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新選組の羽織は、本当に
浅葱色だったか? 4

 

  水色もある

最初のページで前述したとおり、
浅葱という言葉がさす色だけでもかなり幅があるんですが、
その浅葱とは別に、
煮浅葱、花浅葱という青っぽい浅葱(緑っぽくない浅葱)や、
錆浅葱、浅葱鼠という濁った浅葱もあることはあるんです。
いずれも、ちっとも薄くないんですが、
これらが広義に浅葱と呼ばれた可能性はある。

『太平記』の中に、「白青」と書いて
アサギ
と読ませている箇所があるんです。
太平記は、軍学の流派では戦訓資料として重視しますから、
ここに書いてあるならば無視できない。

かなり、水色っぽい浅葱があったのではないか。

じつは日本画に「白緑(びゃくろく)」という色があります。

■このくらい

パステルグリーンを白い緑と表記するんだから、
「白青」と書いたら、ネギ色よりも水色の意味に近い可能性が少しは出てくる。
日本語ではアオは緑も含むんですが。

また、縹(はなだ。花田)という、浅葱よりも濃い青があって、
これが前述の『書言字考節用集』では、「青白」だと説明しており、
このへんが混乱した可能性も考えなければならない。

 

  薄くなる

私服姿で勤王志士を斬り殺していたら、
どっちも世間を騒がせている奴にすぎない。
警官も軍人も、職をあらわす制服を着るから、
公的なものになるわけです。
この時代は西洋軍制もだんだん取り入れられているから、
近代軍隊の「おそろいの軍服」という意識もあった。

少なくともパトロール中にずっと着ていると、
日焼けと雨と洗濯で、色が薄くなっていくはずです。

新選組を描いた時代劇で、
古参が新品を着て、古くなったおさがりを新人が着る
というような描写があったのを見た記憶があるのですが、
近代軍隊や暴走族にはそういうことはあります。
アルバイトの制服でもあるでしょう。

実際の新選組がどうだったかは知りませんが、
新人が新品の羽織だったとしても、
死以外に脱退は許されないことになっていたり、一気に増員したりで、
羽織の色の濃さはまちまちのはずです。

素材が麻だとすれば、ますます薄いと考えられる。

ですから、新選組の羽織がたしかに「浅葱」で、
緑っぽくて濃かったとしても、
実際には、かなり薄い水色の状態で使われていて不思議はない。

しかし、浅葱が薄いと、困ることがあるんです。

 

  新選組は、犯罪者集団?

薄い浅葱を「水浅葱」といいます。このくらい。
ちょっと灰色がかっている。
浅葱が日焼けであせたら、ちょうどこんな感じになるはず。

■このくらい

水浅葱は、囚人服をあらわす言葉です。
江戸時代、牢屋の中で着る服の色が、水浅葱だったことから来てます。
時代劇で白州に引き出される人は、たいていこれを着てる。
呉陵軒可有ほかの『誹風柳多留』に
「おやぶんは水浅葱迄着た男」という川柳がある。

伝馬町の牢には、切腹場も設置されていました。
時代劇にもよく出てきますが、伝馬町の牢屋は、町人だけでなく、
武士も収容されていて、武士用の座敷牢があって、
御家人くらいならここに収容されていた。

赤穂浪士みたいに大名屋敷にお預かりになるのは、
かなり身分が高いか、優遇されてる場合です。
つまり、本当にまともな武士なら、脱走しないという前提。

牢内で水浅葱の服を着るということが、武士にもあてはまるならば、
水浅葱で切腹することもあったとすれば、
「切腹の服が浅葱と言ってるわりには絵を見ると白っぽいという問題」
も解決できる
のですが。

たしかに新選組は犯罪者として終わったわけですが、
なりたくてなったわけじゃない!

囚人をあらわす色を、自分たちのシンボルカラーにするでしょうか?
むしろ犯罪者を捕まえる側、京の街をとりしまる警察組織なのに?

 

 ※後日談
相撲の世界では、水浅葱は、だいぶパステルグリーンに近いようです。
平成18年名古屋場所11日目、NHKのアナウンサーが言うには、
十文字さんのマワシが水浅葱で、藍染めの薄いものだとのことです。
うちのテレビで見ると、このくらいでした。

■このくらい

 

 

  赤穂浪士のコスプレ

新選組の羽織のギザギザ模様、入山型の白ヌキは、
赤穂浪士を意識していたと見て間違いありません。

忠義の浪士隊としては大先輩だし、有名でもあった。

現代の少年少女がアニメの格好をマネするように、
忠臣蔵にあこがれて、似た格好をしてみたかったんでしょう。

永倉先生の『新撰組顛末記』に、
「忠臣蔵の義士が討ち入りに着用した装束みたように」

と表現している箇所がある。

 

  忠臣蔵はウソだらけ

赤穂浪士の討ち入りの服装は、入山型の羽織ではなかった。

見とがめられて引き止められないように、
急いで消火にかけつける途中の、火消しに変装した
などと説明されてますが、
それにしても各自バラバラの服装だったことが判明してます。
『義士遺物目録』など資料も残っている。

赤穂浪士のイメージになっているものは、
歌舞伎や講談のデタラメを丸のみにしたものが多いんです。
太鼓なんか鳴らさなかったし、
忠臣蔵という言葉自体が、『仮名手本忠臣蔵』という人形浄瑠璃の題名です。

赤穂浪士を描いた絵は、広重も国貞も国麿も、入山型の羽織に描いてます。
そういうイメージで定着してしまっているのだから、しょうがない。
誰が始めたのかは、よくわかりませんが。

本当の赤穂浪士がどうだったかを、新選組は知らなくて、
農村歌舞伎か何かのイメージに引きずられたか、
あるいは知っていたとしても、
史実よりも劇中の設定のほうが優先というコスプレ感覚か。

ただ、本当に忠臣蔵のマネなら黒にするところを
浅葱にした理由は何なのか、ということです。

 

  質素な色

「白い布は高いから浅葱を使う」という意見があります。

白のままのほうが手間がかからない、
いちいち染めるだけ高くつくんじゃないか?というと、
それはそうですが、少し違う。

出典は忘れましたが、場末の売春婦も浅葱をよく着ていた。
その理由というのが、
最初は薄い浅葱、それが黄ばみやシミになったら
少し濃い浅葱に染めなおし、さらに古くなったらさらに濃い浅葱、
とやっていけば汚れが目立たない
というようなことがおこなわれていたんです。

染めは、淡く白っぽいのもあれば、濃く黒っぽいのもあり、
瓶覗、水浅葱、浅葱、薄縹、次縹、中縹、浅縹、薄藍、濃藍、紺、トメ紺
などといいます。

もちろん、実際に新選組がそうしていたかは不明ですが、
質素なイメージがあるから浅葱にした
というほうが、
まだ、東国武士の誇りにふさわしいと思います。

しかし、それなら僧侶のように
最初から濃くすればよかろうということにもなる。

 

  農民感覚

近藤先生は農民の子に生まれて、道場主の養子にもらわれた。

土方先生はせっかく上野松坂屋に奉公していたのに
女中を妊娠させてしまって店にいられなくなり、
薬の行商人をやっていた。

そのほかのメンバーの多くは、脱藩したりして浪人だった。
浪人は、町人扱いで町奉行所の管轄であり、苗字帯刀こそしてますが、
大商人や豪農だって苗字帯刀しているから、
邪魔なプライドと貧乏だけ損をしていた。

本物の武士ではない人が、「武士よりも武士らしくありたい」と、
ことさらに武士らしくしていたのが新選組です。

清河浪士隊や甲陽鎮撫隊には
ヤクザというか博徒みたいな人もかなり入っている。

厳しすぎる規則でがんじがらめにしたり、
違反した仲間を容赦なく殺しまくったのも、
「士道」ということにこだわったから。

普通の武士だったら、そのままの自分ですでに武士だから、
そこまでしなかったかもしれないが、
まともな武士でない者は、1.5倍くらい武士っぽくしないと、
激動の時代の中でうまく統率しきれなくて、
ただ混乱に乗じただけの乱暴者にすぎなくなる。
そのへんを見事にやったのが、土方先生の偉大さでもある。

武士でない人から見た感覚と、武士の感覚は、かなり違います。
うちの実家は着付教室ですが、
帯の結び方でも、袴の付け方でも、羽織の丈でも、
武士と農民では、かっこよさの基準が全然違うものなんです。
農民が、武士の風習をマネをして、
武士とは少しズレた農民独自の新文化を作ったりもしている。

このへんが、「浅葱裏」「水浅葱」に対する意識がどうだったか
ということにも関係しているかもしれない。

嫌阿弥陀仏『当風辻談義』に
「町人の葬礼に、水浅葱の上下着るを笑ひ」
とある。

町人の感覚では、水浅葱は葬式の色だったわけです。

坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通などは、
みんな武士としてはかなり下っぱの人たちであり、
奇兵隊なんてもう庶民の寄せ集めでやっていた。
武士のうちに入らないような身分の低い人たちのパワーが、
時代を動かして、維新に向かっていた。

その一方で、時代と逆行する人々がいた。
武士になりたかった農民たちが、新選組を指揮して、維新を邪魔していた。
彼らは農民なりに精一杯、武士にあこがれ、コスプレして、
「農民にとっての死の色」をチームカラーにしていた
…ということであれば、
これは武士の時代の終焉として、感慨深いものがあります。

忠臣蔵も新選組も白虎隊も、ただ男達の集まりというだけでは
オタクの女性はファンにならないはずで、
滅びの美学、輝いて死んでいったということが
判官びいきされる大きな魅力だと思うんですよねえ。

 

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