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 パリカールパフI-16(И-16)
 パリカールパフI-16P(И-16
П

 

イー16
(N─16)
くどいようですがИです。
單座驅逐機

イー・ペー
(N.II)
ペーならПのはずですが、文字がかすれているのか横棒がない。
それと、(N-16)よりも活字が小さい。
單座襲撃機

諸元及性能
識別上ノ特徴

最大速度
  約四五〇時粁
型によってまちまちだが425〜470くらい。

航續時間(距離)
 約二時間(七〇〇粁)
417〜680キロ?、後期型はみな400台。

武  裝
 固定機關銃
     二-四

I-16bisのページを御覧ください。

上昇速度
  五、〇〇〇米ニ約六分
6.1分という説あり。

翼  長 約九米
  旋囘性能不良 

一、型及爆音共ニ宛ラ虻ノ如キ感アリ
虻に「アブ」とルビ。

二、低翼單葉ニシテ三角形ニ近ク胴體太ク短カシ

三、上反角殆ドナシ

四、尾部ノ深度大

五、内方引込脚、速度大

本機ハ兩翼内ニ二十粍機關砲各ゝ一ヲ裝備シテ襲撃機トシテモ使用シツツアリ

爆弾四八-六十瓩搭載スル場合アリ

 

 

有名なI-16です。
ペーのほうは、I-16に20ミリを積んだI-16P。

 

パリカールパフさんは、I-15とI-16を、対というか、ほぼ同時に作った。
そして、両方とも採用されて、一国の主力戦闘機になって、大量生産されたというのは、珍しいことだとは思います。

I-16は、木製モノコックに一部は鋼管や羽布、片持ち単葉の低翼、レーサー機なみの寸胴、人力とはいえ世界初の引込脚実用化、当時は世界トップクラスの高速。 

スペイン内戦における評価はバラバラです、I-15もI-16も。
I-15では苦戦した、だからI-16を出した、そしたら(その時だけですが)人民戦線側が一気に優勢になったっていうんですよね。
I-16は、少なくともフィアットCR-32に対しては圧勝だったという。格闘から一撃離脱の時代になっていくわけです。

 

I-16の初飛行は、33年の12月30日だか31日だか。
34年暮れには国内に配備したという説と、35年から本格的な生産が始まったという説がある。

スペイン内戦には、36年9月に送ったという説と、37年の暮れに戦場に登場したという説がある。
スペイン内戦が始まる前からあった飛行機なのだから、このチャンスにI-16の実戦テストもやりたいので、I-15がどうだろうと、どっちみち出したんじゃないでしょうか。
I-15が苦戦してもしなくても、苦戦したということにしておいたほうが、I-16を出しやすかったとか?
「尊い人命をこれ以上失わせないため、戦争を早く終わらせるため」とか言って原爆を落とすのなら、なんで2発目はプルトニウム型なんだよ、ちゃっかりデータを取りやがって!というような。

一説には、I-16は475機ほどスペインに送ったらしい。
おそらく、登場した時だけは、活躍したこともあったのだろうと思います、それはどんな兵器でもそんなもんです、敵が慣れてないから。

スペインで使ってみて判明したI-16の欠点は、火力不足、主翼の構造的欠陥、縦安定の悪さ、防塵対策の不備、冷却不足(ソ連ではよくても南国スペインでは)、後ろから撃たれて座席の背もたれを貫通することなど。

 

エンジン音が耳障りだったようで、本書ではアブにたとえて表現してます。
「旧日本軍はI-16をアブというあだ名で呼んでいた」などと断言している人がよくいるのですが、この話の出どころが、俺は未確認です。
父の周囲では、誰もが「イ、じゅうろく」と呼んでいて、アブとは言わなかったそうです。

雄略天皇が狩りをしていたら、天皇の椀にアブが取り付いたのを、ただちにトンボが飛んできてアブをくわえて飛び去ったので、このトンボの手柄を記念して、大和の国を蜻蛉島(あきづしま。秋津洲)と名付けたというような話が、『古事記』にある。
ハチなら強くて有益ですが、アブには、あんまりいい印象ないですね。

 

スペインでは、人民戦線側からは「モスカ(蠅)」、国民戦線側からは「ラータ(ネズミ)」というあだ名をつけられた。

ハエにたとえるのも、アブ同様、ずんぐりした機体とエンジン音でしょう。

ネズミと名付けたのは、I-15をネコと呼んだことと対になってると思うんですが、足の速さから来たんでしょうか。
スペインでは、ネズミもネコも、すばしっこい、コソドロ、スリ、かっぱらい、というニュアンスはあるようですが。

「ラータはウサギの意」とかデタラメを言う人もいますが、スペイン語でウサギは、コネッホかコネホのはず。

 

「I-16はスペイン語ではモスカ、ドイツ語ではラータと呼ばれた」という説もあるのですが、これも納得いきません。

ドイツ語では、イエネズミならラッテ、複数形でラッテン、古語でラトかラッタ、方言でラッツェ、デンマークなまりでロッテ、そして、ハツカネズミならマウス、厳密に発音するとたぶんマオス、複数形でモイゼ、ネズミちゃんというくらいのニュアンスでモイスヒェンかマウジー、古語寄りでムース、オランダなまりでもモイスのはず。

そもそもナチスドイツには、ラッテとかマウスっていう巨大戦車の愛称があったでしょ。

未完のドイツ戦車「ラッテ」のことを、ラーテと書いてる人もいるけど、これもおかしい。
ドイツ語でラーテは、分割払い(rate)だ。
これはこれで、もしかして意味をかけてるとすれば興味深いけれども。

敵側(というよりドイツ)が、I-16にあだ名をつけた可能性も、たしかに可能性としては考えなきゃいけない。
兵器は、拿捕して敵のを使うこともあります。
I-15もI-16も、SB-2などもそうですが、国民戦線側でも使ってます、塗装を塗り替えて。

しかしラータは、あきらかにスペイン語に聞こえる。

俺は『ドンキホーテ』が子どもの頃からの愛読書なんですが、劇中の会話に、サンチョが『わしの給金からガータ引きするのを』、これを受けてドンキホーテが、『ガータ(猫)も時には、ラータ(鼠)ほどに通用する』、という言い回しがあり、岩波版ではここに訳注して、「Pro rata(取るべき、または払うべき割合で)」というラテン語の慣用句があったとしている。
I-15はgatoでしたが、あれはオス猫。ラテン系の語尾ですから、gataは女性形。

 

スペインでは、I-16は「ボーイング」というあだ名もつけられたそうですが…、
そういうことがあったとすれば、おそらくI-16はボーイングではなく「カーチス」と呼ばれたんじゃないだろうか、という俺の仮説はI-15のページに書いたとおり。

ソ連軍の内部では、イシャクというあだ名もありました。ロバの意。
ロシア語のI-16(イー、シヂスャート)と、音が似ていたため。

 

39年には、ノモンハン事件が起こります。
ここでもI-16は、九七式戦にバタバタ落とされました。
旧日本軍は支那事変で鍛え抜かれた熟練パイロットたち、ソ連は実戦経験のない2流のパイロットだったせいもあるらしいんですが。
この時代のソ連のパイロットの手記に、上官の指揮がヘタクソすぎて困るということが書かれているそうです。
しかし、スペイン帰りのパイロットを投入し、格闘を避け、速度を生かして一撃離脱するようになり、ノモンハン事件の後半のほうでは、そう簡単には落ちなかったようです。
日本は、こういう高速の重戦闘機がほしくなって、鍾馗を生産することになる。

『紅の豚』をうちの父に見せたところ、冒頭のシーンで第一声で「短い!」と言い、「このように胴体が短いものは、安定が確保できたとしても、見た目にカッコ悪すぎてパイロットが耐えられない。飛行機は、操縦する人の気持ちも乗せて飛んでいる。士気にかかわる。もっと余韻を引いて飛ばなきゃダメだ」とのことでした。
あの流麗なS.21でさえそうなら、I-16は、よっぽど醜いと思われたんじゃないでしょうか。
いま我々が見ても、まあドン臭い飛行機ですが、当時の大日本帝国陸軍の目には、我々が想像する以上に、不格好に見えたのではないかと。

 

41年からは独ソ戦です。
ルフトヴァッフェの評価というのも極端にまちまちですが、ドイツはエースパイロットが多かったのは確か。
エースというのは5機撃墜した人のことですが、ドイツの場合、2ケタくらいは当たり前で、100機も200機も一人で落としてる人がゴロゴロいて、その戦果はほとんどが東部戦線での成績です。
I-15系やI-16は、Bf109の名を高める「やられ役のザコ」として有名になったわけです。

この時にも、ドイツ側からの、なんらかの呼び名があったのだろうと思うんですが。

 

I-16は、後継機に恵まれなかったこともあって、改修を重ねつつ大量に作り、旧式化した後も急降下が速いので襲撃機として使ったりしました。
生産数は9450機とする資料をよく見かけますが、1万機以上作ったという説もあり、山田圭一氏の『飛行機100年カラー写真でつづる名機たち』成山堂書店2004では、2万機以上だと書いてある。

 

本書の三面図では、尾橇です。カウリングシャッターは描かれてます。風防ガラスと昇降扉はありますが、密閉キャノピーではない姿で描かれてます。

カウリングシャッターをつけたのは、当機が最初だという説もある。
I-16の
初期のものには、カウリングシャッターはなかったともいう。
始動時には、飛行とは違う種類の燃料を要するのだという。

コクピットは、もともと密閉してたのを、途中でやめた。
一説には搭乗員の要望によるものだという。
I-16のキャノピーは、全体を前にずらして開ける構造で、いざという時に脱出しにくくて評判が悪かったらしい。

操縦席をどうするかは、このころ模索中だったようです。
I-15は、35年11月29日、V.V.コッキナキというパイロットの操縦で、14580メートルまで上がったそうですが、これはもちろん、それ専用に軽量化した機体。
普通は三式戦でもせいぜい9000メートルです。
I-16はあまり高く飛ばないようです。

 

ラトヴィアでも、I-16という名前の戦闘機が開発され、1機だけ試作されてました。
高度7900メートルで時速480キロ、高性能すぎて、接収したソ連もびっくりだったという。

 

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