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 ニェーマンR-10(Р-10)

 

エル─10

(P─10)

複座偵察襲撃、輕爆撃機

諸元及性能
識別上ノ特徴

最大速度
  約四〇〇時粁 
360〜438?
「M-25A」で370、「M-25V」で388、「M-63」では438キロ出たという。

航續距離
  約一、七〇〇粁 
1300〜1400?
「M-63」では約230キロ減ったという。

武  裝
 機關銃
   旋囘  一
   固定二-四
 爆弾約二〇〇瓩
機銃はAhKAS×2〜3。機首固定2、後方旋回1。
爆弾は胴体内に最大300キロ(50キロ爆弾×6)、一説には最大400キロ積めたらしい。

翼 長 約一三米 12.20

一、低翼單葉ナリ

二、主翼ハ前縁ニ後退角ヲ有シ後縁ハ概ネ直線ナリ

三、操縦席ト同乗席トハ相離レ後者ニハ圓蓋ノ銃座ヲ有ス

 

 

ウクライナの首都キエフは、じつはロシアの由来、ロシア発祥の地、本当はウクライナこそがロシア、本家ロシアなんですよね。

ソ連は、なにしろアカなので、民族意識とか地域色とか多様性とか伝統文化とか一部少数とかそーゆーの大ッ嫌いで、最終的には国家なんて廃止しちゃって、地球上をぜーんぶ丸ごと赤一色の均一平等の楽園にしたいわけです。
ソ連から分離独立しようなんて考えが少しでもある奴は悪であり、そんなのは自分のことばっか考えていて社会全体のことを考えていない愚か者らしいんです。

だから、キエフがあんまり栄えるのは都合悪かったんでしょうね。
ウクライナには、キエフの次に大きな都市ハールキウがあって、ひところ、こっちがウクライナの首都にさせられてました。

当時はウクライナ語の独自性もけしからんということで、ロシア読みしてハーリカフと言ってたようですが、日本ではハリコフとかカーコフとか呼ばれてますが、ここはウクライナの工業の中心地でもあった。
戦時中は、ドイツとソ連で何度も取り合いになった都市です、取り合いっていうか、これはドイツのものでもソ連のものでもなくて、ウクライナのみなさんの街なんだけど。

ここにハーリカフ航空機研究所というのがあって、そこの技師ニェーマンさんが設計した偵察兼軽爆がコレ。

ヨシフ・グリゴーリェヴィチ・ニェーマンさん。
ネーマンと表記されてることが多い。ニイマンと書く人もいる。
この人もまたキチガ○野郎の大粛正に迷惑した一人で、38年の暮れに牢屋に入れられてしまう。
倦怠罪だか、スパイ容疑だか、破壊工作活動だかの容疑だそうです、何でもかまわないんでしょうね、どうせ冤罪だから。

 

ソ連の偵察兼軽爆は、複葉機でチンタラやっていたのが、いくらなんでも時代遅れと、やっと気付いたので、36年ごろから後継機の開発を始めた。
競作したところ、グリゴローヴィチDG-58Rが計画中止、パリカールパフ「イバノフ」が開発遅延(またか、この人)、コチェリギンR-9が性能劣悪と、いずれも途中脱落したため、無競争でR-10に決まり、R-10を完成させるよりほかになかったのだという。
開発競争で落とされなかったR-10は、実戦でバタバタと落とされることになるんですが。

 

R-10のもとになったのは、KhAI-1といって民間用、乗客3名くらいの小型旅客機として32年に作ったもの。
乗客3名くらいの小型旅客機というのは、なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、世の中には高須クリニックのCMみたいに御仕事の都合でどうしても文字どおり飛び回らなければならない人が本当にいるもので、ましてや、ソ連は広いし、この時代はヘリがないわけです。
当時の日本でいうとビーチクラフトC17-Eなどがそうでした。

KhAI-1は、木製セミモノコック。性能が良かったので軍の目に止まった。
KhAI-1を軍用にしたのがR-10だというのが通説だけれども、実際はもう少し複雑らしい。
正確には、軍部が要求したのは「KhAI-1を元にした偵察爆撃練習機」であり、それとは別に(平行して?)、「KhAI-1を元にした偵察爆撃機」を開発したのがR-10らしい。

後部回転銃座、爆弾倉など、旅客機にないものを付け足した。KhAI-1とR-10ではエンジンも違う。
R-10は、36年に初飛行したとか生産したとか、37年に設計したとか。

R-10をまた民間仕様にしたRS-5(KhAI-5)というのもあったようです。

 

エンジンは諸説ありますが、最初は「M-25A」、のちに「M-25V」だか「M-25B」だか。

ほかに、「M-25E」「M-88」「M-62」「M-63」などを積んでみた試作もあったらしい。
「M-63」などを積んだ改良型は、ニェーマンさんがブタ箱に入ったため中止になり、試作のみで終わって、生産はされなかった。
量産機は全部、「M-25」系のようです。

武装は、表に書き入れたとおり。
球形の後部銃座が埋もれてるのが特徴です。
R(偵察機)でも爆弾を積むのが、この時代の特徴ですが、R-10は爆弾倉まで備えていた。

 

生産は37年から、一説には36年から。結局528機ほど作りました。
ノモンハンから使い始め、冬戦争や独ソ戦にも使ったようです。
性能はそれほど良くなかったらしく、次世代の軽爆を開発するまでの、つなぎのつもりだったらしい。

ところが、R-10の後継機が、いつまでたっても完成しない。
トゥーパリェフANT-51という試作機は、これまたブタ箱行きが原因でスホーイさんが引き継いで、BB-1さらにSu-2と改称しつつ開発を続けたものの、重い・遅い・鈍い・操縦しにくい。
何度もエンジンを載せ替え、何度も失敗。
軽くするために爆弾の最大積載量を減らしてみたり(それじゃ軽くなっても使い道ないんじゃないかっていう)。
一応は完成して、スホーイさんにしては珍しく採用されたものの、どうでもいい戦区に回され、どうでもいい任務を担当になった(しかもIl-2が配備されるまでのつなぎ)。

しょうがないので、R-10はその後も本気で使われ続け、43年ごろまでは使われたようです。
てなことやってるうちに、軽爆撃機というジャンルそのものが消滅しました。

 

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