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その流派名で本当にいいのか
という問題 1

 

 わざとやってるフシもある

同名異流がおびただしいです。
有名人や名門団体にあやかって、意図的にまぎらわしくしたり。
極意に通じる言葉、たとえば無、夢、心、一、神、水などはみんな好むし、地名や人名からとって偶然似ることもある。
武芸者も同姓同名ばっかりなのだから、流派名も似たり寄ったりです。

 

 家元制が、無いようで有る

直系本流の宗家は、発祥地で流祖の子孫が世襲していたりして、どんなに優秀でも赤の他人は継ぎにくいことがある。
幕藩の指南役として召し抱えられた師範家、つまり公務員として指導者をやるのが家業だった家もある。
実子が幼年でも次期宗家をやらせて、高弟はその後見人になったり、あるいは、高弟が次期宗家になっても宗家実子が成人したら宗家の地位を返したりする。
実子かどうかにかかわらず最優秀者が次期宗家になる流派もありましたが、それでも養子になって、宗家のみょう字と通称(なに兵衛、なに右衛門、なに之助など)は継いだり。
養子にならなくても、内弟子(住み込み)と一般(かよい。道場の資金源)では指導内容が少し違ったり。
「唯受一人」の取り合い(最終極意の継承争い)があったり。
将軍家が宗家嫡流を探して召し抱えたが、採用されなかった系統が納得いかず、老中を通して「宗家の認知願い」を幕府に出したこともありました。
すぐれた高弟が2人いると、次期宗家を継げなかったほうは、道場を出て新団体を作ったりする。
そこまでいかなくても、方針が違って派閥ができるくらいのことは日常的にいくらでもある。
宗家ではない高弟は、代稽古(指導代行や出張稽古)をまかされますが、勝手に弟子を取ると破門されることがある。
破門されて自分の流派を作る人もいる。
自分は皆伝・印可を受けていても、「一代相伝」といって、資格を発行する権利に制限がかかっている人もいる。
自分の師が健在なら自分の弟子にも師から指導を受けさせたり、自分の弟子に与える伝書は、師と自分の連名で発行したり。
「永世免許」というのをもらうと、子孫代々宗家を家業にしていいということだから、宗家(家元としての、本当の意味での宗家)がひとつ増える。

 

というような事情から生まれる、何々流のうちの誰々派。それが誰々流になってしまうことも多い。
世間がそう呼ぶ場合、本人が勝手に名乗る場合、宗家に許されて名乗る場合、本人の死後に弟子が名乗る場合、それがまた、通称なのか正式名なのかよくわからない。
継承したものは変化させずにそのまま次代に伝えつつ、自分は自分で新流をおこし、それはそれで指導するということもあります。
本流の通称が誰々流、新流も正式名が誰々流。

 

 結局、わからない

つまり、流名が変わって、内容まで変わる場合と変わらない場合がある。
主君の命令で改称したり、流祖が時期によって何度も流名を変えていたり。代々流名を変える慣例になっている流派さえありました。
大きな流派だと複数の伝系があり、宗家が同時代に複数いることもよくあります。そしたら、同じ内容やってるのに、藩によって流名が違ったりする。
内容は同じでも解釈や指導法が違うということもいくらでもある。

逆に、内容が変わったのに流名が変わらない場合もある。
独創を加えたり、他流を吸収したり、全部習わないうちに師が亡くなってしまったり。

しかも変更と追加は違う
複数の流派をマスターして、混ぜて総合的に教える人もいれば、混ぜないで別々に教える人もいて、その前者が、新しい流名を作らず、習った流派のうちのどれかを総称として名乗っていたりするとややこしい。

 

 アイデンティティ

こっちが正統だからむこうを何々流と呼ぶなとか、本流とは絶交してるんだから一緒にするなとか、圧力をかけてくる人もいる。そのへんが一番困ります。
悪意や自意識過剰はまだいいとして(よくないけど)、流祖への敬愛、流派の誇り、内容の純粋さ、そういう誠実な理由はもっと困る。
ここが古流の古流たるところだから尊重しないわけにもいかず、しかし
あちらをたてればこちらがたたず
うちのホームページでは勘弁してください。いろんなものの見方がある、それこそ流派のはず。

 

 →つづき 

 

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