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新選組の羽織は、本当に
浅葱色だったか? 3

 

  新選組は口先ばっかり?

「いつ切腹してもかまわない」なんて言葉は
人として軽々しく言っていいことじゃないし、
本当に生死を超越した境地に達している達人ほど、
あからさまにそんなことは自慢げに言いません。
意気がって青臭いので、みっともないからです。

切腹の色が何色だろうと、そんなものを隊服に選んだとすれば、
ものすごい悪趣味か、あるいは
弱い犬のように吠えて虚勢をはっていた
ということになる。

あの新選組が、そんな安っぽい男たちだったと思いますか?

末端の隊士ならそんなのもいたでしょうが、
免許皆伝とか、ある程度は武を極めた達人は、
戦いにおける強さはそれはそれとして、
人の命の重さを虫ケラみたいには扱わないものです。

戦国時代なら人殺し丸出しみたいな殺伐とした風潮もあるでしょうが、
江戸時代の道場剣術は、武を人間形成の「道」に昇華していた。

幕末は血の気が多い雰囲気だから、バカな人もいたでしょう。
幕末でなくても、武術の宗家ほどの人が、
つまらない喧嘩で一命を落とした例はたくさんあります。

しかし新選組は、手柄を立てて生き延びて
直参や大名に成り上がるという目標があったのだし、
将軍が戦いをやめて恭順していても、甲府城がとっくに陥落していても、
挽回を信じて戦い続け、
勝沼では切腹することなく、隊を脱走したり、落ち延びたり、投降したり、
生き続けたわけです。
たとえ仲間を切腹させることには容赦なくても、
自分が切腹するのは誰だって痛くてイヤなんで。

それに、頼朝公や三成公なんかもそうですが、
恥に耐えて生き延びて挽回するのが武士であり、
簡単に自殺するよりも生きるほうが立派だし、より難しいことです。

 

  近藤先生は切腹できなかった

切腹は、たとえ扇子腹でも、打首よりは名誉ある死です。

下賤の愚民は、目先の欲得しか見えず、
支配してもらって裁いてもらわないと
自分のなすべきこともわからないかもしれないが、
武士は、自分の出処進退は自分で決める、自分の責任は自分で取る、
殉死もする、ということです。
死ぬほどつらい目にあっても生き抜いて農業をがんばって
武士を食わせていたお百姓さんのほうが、
ず〜っと偉いような気がしますが、
とにかく武士は、この「誇り」「名誉」という部分で
切腹していたわけです。

切腹させられることは、「死を賜る」といって、
武士として扱われたということを意味する。

ところが、近藤先生は切腹してません。斬首でした。
犯罪者として処刑されてしまい、武士扱いを受けていない。

土佐の連中が、強引に処刑してしまったからです。
土佐は、すぐカッとなる漁師気質に、山崎闇斎の極端な勤王思想が入り、
志士とは名ばかりの暗殺者を山ほど輩出しており、
しかも坂本竜馬・中岡慎太郎を殺したのが新選組だと勘違いして、
朝廷のためなんかではなく、
おらが村の仲間が殺されてムカついたから殺さなければならんぜよという
危険な思想だった。

近藤先生は、官軍とは考え方や立場が違っただけで、
憂国や忠義や武勇は誰にもひけをとらない立派な人物であり、
斬首なんてことは敗軍の将を遇する道ではないからと、
薩摩側がだいぶ厳しく抗議して、拷問だけは中止させたんですが、
生かして京都へ護送するという意見は通らなかった。

おかげで、近藤先生の生首は京都に送られ、さらしものになり、
大阪に運ばれて大阪でもさらしものにされ、
そのあと行方不明になったので、おそらく今でもあの世では首なしです。
どんな大悪人だとしても、首と体はセットで埋葬してやらないと。

 

  近藤勇が悪趣味だったせい?

新選組の羽織の色が、死を恐れない意気込みをあらわしているかどうかの
根拠としてよく言われているのは、
近藤先生の稽古着の背にドクロが刺繍されているという事実です。
奥様が刺繍したと伝えられてます。

武蔵野とか野晒といって、
ガイコツを旗や服や工芸のモチーフにすることは
ないこともないんですが、

オドロオドロしいものを誇示することは、弱い奴がやること
であり、
かぶき者とか旗本愚連隊のような
家を継げなくてウジウジ屈折して暴力をふるうバカな人たちか、
あるいは、平山行蔵先生や河鍋暁斎先生のように、
どちらかといえば変人と紙一重の天才がやる風習です。
全部が絶対にそうではありませんが、こういうマガマガしいことを
ウソぶいた下品な虚勢とみなして嫌う考え方が、武家には確かにある。

これは美意識の問題なので、うまく御説明できませんが、
弱いくせにヘンなヒゲを生やしたり、髪をのばしたりして、
いかにも武術家ですと飾って歩いたり、
何人殺したとか自慢して回る奴は、笑い者になる。
トラノスケの話は、二之丸の「墓所」のページを御覧ください。
また、敵の生首を串団子で遠回しにほのめかすデザインなんてのもあった。
国学でいうハレとケ、いくら常在戦場といっても
死を年がら年中ひきずって、ニヒルでネクラな殺し屋みたいな顔してるのは
みっともない、というようなこともまた武家の感覚なので。

道場が神聖だと頭ではわかっていても、どのくらい神聖かというのは、
かなり武術を経験されてる方でも
びっくりして背筋を正した経験がおありだと思います。
怪我をして血がたれるのを、床がケガレる!と怒鳴られたとか、
靴下をはいたまま上がろうとしていきなり殴られたとか、
貧乏でモノグサでも道場だけはピッカピカに磨いてあったとか、
いろんな話があります。
戦場ならともかく、道場でドクロというのは、どうしてもピンときません。

近藤先生は素朴な人、という我々のイメージが間違いで、
本当はチャラチャラ派手な人だとしたら
(なにしろ、宗家といっても若いので。若気の至りは誰にでもある)、
そういうケバケバしたものを意気がって露骨に見せびらかすようなことも
絶対ないとは言い切れないかもしれません。

 

  近藤先生は羽織に関与していない?

新選組のしきたりみたいなことは
土方先生が主導で決めていたようだし、
あの羽織を採用した時には、まだ芹沢一派がいたでしょう。

出典は不明ですが、
新選組が豪商の鴻池(のちの三和、UFJ)を賊から守ってやったが、
公務であるとして謝礼を受けなかった、
そしたら芹沢、原田、永倉といった人たちが
近藤先生に内緒で謝礼を要求しに行き、200両ほど出させ、
大丸呉服店であの羽織を作ったが、
近藤先生は激怒して、鴻池に謝罪しに行くよう原田・永倉に命じ、
鴻池はますます恐縮して新選組に出資するようになった、
と聞いてます。

これが本当なら、近藤先生のあずかり知らぬ所で決まったのだから、
あの羽織は、近藤先生の性格に起因するとは考えにくい。

 

  新選組は、野暮な田舎者?

浅葱は、野暮で田舎くさくてモテない侍をあらわす言葉です。

遊廓では、最初は口をきかないとか箸をつけないとか、
いろんなしきたりの前置きがあってから、交わりになります。
ムードを高めるための擬似恋愛、演出です。

地方の侍が、参勤交代にくっついて江戸に出て、売春婦を買いに来るが、
遊廓のしきたりも知らず、ガツガツしてて不粋なので、
売春婦たちは、こうした田舎侍をバカにして、浅葱と呼んで嫌っていた。
「浅葱裏」の略です。
彼らの着物の裏地が、たいてい浅葱木綿だったからです。
この場合は「浅黄」という表記も多く見かける。

たしかに新選組は、京都の人たちからは、田舎くさい乱暴者と見られて、
「壬生狼」と呼ばれて嫌われていた時期もあった。
芹沢一派がいろいろバカをやったからですが、
そうでなくても京都は伝統のある誇り高い土地だから、
保守的で排他的な雰囲気はあるでしょう。
木曽義仲公も大変だったみたいだし、
東国武士というのは質実剛健で素朴なのを売りにしている。

しかし、わざわざ自虐的に、田舎者をあらわす色を
自分たちのチームカラーにするでしょうか?

近藤先生は、愛人をかこっていて、その愛人の妹まで妊娠させたくらいだから、
遊廓でモテなくても不自由はないでしょうが、一般隊士は困る。

浅葱裏という言い方は、江戸だけで言ってたことかもしれないから、
京都の売春婦はあんまり気にしなかったかもしれませんが。

 

 →つづき 

 

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