もどる← ヤーカヴリェフYak-7か? イー18 (И─18) 單座驅逐機 最大速度 航續距離 武 裝 翼 長 約一〇米 「ツェー・カー・ベー」十九型ニ酷似スルモ異ナル所左ノ如シ 一、冷却器ヲ發動機下面ニ裝ス 二、主翼ト胴體トノ整形部小ナリ 三、胴體上部ハ座席覆ニ依リ段ヲナシ胴體ノ後部ハ狭搾ス
I-18というのは、I-180のことらしいんです。 本書の図を見ると、あきらかに液冷を積んでます。 MiG-1やMiG-3よりも座席が前にあり、キャノピーはバブルではなく、胴体後部の横幅が狭く、20ミリ1と機銃2、速度570、全幅10。
本書に掲載されているものは、キャノピーのガラス面が垂直に終わって胴体後部になり、そして決定的なのは、主翼と胴体の接合部が小さい云々。 …ということは、たぶんYak-7です。 ただし、気になることが4つ。 Yak-7はごく短期間に一気に大量生産された飛行機ではあるのですが、開発は41年8月。 Yakシリーズは水平尾翼が高い。 本書では、冷却機がエンジンの下にあると述べているのですが、図では、機首下にオイルクーラーの空気取入口がなく、あるのは胴体下のラジエーターだけであって、それも、エンジンの下というより風防の真下あたりで、機首下部はYak-7よりもスマートに描かれてます。 そもそも、これがYak-7だとすれば、どうしてI-18という名前で掲載されたのか。
ヤーカヴリェフ設計局は、いわゆるヤコブレフ。第115設計局。 戦後は軍用機ではあまりパッとしなかったものの、ヘリコプターからジェット旅客機まで何でも設計した。
38年11月ごろから、Bf109やスピットファイアを手本にして液冷戦の開発を始め、Ya-26というのを作った。 そのあと冷却器を胴体下に移動したI-26というのを3機作って、40年1月13日に初飛行。 I-26はYak-1に発展し、40年のメーデーにはモスクワで公開飛行している。 Yak-1は、ソ連の最新鋭機ではあったのですが(というより、この時代にI-15系&I-16がまだ現役ということのほうが、どうかしてる)、最初のうちは完成度や信頼性が低くて、あんまり使い物にならなかったらしい。
もともとヤーカヴリェフさんは練習機を作ることが多かった人で。 41年8月、I-27の後席をつぶして単座に戻し、戦闘機にして実戦に出せという命令が出る。 エンジンは「VK-105PA」、最初だけ「VK-105」だったという説もある。 練習機から戦闘機が派生した珍しい例。 このあと、I-27からの改造ではなく、最初からYak-7として生産されるようになる。
尾輪を半引込にするなど改良を加えたのがYak-7A、42年元日から生産。 エンジンを「VK-105PF」にして、ShKASをUBSに強化、主翼形状を変えて爆弾架を設置したのがYak-7B、後期型ではキャノピーもバブル型に変更。 Yak-7Bの後期型を、エンジンは「M-105PD」、武装はShVAK×1だけにしたのが、Yak-7PD。 桁を全金にして軽量化と航続距離を求めたのが試作機Yak-7D、その改良型がYak-7DI、これがYak-9へと発展していく。 ふたたび複座に戻した連絡機仕様が、Yak-7K。 ShVAKをMPSh-37に替えたのが、Yak-7-37。 一説にはNS-45を積んだ試作機Yak-7Tというのがあったとか、Yak-7TはYak-7-37の別名だという説もある。 空冷化した試作機がYak-7M-82、エンジンは名前のとおり。性能が期待外れで試作1機のみ。 ラムジェット実験機Yak-7PVRD、ロケット実験機Yak-7ZhRD、その両者のバイブリッド的なもの、ターボジェット実験機Yak-7Rというのもあった。
41年から42年の間に、Yak-7は、6399機も作られました。
この画像に意味はありません。区切り。
ここから、I-180の話です。
まず、試作機が3機あったという説と、5機あったという説がある。 I-16を改良して、I-180の1号機を作った。I-180-1。おそらく38年。 2号機は、主翼を延長、全幅が1メートルほど増えた。I-180-2。38年。 3号機は「M-88」、一説には「M-88R」。
これらが、うまくいかなかったために、パリカールパフさんは失脚してしまう。 38年12月15日、I-180の1号機は、初飛行でいきなり墜落。 しかも乗ってたのがヴァレリー・パーヴロヴィチ・チャカロフさん。 操縦のうまい人でさえ扱えないI-180は、どんだけダメな飛行機かってことだし、プロパガンダの材料を失ったうえに国威まで落ちて恥をかいて、二重三重にまずい。 I-180の2号機も落ちた。 3号機も落ちた。
最初の試作3機のほかに、追加発注が10機あり、これは試作機の追加だとか、実用試験のための先行生産分だとか、諸説ある。 5号機は、「M-88A」、のちに「M-89」に載せ替えたとか、直噴エンジンで時速650キロくらい出したとかいう話もある。これが最後の試作機で、I-180-5というらしい。 「3号機(どの3号機か不明)」の主脚を改良したのがI-180Sh、この仕様で生産を始めてI-180Sと呼んだが、やっぱり操縦が安定しなくて事故を起こしたので、3機で生産中止になった、とかいうのだが、どれのことだか全然わからない。 先行量産10機のうちの3機が、試作3機のうちの3号機を手本にしたのか。 てゆーか、こんだけダメダメな失敗作が、どうして中止にならずに実験が続くのか(この後も続くのだ…)、なんでスターリンがおとなしく黙ってるのかが、そもそも最大の謎ではある。
もっと大出力にしたI-185というのもあって、40年ごろ初飛行。 I-185は、「M-90」2080馬力が調達できなかったので、「M-81」1600馬力を積んだら欠陥品だったり振動が発生したりで結局ダメで、18気筒2000馬力の「M-71」と、14気筒1700馬力の「M-82」(おそらく「M-82A」か)で2機ずつ作ってみて、前者は事故で1機落ち、後者は振動はおさまったらしいが馬力がなく、それに、La-5やTu-2の生産を優先するのでM-82は手に入りにくかったらしい。
I-185を改良したI-190というのも作った。なんと複葉、なぜか39年。 また、これから作る予定として…、
パリカールパフ設計局は、第1工場でやっていたのが、第51工場へ移転させられる。 本書が発行された3か月前、独ソ戦が始まってます。 パリカールパフ設計局は、山脈のむこうのシベリアまで疎開して、ノボシビルスクでやってました。
本書が発行された年、いきなりFw190が登場し、スピットファイアをケチョンケチョンにします。 しかし、空冷なんて頭デッカチなものは速度が出るわけがないという俗説があったらしく、それをさらに複列のデカッ鼻にするなんてことは、ソ連ではあんまりウケなかったみたいで。 どっちみち44年の夏には、パリカールパフさんが食道ガンだか胃ガンだかで亡くなり、パリカールパフ設計局も廃止になりました。
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