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 パリカールパフI-15(И-15)

 

スホーイさんがI-14、パリカールパフさんがI-14aを、競作。
ソ連では、I-1にしても、I-7にしても、同じような名前の違う飛行機を別々に開発ということがあったようで。

まぎらわしいので、I-14aはI-15に改名したという
(…もっとまぎらわしいことに、ラトヴィアでも、I-15a、I-15bという高等練習機が開発され、各1機だけ生産されていた。単座だったという)。

パリカールパフさんはトゥーパリェフさんと対立して失脚、ひところはスホーイさんの部下にされていたらしい。
それが32年ごろから勢いを盛り返し、33年ごろには第36工場の設計局責任者だか、設計第5課の主任だか、とにかく開発チーム1つのリーダーになったようです。

パリカールパフさんはI-5を発展させて、I-15を作った。
32年から設計を始めて、33年に初飛行。
34年初飛行という説もあるが、それは初めて公開飛行したとかではないだろうか。
33年10月から飛行試験をやって、試乗したパイロット全員が絶賛。

 

これが、どんなエンジンを載せていたかが、さっぱりわかりません。

I-15の原型機は、TsKB-3。
この段階では、おそらくライト「サイクロン」、SGR-1820-F3。
いきなり「M-25」だったという珍説もあるんですが、だとすれば、これ以降の、エンジンをいろいろ変えた理由がまったく説明つかない。

当時のソ連では、機体の開発には外国製のエンジンを使い、量産機には国産エンジンを載せる、というパターンのようで、この時もそうだったのではあるまいか。

 

TsKB-3とは別に、TsKB-3terというのがあって、これが「M-25V」を載せてみた試作機だともいう。

TsKB-3は、34年に採用が決まる。
34年春から量産され、ここでI-15という名前になったという説もある。
ただし、これの量産機は、「M-22」だったという。

 

TsKB-3bisというのもあった。
これはサイクロン。「M-22」では出力不足でお話にならなかったので、サイクロンにしたらしい。
これこそがI-15の原型機だという説もあるんですが。

 

とにかくI-15が完成して、33年秋まで試験を繰り返してから量産に入って、34年の年末には実戦部隊に配備。

36年からは「M-25」にした。
ここで初めてI-15という名前になったという説もある。

 

I-15は、一葉半というほどではないですが、下翼が少し小さいです。
木金混合羽布。胴体後部、主翼、動翼などは羽布。
車輪覆はあるが、部隊ではあまり付けていなかった様子。
翼間の支柱をN字からI字1本にして、着陸脚の支柱も空気オレオ式1本にするなど、I-5より空力的に洗練されたデザイン。
軽快な設計で、速度よりは小回りを優先の格闘向き。最高速度は時速368キロくらい。

プロペラは木製、後期型では金属製の可変ピッチにして、それ以前の生産機も付け替えた。
I-15にカウリングシャッターはなかったという説もあるらしいが、TsKB-3だとされている写真を見るとカウリングシャッターがあり、スキーをはいている。
機銃は最初からPV-1×4。
「M-25」
にしてから爆弾100キロが搭載可能になり、このころ機銃をBS×2にした機体もあったらしい。
のちにRS-82×6も積んだという。

 

上翼中央を下げてガル翼にしてある。
一説には、この時すでにチャーイカという愛称はあったともいう。
チャーイカはカモメの意で、日本ではチャイカという表記になってることが多いです。

ソ連では、水陸両用機や小型船やリムジンにも、チャーイカと呼ばれたものがあります。
人名、地名、社名、店名、商品名など、ソ連(特にウクライナ付近)では、何にでも普通に使われている愛称らしいんです。
例の女性宇宙飛行士のコールサイン「私はカモメ」もそう。
ロシアっていうのは文学や演劇や舞踊や音楽や映画にとても力を入れる芸術大国なんですが、19世紀に、チャーイカという題名の戯曲があってロシア人に広く知られており、これにちなんでモスクワ芸術座のロゴマークもカモメなっている。

だからI-15は、登場した時からチャーイカと呼ばれたかもしれません。
ところが、どういう根拠なのか、I-15とI-153を併記してI-153だけをチャイカと書いている資料もかなりある。

I-153は、I-15やI-15bisよりも大量に作られている。
I-153がチャーイカと呼ばれて有名になったので、のちに、I-15もそう呼ばれるようになったということも、可能性としてはあるのかもしれません。

 

御存知のとおり、36年の夏からスペイン内戦です。
I-15はスペインへ送られ、実戦に使われる。

スペイン南東部にカルタヘナという港があって、スペインの地中海艦隊の母港であり、人民戦線側のほぼ唯一の軍港だった。
ここに、18機のI-15を積んだ輸送船が到着したのが、36年10月13日、これがスペインに供給されたI-15の最初だという。

「木の箱に入れて、11月にフランス経由で送った」という説もあって、途中でフランスに寄港して補給でもしたんでしょうか。
フランスは最初ほんの少しだけ、人民戦線側を味方していた。

I-15は、全部で139機だか153機だか155機だか、スペインに送られたそうです。
部品で送ったんだか、CASA社でライセンス生産したんだか、現地で組み立てた分というのがあって、これだけで231機だともいう。
550機という説もあるんですが、いくらなんでも、それはbisも含めての数?

 

I-15は、スペインでは「ガト(猫)」、「チャトー(獅子鼻。胴体形状がそういう印象だったらしい)」などと、あだ名をつけられました。
ここまでは有名な話だから、誰でも知ってる。

俺が気になるのは、「スペインでは、I-15はカーチス、I-16はボーイングとも呼ばれた」、という説です。
外人さんがお書きになった航空史の本なんかに、ときどき見かける。
これの語源として言われているのは、カーチスP-36、ボーイングP-26に似ていたことが理由だという。
もしかしたら逆だったんじゃないでしょうか。
I-16がカーチスで、I-15がボーイングと呼ばれそうなもんだ、どっちにしてもあんまり似てないが、どちらかといえば。

とにかく、スペイン人にとっては米軍機のほうがなじみ深く、ソ連機はよく知らなかったので、間違えた、または、知っていてもそういうあだ名で呼んだ、ということらしいんです。

一説には、これは国民戦線側での呼称だという。
「航空後進国のソ連ごときに、こんな先進的なもの(I-16)が作れるわけがない、アメリカ製に違いない」と、国民戦線側が勘違いしたのだ、という説もある。
それはそれで、また別の意味を持ちます。
アメリカが参戦していないのに、しているかのように見せかける(しかも、自分たちの側に米軍がついているかのように)、ということが、スペイン内戦では両軍でおこなわれていたようでもあるから、このへんの話はかなり複雑だと思うんです。

というか、P-26はそんなに広くスペイン人に知られていたんでしょうか。
P-26は、米軍の分と輸出あわせて162機だかそのくらいしか生産されてません。
あんまりP-26を知らなかったからこそ、「アメリカからの支援で、新型戦闘機が続々と供給されている!」というデマを飛ばしやすかったのかもしれない。

ボーイング社は、P-26をスペインに売ろうと思って、見本の1機を派遣してデモ飛行などさせたが商談は不成立、そこへ内戦が起きたので、この機体は人民戦線側に差し押さえられ実戦投入(のちに撃墜された。戦後、ボーイング社には弁償したという)。
つまり、P-26も、I-15もI-16も、人民戦線側の戦闘機です。ここも重要だと思いますよ。

 

I-15は、スペイン人からは評判が良かったという説と、それほどでもなかったという説がある。
スペイン内戦の写真集なんか見ると、写真を撮るっていうから無理に元気そうにしてるんじゃないか?って感じだったりします。

女こどもが、銃を持って、ニコニコ笑ってポーズをとるかね?
アメリカの女だったら、やるかもしれんが。
アメリカ映画でアクション物の続編っていうと、必ず、自分が主役と勘違いした出しゃばりなバカ女が戦闘する(しかもヘタクソ)。

また、スペインのみなさんは、外国に介入されて国土が焼け野原になったことを、すごーく怒っていたりするんで、兵器に対しての証言は、どう解釈していいのか微妙なところがあります。
しかもソ連が味方していた人民戦線側は、どちらかといえば軍隊を嫌ってる人たちだった。

ガル翼は、とりあえずパイロットからは嫌われたようです。

 

性能はというと、ハインケルHe51に対して惨敗したという説と、圧勝したという説がある。
実際のところ、He51もI-15も、もう時代遅れだったのだから、意味のない話ですが。
すでに日本は九六式艦戦。ドイツもスペイン内戦にBf109を投入している。

I-15はあんまり高性能でもなかったのだろうと思います。
というのは、スペインに送った分は、かなり撃墜されている。
それに、I-15は、384機だか733機だか905機だか、そのくらいしか作られず、36年(一説には35年または37年)に、生産を打ち切る。
このあとのI-15bisのほうが、はるかに大量に生産されてます。
しかも、I-15bisの生産がまだ始まっていないうちに、はやばやと、I-15の生産を打ち切ってしまっている様子。

 

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