←戻る 

 

 十二支

龍之介と言えば辰年生まれの次男だったり、生まれ年の十二支を名前につけるということは、よくありました。

霊長たる人間様に、畜生の名前をつけるなんてヘンですが、虎ぐらいだったらともかく、卯之吉とか巳之介とか、必ずしもかっこいい動物でなくても多く使われているのは、その年に生まれたということを記念してるわけです。

あるいは、親が阪神か中日か競馬のファンだったり。

 

 改名

昔は年齢と職業によって何度も改名したので、丁稚の源太と、手代の源吉と、番頭の源兵衛と、主人の伊勢屋源左衛門が、みーんな同一人物だったなんてことがあります。

改名したら、しばらくは「近藤勇 改メ 大久保大和」というふうに名乗らないと、誰だかよくわかりません。

日本の識字率は昔から世界一ですが、当字も多くて、同じ人が同時期に寅蔵と虎三だったりします。
本人もまちまちに書いていたりする。

現代では、戸籍上の名前を変えるには裁判所の許可がいるんですが、苗字は変えにくい。
でも、島田一(しまだ・はじめ)という人が、「しま・でんいち」とふりがなをふって申請し、島浩一(しま・こういち)になるというような裏技があるそうです。

みょう字は、精一杯生きた代々の(数え切れないほどたくさんの)御先祖の人生であり、下の名前は親の愛情ですから、そう簡単に否定していいことではない。
手術で顔を変えることよりも慎重であってほしいと思います。

 

 パクリ名

有名人にあやかることは、おすすめしません。

昔、総理大臣にちなんで田中角栄と名付けられた子が、ロッキード事件がおきたために行く先々で嘲笑を受けるので、改名してニュースになりました。

普通に生活していても、同姓同名で迷惑することはあるかもしれないのに、わざわざやるこたあない。

偉大な人なら、なおさら、レプリカはみっともないことです。
あなたが信奉するからには、ほかにもファンはたくさんいる。
ジョンレノン小林とか、沼津のピカソとか、心酔する人の名を勝手に使って音楽や美術をやってる人もいますが、これはオリジナリティが無くて二番煎じに終始しているという自己否定であり、芸術の世界ではバカにされるので注意してください。

小林幸子さんは「第二のひばり」と評価されたせいで、美空ひばり支持者からひどくイジメを受けましたが、こういう肩書は、美空ひばりさんに失礼なんじゃなくて、小林幸子さんに失礼です。

ものまね芸人はマネが芸ですが、それにしても自分独自のネタやノウハウを持ってらっしゃる。
何かを創作表現する人や、人気商売の人にとって、「ほかの誰でもない自分、オンリーワン」という存在意義は、一番重要なことです。
熊田曜子さんに似ているとか(笑) 似ててどうする。そういうコバンザメ根性では、ネガティブすぎる。

 

 後付けできるもの

足利尊氏氏とか、アグネス・チャンちゃんとか、北野大大先生とかは、よく言われている冗談ですが、後付けできるものは選択肢を広くとったほうがいいかもしれません。

頭のいい子に育ってほしいという思いを込めて、博士と書いてヒロシにしたとする。
この子が学士どまりで一生を終えると悲しいし、博士号をとれば博士博士になる。
かつて、ドイツやチェコでは、博士号を複数持っている人は、博士博士博士教授などと、みずから名乗ることがおこなわれていました。
これは騎士道文化の本では、鼻もちならない奴、滑稽な奴とみなされている。

 

 

 

道ばたで喧嘩になった時、「俺の父親はケンジだ(または、ケイジだ)!」と叫ぶと、検事、刑事と勘違いして、相手がビビるという冗談があります。
名前はケイジだが交番勤務とか、名前はケンジだが弁護士だというのは、それはそれで面白いキャラかもしれませんが。

もし、あなたが博士や検事や刑事だということを記念して、お子さんの名前を博士やケンジやケイジにするというのなら、よしたほうがいいかもしれない。
跡を継がせるかどうかは関係なく。

昔、カローラのフロントグリルだけメルセデスベンツにした改造車というのがありました。
メルセデスが好きなんでしょうが、だったらメルセデスに乗ればいいのに、なんか痛々しい。
サニーに乗ってて、キーホルダーだけポルシェとか。

高校野球か何かの選手で平八郎忠相とかなんとか長い名前の人がいて、珍しがられたことがありました。
字(あざな)や武号は後付けできるので、無理に最初からつけると、親としては悦に入っても、お子さんとしては珍奇すぎて恥だと思うかもしれない。

 

 幼名

一人前の武士になる前の、元服(成人)までの仮の名です。
竹千代とか梵天丸とか。

この家では代々、長男はつねにこの幼名という慣例もあって、これは側室がたくさんいたり、跡継ぎを人質として預けたりということと関係あります。

幼名は、呪術的な意味が強い。
産まれた子が病弱だった場合などに、本名とは違う名前で呼ぶということは、現在でも地方ではおこなわれています。

魔物にさらわれないように、子どもの時だけ別名で呼んだり、男の子なのに女の服装をさせたりということも世界中にあります。
女の子のほうが抵抗力があって丈夫だということにあやかるわけですが、これは迷信だけではなくて、跡継ぎ争いで暗殺とか、親が敗将で子どもも処刑されるとか、飢饉のせいで子どもを殺す「間引き」の場合、女の子はまぬがれるということです。

幼いうちは神様、または神様の世界に属している、という考え方もありました。
子どもさんというのは無垢で罪がなくて天使のようにかわいいという意味と、子どものうちは魂が安定していない、まだ、この世の人間ではない、だから、幼い子どもは間引きしても殺人にあたらない、堕胎のようなもので、神様の世界にお返しするだけだ、という間引きの罪悪感の緩和。

 

 末っ子

間引きというのは堕胎だけではなく、生まれた赤ちゃんをも殺すという、残酷なものです。
「つぶす」「食い扶持を減らす」「口減らし」などとも言われた。
障害者の排除でもある。

時代劇では、親戚や御近所から強要されて、しかたなくやっていたりする。
昔は避妊がいいかげんだったので。

末男とかトメという名前は、これで最後にする、この子だけは許してくれという、子の命を守りたい親の気持ちが込められていたりするわけです。

 

 子ども

余談ですが、教育関係者の間では、「子供」ではなく「子ども」と表記することになってます。
コドモのドモは単なる複数形ですが、これを供と書くと、家来・人身御供(ひとみごくう。いけにえ)・間引きなどの意味が付属するという理由です。

俺にこのことを教えてくれた人は英語の先生でしたが、チャイルドとチルドレンの語源にも関連づけて、なんかいろいろとウンチクがあるようです。
昔の人は「子共」と書いてることもあります。

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送