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索引の流名ならびに伝系の表記と、
近似団体の相互位置関係 1

 

 伝系による流名の違い

流派名・団体名は、時間と場所によって呼び分けるべきですが、内容の違う支流が本流と同名で呼ばれている地域があったり、別名の支流が本流の伝書をそのまま使っていたり、活字になったときに複数の異本の異同が相互補完されて、いつのどこの伝書とも言えないものになっている場合もあるため、あまり厳密にやっておりません

そのかわり、同名異流、異名同流、別名旧名、通称俗称、誤字当字、変名偽名、自称僭称、本流支流末流分派、流派ではないが流派名のようなもの、何でもかんでも収録して、何で引いたとしても必ずたどりつけるようにしようと思っています。索引なのだから当たり前ですが。
これは、あまりハッキリしない・させたくないことを書くのにも都合がいいからです。

 

 伝系の定義

このコンテンツではおおむね、伝承地による違いを「」、指導者による違いを「と呼んでいます。
伝馬、伝舎、駅伝、つまり関所とか割符とか「地域」というニュアンスと、系属、系統、系譜、つまり「血筋」に近いニュアンス。
だから、吉田伝と言ったら吉田藩とか吉田村というような場所で代々おこなわれていた地域性の特色、吉田系と言ったら吉田さん以降の継承者たちに特有の芸風、ということです。吉田さんが複数いれば、なに秀系とか、なに右衛門系とか書いてます。

これは俺が勝手にやってる分け方なので御注意ください。世間では、だれだれ伝とか、どこどこ系と言うこともごく普通にあります。

人名で「誰々伝」と俺が言う時は、「その団体名や、その団体独特の特徴が、その人から始まった」ではなく、「この先生が継承する(していた)やり方」という意味で言うことが多いです。このコンテンツでも、そう書いた箇所はあります。

 

 (→)

矢印はそっちに置いてあるという意味であり、必ずしもその読み方が正しいとか、改称の前後とか、正称通称という意味ではないです。
ある流派の通称・別名が他流の正称ということもあるし、同じ流派でも特定の系統・地域に限って別名があったりします。

その流派の伝書かどうか、または読み方や用字に疑問が残るものは「?」、同じものかどうか、関連があるかどうか、確認しがたい場合は「(?→)」、別団体と思われるのにその名で呼ばれた例があるらしいものは「(?→?)」としてありますが、世間一般、伝書以外の文献も含めてのことです。

Aという流派をbさんが継いで、bさんの弟子がB流と名乗った場合、bさんが自分のお考えを書いたものなどは、ABどっちに含めていいのか難しくなる。
bさんは、A流の何代目でもあり、B流の初代でもある。
そのお考えは、bさんの個人的意見なのか、師から習って引き継いだA流の方針なのか、bさんは生前にみずからB流と名乗っていたのか、執筆した時期にB流と名乗っていたのか、それは本気で正式に言ったのか、名乗っていた・いないという証拠があってもA流B流どちら側が提出した証拠なのか、A流とB流では内容にそんなに大きく違いがあるのか、などなど、いちいち確認しなければならない。

 

確認したくてもわからないものもあり、一応わかったつもりでいても、未発見の資料が出て、くつがえったりする。

母体流派と違う流派名がわざわざあるのだから、あるからには、それは尊重しないわけにいかないから、分けます。
区別すべきところ分けてなかったり、その逆、分けかけておきながら不完全だったりするのは申し訳ありません。

今後、訂正していきます。
訂正作業の名残りで、参照先に行ってみたら無かったとか、重複しているというようなことがあるかもしれません。申し訳ありません。

 

 流派の出自

御要望が多かったので、母体団体から支流分流へ移動しやすいように加筆を始めました。まだ作業の途中ですが。

これはあくまでも「蔵書リスト」ですから、持ってないものは無いんで、重要な名門流派がすっぽり抜けていたりもします。
神道流や竹内流や日置流や林崎流などのような大源流に、
これだけしか分派がないかのように誤解なさらないようにお願いします。

 

 母体団体?

たとえば家系は、義光公から逸見家・武田家・加賀見家が生まれ、加賀見家から小笠原家が分かれるわけですが、弓術や馬術は、血筋のとおりには伝わっていかない。

義光公の騎射は武田信光公が継いだそうですが、武田流の理論は逸見家から取り入れたという。

小笠原流は長清公を初代としていますが、政長公のとき武田信光公から習っているという。

逸見家は、武田・小笠原家ほどは騎射で活躍していなかったのが、のちに逸見流という流派になる。
これは逸見俊直先生が始めたんですが、御自身も、その孫も、なぜか小笠原流を習っている。

そして伊勢流・今川流・小笠原流が極意を持ち寄って混ぜて、標準を制定したため、長秀先生以降は、小笠原家の本系でやっていたのは純粋な小笠原流ではなく足利流だともいう。

小笠原家は信玄公に侵されて、弟子の赤沢家が小笠原流を継いだため、現在の小笠原流は純粋な小笠原家ではなく、純粋な小笠原流の技法だともいう。

これらは第三者の研究家がおっしゃってることだから、継承者や御子孫にはまた少し違う歴史観もあるでしょうし、内部だけに伝わった話もあるでしょう。

こうしたゴチャゴチャしたことを、俺ごときが簡単に矢印を引っぱって、この流派からこの流派が生まれたとは、なかなか言いにくいです。
あくまでも、
そっちを参照してくれとか、世間にはこういう説もある、という意味の矢印です。

 

 →つづき 

 

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