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コレクターと武人の分かれ道 2

 

 伝書っていうのは、ここから

和服で和室で正座して書見台で読むなんてのは、ここからの話です。

ここから先は、本を大切にする。

加筆やアンダーラインは、あんまりすべきでないと思う。
つまり、コピーして資料として人に贈るにしても、その本をまるまる譲るにしても、加筆はあんまりよくない。

文化財、貴重な資料として扱ってください。

蔵書印なんか入れて、一体なにが満足されるのか、理解に苦しむ。

 

 きちんと買う

どんなに圧巻で難解でもいいから、一番高いやつ、最も原本に近い決定版を買う。

自分の趣味とか生き甲斐はコレです、と言うならば、こういう出費をケチケチしてはならない。
15巻セット30万とか、冗談じゃなくて、やってください。
そういう買い方をしていると、古くなっても価値が下がらない。
安物の抄訳なんか買うと、結局買い替えなければならなくなる。

 

 原文で読む

古文や日本史の基礎知識があるという意味でも、高校生くらいで、部活か町道場で現代武道をやってて、なにかの分野で段を持っている、という状態で読み始めるのがいいと思います。

読んでわからなくても、わからないなりに原文に触れることは大切です。

「少シク槍先ヲ下ゲル心持チニテ」なんてのを、「少し槍の切っ先を下げます」などと訳しちゃう奴がいますが、現象として本当に下げるのか、実際には下げずに心の中だけで下げて誘い込むような意識を持てと言ってるのか、えらい違いです。
その判断は、読者にさせてもらいたいもんだ。
下げるにしても左手を下げるのか、左手は下げずに右手を上げて切先を下げるのか、左手で握る位置を奥にすることによって切っ先を下げるのか、そのへんは文脈から感じ取ったり、日頃の先生方の動きから刷り込まれるしかない。
他のところを読むと、左手だけを下げることをことさら厳しく禁じていたり、「少し」と「敵が気付かぬほど少し」というのを使い分けていたり、とにかく読んでさえいれば見えてくるものはある。

訳者のせいで、情報が劣化するのは困ります。
また、訳者が実技をやらない文学者だった場合も、他流の達人だった場合も、なんにしても話がゆがんでいることがよくある。
これはずいぶんと気をつけなければならない所です。

初心者の時期に、まちがった意味にとってしまったり、素朴な疑問がわいてきたりすることも、それはそれで、後で貴重な財産になる。
それこそが、先入観にとらわれず定説をくつがえす真実への手がかりになるかもしれない。
いずれあなたは指導者になるか、少なくとも後輩の面倒を見るのだから、どこが間違えやすいかということもできるだけたくさん知っておくといいです。

 

 折にふれて読む

自分がやってることや、師の教えとは、少なからず違うことも書いてあるから、それは、「こういうやり方の人たちもいるのか」、というくらいでいい。

繰り返し読むんですが、この段階では、他流の理論なんて、それほどかじりついて読まなくてもいいし、おぼえなくてもいいんです。
自分の中をくぐらせるだけ。

さしあたり自分に必要なものは、必ず、どこかにひっかかって残る。必要ないものや、おぼえないほうがいいことは、自動的に忘れる。

今の自分に必要な部分は、自然に目に止まる。
パッと偶然開いたページに書いてあったりする。

日頃の稽古で、ここが足りないなあと思っている部分は、自分側がくぼみになっているから、そこへ、ピッタリはまるピースが、ジグソーパズルみたいに見つかる。
さわり続けていれば、ちょうど噛み合うものがカチッとハマる。

自動的なんです。
基本の実技さえ欠かさず続けていれば、あとは武道の神様かなにかが、自動的にやってくれます。
いや、ホントだって!
そうならないようだったら、もう少し、初心者向けの本を使ってたほうがいいかもしれない。

 

 オカルトは少し先送り

オカルトの極意を知るのは、もっと後になってからのほうがいいです。
オカルトを本格的にやるためには、それこそ3歳くらいから始めなきゃモノにならないんですけど(修行年数を長くとるという意味ではなく、幼児の時にしかできない事がたくさんある。Mは小学2年の時にはもう、今の地位が約束されてました。将来そうなる人として、それ相応に育てられてきた)、武術のために密教や気功ということであれば、少し遅いほうがいい。

ちょっと坐禅会を一日体験というくらいだったら、むしろおすすめしますが、いわゆる魔法剣士をめざすのであれば、若いうちは、少しオカルトから距離を置いたほうが、かえって効率がいい。
個人差(生まれつきの性格、運命的な出会い)や、師の方針(武術とオカルトそれぞれの)などもあるけれども、だいたいオカルトは25歳以降というのが一応の線だと思います。

10代後半から20代前半にかけては、せっかく時間もあることだし、体を作ったり、稽古量をかせいだり、徹底的に勝ち負けにこだわるべきです。社会的な常識もまだあんまりない。
そういう時にオカルトがあると…、特に、合宿で、ろくに寝ないで、体力の限界まで猛練習するなんていう時に、オカルトが混ざると、ろくなことがない。
詳細は略しますが、連れていかれる、魔境に落ちる、キツネになるなど、非常にまずいとされている各種の状態になることが、よくあるんです。心の修行が、体や技の修行にくらべて、先行しすぎてしまうということです。

そのへんのこまかい理屈は、いずれ、わかります。
さしあたり、「努力しなくても神秘的な奥義でラクチンに勝てる、というズルい気持ちが生まれる」という理由だけでも、注意してください。

 

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