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 ヤーカヴリェフYak-7か?
 …どう見てもI-180ではないと思うが

 

イー18

(И─18)
なんだ、Иという活字を使ってるじゃんかよ。
ここまでのページのNは誤字だったわけだ。

單座驅逐機

諸元及性能
識別上ノ特徴

最大速度
  約五七〇時粁

航續距離
  不明

武  裝
  機關銃  二
  二〇粍砲 一

翼 長 約一〇米

「ツェー・カー・ベー」十九型ニ酷似スルモ異ナル所左ノ如シ

一、冷却器ヲ發動機下面ニ裝ス

二、主翼ト胴體トノ整形部小ナリ

三、胴體上部ハ座席覆ニ依リ段ヲナシ胴體ノ後部ハ狭搾ス

 

 

I-18というのは、I-180のことらしいんです。
しかし空冷ですI-180は。

本書の図を見ると、あきらかに液冷を積んでます。
機首はとんがってて、V型エンジンの排気管まで並んでる。

MiG-1やMiG-3よりも座席が前にあり、キャノピーはバブルではなく、胴体後部の横幅が狭く、20ミリ1と機銃2、速度570、全幅10。
このスペックはLaGG-3に似ているのですが、LaGG-3は20ミリ1と機銃3〜4なんですよね、41年のは特に。
それに、LaGG-3だったら、もっとズン胴だと思うんですが、本書のはカツオみたいな紡錘形の胴体です。

 

本書に掲載されているものは、キャノピーのガラス面が垂直に終わって胴体後部になり、そして決定的なのは、主翼と胴体の接合部が小さい云々。

…ということは、たぶんYak-7です。

ただし、気になることが4つ。

Yak-7はごく短期間に一気に大量生産された飛行機ではあるのですが、開発は41年8月。
本書の発行が41年9月、間に合うものかどうか。
Yak-1は40年5月にはデモ飛行で見せびらかしているのだから、Yak-1の図を元にすれば、Yak-7を掲載できるかもしれませんが。

Yakシリーズは水平尾翼が高い。
本書の図では、そんなに高い位置に描いていません。

本書では、冷却機がエンジンの下にあると述べているのですが、図では、機首下にオイルクーラーの空気取入口がなく、あるのは胴体下のラジエーターだけであって、それも、エンジンの下というより風防の真下あたりで、機首下部はYak-7よりもスマートに描かれてます。
ソ連機の下面はたいてい明るい水色(学校のプールの底みたいな色)に迷彩されるので、雪や雲を背景にした白黒写真だったら、どうなってるかよくわからなかったりするかもしれないですが。

そもそも、これがYak-7だとすれば、どうしてI-18という名前で掲載されたのか。

 

ヤーカヴリェフ設計局は、いわゆるヤコブレフ。第115設計局。
アレクサーンドル・
スィルギェーイェヴィチ・ヤーカヴリェフさん。
実家が金持ちだったので飛行機模型で腕を磨き、18歳でイリユーシンさんの推薦で空軍大学研究室の職工のようなものに就職し、27年に軽飛行機で実力が認められて入学、31年に卒業、パリカールパフ設計局の監督官を経て、34年に自分の設計局を持った。
戦時中はパリカールパフにとって代わる優秀な戦闘機を次々に作り、通称ヤークといえばソ連戦闘機の代名詞にもなりました。

戦後は軍用機ではあまりパッとしなかったものの、ヘリコプターからジェット旅客機まで何でも設計した。
冷戦期には、どちらかといえば軽戦闘機のミーグ、戦闘爆撃機のスホーイに対して、ヤーカヴリェフは、米爆撃機を迎撃することに特化した重戦闘機を担当することが多かった。
垂直離着陸機(の失敗作)なんかも作り、貧乏と条約で空母が持てないソ連に、対潜航空巡洋艦という「なんちゃって空母」をもたらすことにも貢献した。

 

38年11月ごろから、Bf109やスピットファイアを手本にして液冷戦の開発を始め、Ya-26というのを作った。
この時は、冷却器が主翼にあってダメダメだったらしい。

そのあと冷却器を胴体下に移動したI-26というのを3機作って、40年1月13日に初飛行。

I-26はYak-1に発展し、40年のメーデーにはモスクワで公開飛行している。
41年5月なかばから配備。
エンジンはクリーモフ「VK-105P」一説には「M-105PA」、武装はモーターカノンShVAK×1、ShKAS×2、100キロ爆弾×2。
42年には、爆弾のかわりにRS-82×4(一説には6)を積んだものもあったという。

Yak-1は、ソ連の最新鋭機ではあったのですが(というより、この時代にI-15系&I-16がまだ現役ということのほうが、どうかしてる)、最初のうちは完成度や信頼性が低くて、あんまり使い物にならなかったらしい。
このあと少しずつ改良を重ねながら、43年までに8721機だか8734機だか大量生産されました。

 

もともとヤーカヴリェフさんは練習機を作ることが多かった人で。
Yak-1を複座にして、練習機I-27を作った(のちにUTI-26だか、Yak-7UTIだかに改名)。
41年に初飛行。
練習機だから扱いやすい機体にするのはもちろんですが、複座に改造したことによって機体のバランスが大きく変わって、たまたま欠点を改善する結果になり、ものすごく扱いやすい飛行機になった。
そうでなくてもドイツに攻め込まれていて、戦闘機はどんだけあっても足りない。

41年8月、I-27の後席をつぶして単座に戻し、戦闘機にして実戦に出せという命令が出る。
そのように改造したところ、これがまた、思いのほか高性能に仕上がった。
…というのが、Yak-7です。

エンジンは「VK-105PA」、最初だけ「VK-105」だったという説もある。
武装はShVAK×1、ShKAS×2。一説にはRS-82×6も。

練習機から戦闘機が派生した珍しい例。
三菱T-2は最初からF-1を作る前提で設計しましたからね。

このあと、I-27からの改造ではなく、最初からYak-7として生産されるようになる。

 

尾輪を半引込にするなど改良を加えたのがYak-7A、42年元日から生産。

エンジンを「VK-105PF」にして、ShKASをUBSに強化、主翼形状を変えて爆弾架を設置したのがYak-7B、後期型ではキャノピーもバブル型に変更。

Yak-7Bの後期型を、エンジンは「M-105PD」、武装はShVAK×1だけにしたのが、Yak-7PD。

桁を全金にして軽量化と航続距離を求めたのが試作機Yak-7D、その改良型がYak-7DI、これがYak-9へと発展していく。

ふたたび複座に戻した連絡機仕様が、Yak-7K。

ShVAKをMPSh-37に替えたのが、Yak-7-37。

一説にはNS-45を積んだ試作機Yak-7Tというのがあったとか、Yak-7TはYak-7-37の別名だという説もある。

空冷化した試作機がYak-7M-82、エンジンは名前のとおり。性能が期待外れで試作1機のみ。

ラムジェット実験機Yak-7PVRD、ロケット実験機Yak-7ZhRD、その両者のバイブリッド的なもの、ターボジェット実験機Yak-7Rというのもあった。

 

41年から42年の間に、Yak-7は、6399機も作られました。
鶴の一声と恐るべき生産力、短期間にドバッとやるのがソ連の恐ろしいところ。

 

 

 この画像に意味はありません。区切り。

 

 

ここから、I-180の話です。
I-180は、これまたI-16の後継機を作ろうとして難航したもの。
いわばI-16の星形複列仕様。
パリカールパフ設計局の、トマシェヴィチさんという人が担当したらしい。

 

まず、試作機が3機あったという説と、5機あったという説がある。

I-16を改良して、I-180の1号機を作った。I-180-1。おそらく38年。
エンジンは「M-88」。

2号機は、主翼を延長、全幅が1メートルほど増えた。I-180-2。38年。
エンジンは「M-87A」、一説には「M-87B」。
これが、なぜか、I-180-3に改名したという説もある。

3号機は「M-88」、一説には「M-88R」。
ここで初めて、武装を積んでテストしてみたらしいが、縦安定が悪くて尾翼を何度も変更。
これがI-180-3だとか、そうじゃないとか。

 

これらが、うまくいかなかったために、パリカールパフさんは失脚してしまう。

38年12月15日、I-180の1号機は、初飛行でいきなり墜落。
エンジンが停止して、不時着できずに倉庫に突っ込み、テストパイロットは死亡。

しかも乗ってたのがヴァレリー・パーヴロヴィチ・チャカロフさん。
チカロフ、チュカロフなどと表記されてることもある。
I-16やI-17などもずっと、この人がテスト飛行を担当してたらしいんですが。
この人は、長距離飛行の分野で世界的に知られた英雄、本当に英雄の称号をもらってた。
勲章のページに書きましたが、ソ連には英雄っていう肩書があって、国民的ヒーローなんですよね。
37年に北極越えでアメリカへの最短距離の空路を開拓するというんで、恐れ多くも「スターリン空路号」なんてのを大々的に3機飛ばして1機は落ちたが、成功した2機のうち、初回に飛んだ1番機(トゥーパリェフANT-25の3号機。じつはスホーイさんの設計)の機長をつとめた人、というか操縦士・副操縦士・航法士の3人乗りだった。

操縦のうまい人でさえ扱えないI-180は、どんだけダメな飛行機かってことだし、プロパガンダの材料を失ったうえに国威まで落ちて恥をかいて、二重三重にまずい。
そうでなくても、短気な独裁者が国家元首やってやがるから。

I-180の2号機も落ちた。
39年9月5日、オイル系のトラブルで失速して制御不能になり、トーマス・P・スウジさんとかいうテストパイロットは脱出したが、低空すぎて、パラシュートが開くのが間に合わなかった…。

3号機も落ちた。
どうしても機体が安定せず、やっぱり制御不能になって、パイロットは脱出した。

 

最初の試作3機のほかに、追加発注が10機あり、これは試作機の追加だとか、実用試験のための先行生産分だとか、諸説ある。
この10機のうち、1号機は着陸脚が壊れて大破、離陸時だったとか着陸時だったとか諸説あるが、試作3機のうちの1号機の話とごっちゃになってるようでもある。
4号機も制御不能になって墜落。
残りの8機は実戦参加したらしく、41年12月にBf109と互角に戦った記録があるという。

5号機は、「M-88A」、のちに「M-89」に載せ替えたとか、直噴エンジンで時速650キロくらい出したとかいう話もある。これが最後の試作機で、I-180-5というらしい。
ということは、追加10機のうちの少なくとも1機は、I-180-4と呼ばれた別ヴァージョンだったのか?

「3号機(どの3号機か不明)」の主脚を改良したのがI-180Sh、この仕様で生産を始めてI-180Sと呼んだが、やっぱり操縦が安定しなくて事故を起こしたので、3機で生産中止になった、とかいうのだが、どれのことだか全然わからない。

先行量産10機のうちの3機が、試作3機のうちの3号機を手本にしたのか。
それとも、「3号機」というのは先行量産10機のうちの3号機か。
最初のやつも含めてI-180Shは全部で3機という意味であれば、追加で作ったI-180Shは、あと2機? だとすれば、試作機が5機あったという説は、最初の3機と、この2機ということか。

てゆーか、こんだけダメダメな失敗作が、どうして中止にならずに実験が続くのか(この後も続くのだ…)、なんでスターリンがおとなしく黙ってるのかが、そもそも最大の謎ではある。

 

 

もっと大出力にしたI-185というのもあって、40年ごろ初飛行。
主翼を直線テーパーにして、性能はとても良かったものの、5機だか6機だか試作しただけ。
実戦投入もしたらしく、パイロットに大絶賛されたという。
武装はShVAK×3、爆弾500キロまたはRS-82。

I-185は、「M-90」2080馬力が調達できなかったので、「M-81」1600馬力を積んだら欠陥品だったり振動が発生したりで結局ダメで、18気筒2000馬力の「M-71」と、14気筒1700馬力の「M-82」(おそらく「M-82A」か)で2機ずつ作ってみて、前者は事故で1機落ち、後者は振動はおさまったらしいが馬力がなく、それに、La-5やTu-2の生産を優先するのでM-82は手に入りにくかったらしい。

 

 

I-185を改良したI-190というのも作った。なんと複葉、なぜか39年。
エンジンは「M-88」、のちに「M-88R」、「M-88A」に替えたという。最高速度488キロ。
武装はUBS×2、ShKAS×2。
1機しか作られず、たびたび不時着してたびたび破損して、とうとう直せないほど破損したという説と、実戦に参加しているという説がある。

また、これから作る予定として…、
「M-71F」2200馬力を積んでバブルキャノピーにしたI-187、
どうしても「M-90」を載せたI-188、
I-190に排気タービンを追加(I-190の2号機)、
I-185の改良型(というよりI-153の強化型らしくて複葉)で「M-71」系のI-195
…というようなものが、計画だけはあったようです。

 

パリカールパフ設計局は、第1工場でやっていたのが、第51工場へ移転させられる。

本書が発行された3か月前、独ソ戦が始まってます。
軍需工場もウラル山脈まで疎開、引っ越しのため開発も生産も止まってしまう。

パリカールパフ設計局は、山脈のむこうのシベリアまで疎開して、ノボシビルスクでやってました。
I-180の失敗のせいで左遷されたという説と、I-180がどうであろうと戦争のせいで引っ越したのであって、I-180の設計や実験も疎開先でやってたという説がある。

 

本書が発行された年、いきなりFw190が登場し、スピットファイアをケチョンケチョンにします。
液冷ばっかり作ってて上手でもあるドイツでさえ、生産性と扱いやすさのためには空冷戦を作る。
ソ連としても、空冷も一応やってみようとは思ってたでしょうね。

しかし、空冷なんて頭デッカチなものは速度が出るわけがないという俗説があったらしく、それをさらに複列のデカッ鼻にするなんてことは、ソ連ではあんまりウケなかったみたいで。
また、ミクーリン設計局の活躍で、液冷エンジンの国産が実現して、液冷でいこうという話になる。
I-153&I-16のあとのソ連の主力戦闘機は、どちらかといえば液冷です。

どっちみち44年の夏には、パリカールパフさんが食道ガンだか胃ガンだかで亡くなり、パリカールパフ設計局も廃止になりました。

 

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