や土塁や石垣の土木工事であって、箱モノ部分の建築は工期でいうと1割にすぎない。

城は、たいてい石垣の上に階層の櫓を建ててあり、壕を掘って防壁をめぐらせて通せんぼしてある。
材木があんまりむき出しではダメで、塀は塗りこめて耐火にするか、石壁にする。

また、武士の世界にはいろいろと、城に対する格調高い慣例がある。
たとえば、敵の城の天守の窓の所に、敵将が立っていても、これを弓や鉄砲で狙撃するなんてことは、どんなに苦戦している時でも絶対にしないことになっている。そんなんで勝ったとしても、とって代わって統治者をやっていく力量がないから、世間が納得しない。

陣屋は、そこまで深刻なことは考えていない。
郡奉行や代官の
ただの出張所でも陣屋です。
居館か事務所であればよいので、濠と石垣はあっても小規模で、防壁もはりめぐらせないし、三層もあるような巨大な天守や櫓は建てません。
高く登って見なきゃいけないほどの大軍勢を引き受けない。その力もないから。

ところが、実際には、城と陣屋の違いは、「城と呼ばれるかどうか」で決まるんです!

まず、前述の「城主格」の場合、陣屋でも城だということになっている、呼び方だけは。

信濃上田藩主の身分は城主だし、上田城は城ですが、江戸時代の上田城は正確に言うと、「城の跡地に建てた陣屋」でした。
関ヶ原の戦いの後、廃城になり、天守を壊して壕を埋めたものを、幕府の認可を得て途中まで復元工事をやりかけて、中断している。
三之丸に建てた「居館」が、上田藩主の住居と政庁だった。

駿河小島藩には、誰がどう見ても実戦的で堅固な城がありましたが、1万石の小藩で、城を持てない身分ですから、名称は城ではなく陣屋でした。「陣屋」という名前の城。
ここの藩主は松平様だから、なんとなくそれで通用しちゃっていた。

伊達家や島津家などは、江戸時代でも、大小各種、大量に城を持ってましたが、「要害」とかなんとかって呼んでいたり、存在しないことになっていたりして、絶対に城ではなかった。城だと言えば幕府がうるせえから。
幕府としてもそこは黙認してるので、城でーすと自分から言わないのであれば追求しない。

禁じられた状況下で、工夫しながらやっている、ということも含めて歴史であり文化です。
何の分野でもそういうことはある。かえって、禁制が文化を育てることさえある。

陣屋大名が城主格に出世すると、陣屋は、なんちゃって城というタテマエになり、城門くらいは付け足したりします。
筆頭家老は「城代家老」、陣屋町は「城下町」「御城下」などと、名称だけは変更することもあります、あいかわらず建物は陣屋だけど。

徳山藩主が城主格になった時、今まで「御館」と呼んでいた陣屋を「御城」と改称している。
呼ばれるかどうかなんです、結局。

国主クラスの大藩ともなると、家老たちでさえ1万石以上、多い人だと3万石以上もらっていて、それぞれ陣屋も構えてましたが、たとえば備前岡山藩では「御茶屋」と呼ばれ、陣屋ではないということになっていた。
なぜなら、これが陣屋だったら家老が小大名と同格になってしまい、その主君の大大名は将軍と同格になってしまう、という遠慮です。

陣屋でも、大きめの櫓を建てることはあります。「3階建ての櫓を持つ、陣屋」、あくまでも陣屋、代用天守を備えた陣屋です。
だけど、御三階櫓というのはもう、ほとんど天守です。現代人から見れば城にしか見えない。でも、陣屋なんです、どんなに城っぽくても。
盛岡城の御三階櫓は、幕末には、天守と改称した。「公式には、何」ということで決まるわけです。

城を厳密に定義するのであれば、時代・地域・文化・民族・政治・宗教などの、範囲の限定を必ず伴う。
このコンテンツでは、「江戸時代の」城と陣屋を分けております。

 

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