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ピトリコーフTB-7(ТБ-7)
テー・ベー7
(Т.Б─7)
七-九座重爆撃機
11人乗り…。
諸元及性能
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識別上ノ特徴
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最大速度
約四〇〇時粁 393〜443キロくらい。
航續距離
約四、〇〇〇粁 3600〜5800くらい。
武 裝
「テー・ベー」五型ニ準ズルモ
機關砲一-二ヲ有ス
ShVAK、ShKAS×5、またはShVAK、ShKAS×4、UBT、またはShVAK×2、ShKAS×4、またはShVAK×2、ShKAS×4、UBT×2。。
銃座は機首、機体上部、尾部、内側ナセル下部。
機首がShKAS連装1、機体上部と尾部がShVAK各1、内側ナセル下部がUBT各1という感じだったようです。
爆弾は最大4000とも5000とも。
翼 長 約四〇米 39.1。 |
一、「テー・ベー」五型ヲ著シク流線型化シタル外貌ナリ
二、引込脚 |
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これの原型機はANT-42といって、4発のふりしてじつは5発機であり、胴体の中に積んだ1発を過給器の動力にするというものだったんですが、うまくいかず、ほとんどは普通に4発機として量産されました。
34年から設計を始めて、36年に初飛行、そのあとトゥ−パリェフさんのブタ箱行きで開発が一時停止して、38年から再開、今度はエンジントラブルで手間取って、39年(一説には40年)に生産を始めた。
最初は「AM-30」だか「AM-34FRN」だか「AM-35A」だかを使い、41年から「M-40」にした。
43年に「Ash-82」や「M-30B」にして、このころPe-8という名前になったんですが、本書の出版時期にはTB-7という名前だったわけです。
異様にデカい!です。武装も山ほど積んでる。
しかも、意外に運動性がいい。
この時代のソ連は、冷戦期と違って、あまり大型機で長距離の戦略爆撃ということをしません。
国土に侵入されてるのは自分たちであり、さしあたりドイツ戦車を叩かなければならないので、メッサーシュミットに食われながら、単発機で軽爆してたわけです。
TB-7シリーズの生産数は、93機または98機、一説には79機。
しかし使わなかったおかげで、かえって終戦時に30機ほどが生き残り、50年代まで使い続けたという。
一説には、エンジンの不調で、使いたくても使えなかったせいだとか。
ベルリン空爆は一応やってます。
ペトロフ設計局が作ったと勘違いしてる人もいますが、ペトロフ設計局は戦車砲なんかをやってた部署。
当機は、トゥ−パリェフさんの設計です。
トゥ−パリェフさんは逮捕監禁状態だったので、かわりに、開発スタッフのひとりピトリコーフさんの名前がついたらしい。
ピトリコーフは、いわゆるペトリャコフ。
ウラヂーミル・ミハーイロヴィチ・ピトリコーフさん。
ピトリコーヴァなどと書かれていることもあるが、ロシア名の語尾のなんとかオフは、弱めのVで、フでしょう。
もともとツアギで金属モノコックや主翼構造なんかを研究してた人で、応力外皮をやらせたらソ連随一だったらしく、その後、ZOKという大型爆撃機の開発部門の所長を経て、御自分の設計局を持ったらしいんだけれども。
この人もやっぱり投獄され、GAZ-156という飛行機工場の中に設置された特別刑務所に入れられ、獄中で急降下爆撃機Pe-2を設計し、これ自体は傑作だったものの、その事故で42年に亡くなってしまった。
ピトリコーフ設計局は、ウラヂーミル・ミハーイロヴィチ・ミャスィーシチェフさんが継いで、戦後にはミャスィーシチェフ設計局に改名し、ジェット爆撃機など作って現在に至る。
ピトリコーフさんの業績をしのんで、43年の制式番号変更の時から、TB-7はPe-8という名前になったようです。
兵士たちの間では、ペシュカ(チェスの歩。アルファベットのП、英語で言えばPの意)というあだ名で呼ばれたという。
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