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パリカールパフI-15(И-15)までの
ソ連の戦闘機開発
本書には、I-15は載ってません。
I-15のことを書かずに、I-15bisやI-153の話を書くのは、まるで、東京フレンドパーク2や、マツケンサンバIIや、トヨタマークIIには、「1」に相当するものがあったのか?みたいな話なので(あったんです)、それを先に書きます。
その前に。
I-5のことを書かずにI-15のことを書くのは、鶴田浩二さんのことを書かずに橋本首相のことを書くくらいに難しいうえに、俺が「古い人間とお思いでしょうが」とか申し上げても、なにが面白いのかサッパリわかんないとおっしゃる方が多いと思われますから、I-14までの流れを書きます。
И(イー。エータ系のI。Hに近いI。英語のIにあたる)は、今の米軍のファイターFみたいなもので、戦闘機イストゥリィェヴィーティェリの頭文字を、戦闘機の符号にしてるわけです。
ソ連は、革命のドサクサの時に、ロシア語から「I」をなくしてしまった。
ウクライナ語やカザフ語やベラルーシ語には、その後もあります。
島崎和歌子さん(ただし、アイドルだった頃の)が、『HのあとにはI(愛)がある』という曲を歌ってましたが、まあね、国家元首が国民を大量虐殺なんてことは、愛があったら普通はできない。
日本の70年代くらいまでの本だと、「イ15」などと、まるで潜水艦かなにかの名前のように、イロハのイのように書いてることもよくある。
父の部隊でも「イー」と伸ばさずに「イ」と発音していたとのことで、父は今でも「イ15」「イ16」と言います。
本書では、明確に「イー」と書いている箇所もあるのですが、「ー(音引き)」を「-(ハイフン)」と勘違いする人が多かったんじゃないかと思います。
パリカールパフI-1
パリカールパフは、いわゆるポリカルポフ。
ニコライ・ニコラーエヴィチ・パリカールパフさん。
「戦闘機の王」という異名を持つ設計者ということになっているけれども、それはずっと後になってI-15・I-16を開発してからの話。
それ以前は、ソ連の航空界の中ではそれほど大物でもなかった様子。
23年に試作機Il-400というのを作る。このLは、リバティエンジンの意。
尾翼の違うIl-400bというのもあったらしい。
あんまり性能が安定しなかったらしく、ソ連初の「パイロットがパラシュートで脱出」というのを27年にやらかしているという。
36年にトハチェフスキイ元帥がパリに行った時、ギ・ド・メゼラック将軍にパラシュートのことを熱心に質問しており、飛行機からパラシュートで脱出する技術はソ連では遅れていたような印象も受けます。
それでも、このへんを多少変更して、ソ連の最初の国産戦闘機I-1になる。
ただし、これは制式採用ではなかったとか、採用はされたが空軍の制式な使用ではなかったとかいう。
尾翼などは波板、頭を切り落としたシシャモみたいな形の機体、アルバトロス風というか第一次世界大戦の水準の胴体ですが、単葉低翼です!
エンジンはリバティ「L-12」、最高速度は時速264キロ。
武装はPV-1×2という説と、7.7ミリだったという説(PV-1にそういう口径もあったのか、ヴィッカースか何か?)があるんですが、カウル上につけているので同期はしていたはず。
23年から生産、18機。
パリカールパフI-1bis
I-1の改良型らしい。
パリカールパフDI-1 別名2I-N1
I-1の複座型試作機。とても流麗なラインのセミモノコック。
エンジンはネイピア「ライオン」。時速268キロ
武装は機首にPV-1×1?同期、後部座席にDA×1。
初飛行は26年。墜落して計画中止。
グリゴローヴィチI-1
ドミトリー・パーヴロヴィチ・グリゴローヴィチさん。
帝政ロシアで飛行艇を設計していたが、短距離水上偵察機を開発できなかったので(外国製を輸入して使うことになった)、陸上機の担当に回されたらしい。
I-1はパリカールパフさんと競作のような感じだったらしい。
グリゴローヴィチさんのほうのI-1は、24年に初飛行。
性能が悪く、特に安定性と上昇力の不足で、採用されず、試作の1機のみ。
おそらく複葉、エンジンはリバティ「L-12」、時速230キロ。
不採用なのに、どうしてI-1という名前なのかが不明。
このころは制式名ということの定義があいまいだったか、この人の出品作、この人のI-1案というほどの意味か、あるいは公式な名前ではないのかも。
グリゴローヴィチI-2
グリゴローヴィチI-1を改善したものらしい。複葉。巨大スピンナー。
エンジンは「M-5」、時速235キロ。武装はPV-1×2。
24年に初飛行、26年に配備、27年からソ連の主力戦闘機だったという。
ソ連は戦闘機に奇数番号をつけるんですが、この時代は、まだそういう法則性がなかった、または徹底してなかったらしい。
グリゴローヴィチI-2bis
グリゴローヴィチI-2の改良型というより量産型? 211機?
26年に配備されたI-2というのは、これのことか。
パリカールパフI-3
木金混合セミモノコック。見た目はR-5とかとたいして変わらない複葉単座。
プロペラをどうするか、いろいろ付け替えて試してみたらしい。
エンジンはBMW「VI」と、そのライセンス生産「M-17」と、両方あったようで、これもいろいろ試したらしい。正立のデコッパチです。時速278キロ。
武装はPV-1×2、最初はヴィッカースを積んだものもあったらしいが、それも7.62だったという説もある。
11.5キロ爆弾×2をつける爆弾架を備えたものもあったらしい。スキーをはいている写真もある。
26年ごろから開発、27年ごろ完成、28年に初飛行、29年から配備、グリゴローヴィチI-2の後継機として、35年までは使われた様子。
28年から31年にかけて生産、389機?399機?
パリカールパフDI-2
I-3の複座型試作機。後部銃座にDA×2を追加。初飛行は29年。
墜落してテストパイロットが死亡、計画中止になったらしい。
トゥーパリェフI-4
トゥ−パリェフは、いわゆるツポレフ。第156設計局。
爆撃機とか旅客機とか、どっちかっていうと大型機で定評があります。
アンドレーイ・ニコラーエヴィチ・トゥ−パリェフさん。
ジュコーフスキイ博士のもとで教鞭をとってた人で、ジュコーフスキイ博士と共にツアギの創設者の一人。
飛行機の設計も先見の明をお持ちだったけれども、アルミ合金の国産化とか、後進の指導とか、基礎的な所から活躍なさった。
「メッサーシュミットBf110の開発に有用な技術を売り渡した」とかいうヌレギヌで、国家機密漏洩罪だか国家反逆罪だかになり、36年から43年まで逮捕監禁状態で飛行機を設計してた時期もあり、5年間ほどシベリア送りにもなったこともあったけれども、ソ連の航空機設計の最大の重鎮です。
I-4はスホーイさんの作。
パーヴェル・オシポヴィチ・スホーイさんは、トゥーパリェフさんの弟子というか番頭で、のちに独立して御自分の設計局を構える。スホイと表記されていることもある。
この人は、試作はするんだけど採用されることが少なく、採用されても評判がイマイチで。
一説には、一貫してスターリンから嫌われてたらしい。
戦後、ドイツ製を手本に国産ジェット機を作らせたら、まんまそっくりに作ったので、パクったのバレバレやんけ!と叱られたり、Su-15に異常振動が起きてパイロットが脱出という事故になった時には、とうとうスホーイ設計局はいったん廃止され、スターリンが死ぬまで再建させてもらえなかった。
スホーイは今でこそロシアらしからぬ垢抜けたジェット戦闘機を作ってるトップブランドですが、戦後ずっとミーグよりも格下で、冷戦最末期になってから、スホーイさんの死後のほうが成功してるくらい。
I-4は一葉半、ユンカースのパクりの波板の全金モノコック。ソ連初の全金戦闘機。従来のものより大幅に軽量化できた。
エンジンは最初だけノーム・エ・ローヌ社製の「ジュピターVI」、量産機では「M-22」。
イボカウリングに巨大スピンナー。カウリングを外して運用しているとおぼしき写真もある。
時速247〜257キロ。
武装は7.62ミリ(おそらくPV-1)×2。のちに上翼にRS-82もつけたらしい。
初飛行は27年。生産は28年から34年まで369機?370機?
各種テストに使われました。
63ミリ無反動砲を翼下につけて実験をおこない、これが良好だったので、のちにI-Zの開発につながったという説と、76ミリ無反動砲をつけてテストしてたら爆発事故があったという説がある。
ズヴェノー計画に使われたものは、下翼を50センチ切り詰めたという。
トゥーパリェフI-4P
I-4のフロート装着型。
トゥーパリェフI-4bis
I-4の下翼を撤去して単葉にしたもの。前縁スラット付き。
見た目はセスナみたいな、下から斜めの支柱で支えたパラソル翼。
パリカールパフI-6
I-5とI-6は、27年だか28年だかに、平行して開発が始まったようです。
ソ連は、新鋭で実験的な意欲作と、保守的で手堅いところを、平行して作る方針だったらしくて。
しかしI-5とI-6は、平行というより競作のような感じで、要するに全金と木製の比較がしたかったということらしい。
I-6は、パリカールパフさんらが担当。
ところが、29年8月という〆切に間に合わず、開発スタッフ全員、9月に投獄されてしまう。
開発期間が短すぎたということもあると思うけれども、いろいろな逸話から察するに、どうやらパリカールパフさんは完璧主義で仕事が遅い人だったような印象です。
ドイツの設計を参考にしているうちに、自分もドイツ職人的になってたみたいで。
しかし30年の春に、I-6は完成している。
一説には、別の設計者の手で開発が続けられたというが、しかしI-5の話とごっちゃになってるようでもある。
機体は木製セミモノコック。
エンジンは「M-15」という説と「M-22」という説がある。最高速度は時速280キロ。
武装はPV-1×2。
I-5が採用されたのでI-6は試作2機のみという説と、I-5よりも性能が良かったので少数とはいえI-6は量産しているという説もある。
パリカールパフI-5
I-5は、トューパリェフさんらが担当していたのに、なぜかパリカールパフさんらの手によって完成してます。
しかもI-6より後に。
トゥーパリェフさんは、I-5の設計を途中で投げ出したらしい。
ジュコーフスキイさんとトゥーパリェフさんは、ソ連の航空産業をまかせるとレーニンから直々に言われた人であり、政治的に力があったというか、かなり好き勝手ができたようでもある。
トゥーパリェフさんは大型機(爆撃機)を設計するので、戦闘機をやってるヒマがなかったようでもある。
I-6のことで牢屋に入れられたパリカールパフさんは、なぜかI-6ではなく、I-5の設計の続きをやらされる。
獄中で設計するわけです。
一説には死刑だったのが、懲役10年にしてもらえたとかなんとかで。
モスクワの第39工場の大格納庫を、KBVT(КБВТ。「設計局、中央刑務所」というような意味)という名前の牢屋にしてあって、そこへ軟禁されて、監視付きで仕事をしているような感じ。いわば缶詰。
そして、I-5の原型機が完成、VT-11(ВТ-11)という名前。
VTが中央刑務所みたいな意味で、軟禁されてた施設が由来(ВとТと赤い星を組み合わせたマークが、垂直尾翼に入る)。
これは、グリゴローヴィチさんと共同設計。
グリゴローヴィチさんが設計の中心的役割だった様子。関係あるかどうか、グリゴローヴィチさんはパリカールパフさんより年上らしい。
30年に初飛行。I-4よりもさらに軽量であり、旋回(だけ)はI-6よりずっと速かったという。
I-6のほうが性能が良かったらしいけれども、なぜかI-5が採用されて量産される。
一説には、I-5はテストパイロットからの評判が良かったのだという。
これでパリカールパフさんは娑婆へ(TsKB中央設計局へ)戻れたらしい。
試作機VT-11は、タウネンドリングでジュピターVIIの1号機と、大型スピナー&イボカウリングでジュピターVIの2号機があり、機首は前者、エンジンは後者で量産することになった。
これがI-5。
量産機のエンジンは「M-22」、一説には、のちに「M-15」にしたらしい。
最高速度は時速278〜287キロくらい、「M-22」では性能が落ちたらしい。
機体は木金混合羽布、かなり一葉半に近い複葉。
車輪覆はあったが、あんまりつけずに運用されてた様子。
無線は、標準装備だったという説がある。
I-5の塗装は、機体前部が無塗装(何も塗ってないわけないんでポリッシュドスキンみたいなやつかもしれないが)、操縦席から後ろだけオリーヴグリーンに塗るというやつと、もうひとつ、機体全体を銀地に赤というのがあったらしい。
このころのソ連は、赤星のマークをあんまりつけません。
武装はPV-1×2〜4。1丁につき600発。胴体横につけていたという。
ソ連の戦闘機で初めての機銃4丁として設計されたものの、「M-22」が非力で2丁しか積めなかったらしく、「M-15」に替えてから4丁にしたらしい。
下翼に小型爆弾を積んだとか、のちにRS-82×6も積んだという。
生産数は、試作3、先行量産だか試作の追加だかが10、量産が803だという。
この時代は戦闘機の発達が早いので、作ったそばから旧式化してしまい、このあと傑作I-15系・I-16系が作られたこともあり、I-5はすぐに練習機として使われるようになった。
独ソ戦の初期に戦闘機が足りなくて、I-5はまた引っぱり出されて実戦にも使われたらしい。
ズヴェノー計画にも使われてます。40年代まで、雑用機として使われ続けたという。
トゥーパリェフI-8
迎撃機の試験機。なぜか30年10月28日に初飛行。
エンジンはカーチス「V-1570」。最高速度不明、3000メートルで310キロ出したという。
武装はPV-1×2。
これほどの性能のエンジンは国産できないので、試作1機のみに終わったらしい。
グリゴローヴィチI-Z
I-Zetと表記されることもある。
爆撃機を倒すため、無反動砲を積んだ飛行機のひとつ。
I-5にAPK-4を積んだ、…というより、本来はI-5とは別の飛行機だが、完成を急ぐためにI-5の設計をベースにしたり部品を流用したり、ということのようです。
試作機の名前はTsKB-7。
主翼を単葉低翼で金属化、ただし、主脚から支柱をずいぶんと連結している。
木金混合というのは、だいたいエンジンまわりだけ金属にして、操縦席あたりから後ろは羽布張りなんですが、その機体後部を金属モノコック化、かなり細身の胴体。
水平尾翼を高くした(胴体ではなく垂直尾翼に設置)。
これらは、バックブラストに対応したということらしい。
試作ではイボカウリング、量産ではタウネンドリング。涙滴型の主脚カバー。
武装は76.2ミリ砲(APK-4)×2、 PV-1×1。
PV-1は同期で機首左上に積んでいたらしい。
最高速度は時速259キロ。一説には300キロというが、そんなに出たものかどうか。
運動性はとても良かったという。
31年の終わりごろまで開発実験、年内には採用されたらしく、32年から生産、試作21機のほかに量産50機。
ズヴェノー計画に使われました。
パリカールパフDI-3
DI-2を改良した複座戦闘機。31年。生産もしたらしい。
双尾翼にして射角を開き、主翼下に「小型対人爆弾」なるものを搭載できた。
パリカールパフDI-4
DI-3をさらに改良。33年。
機首の機銃を3丁にして、速度は時速290キロ。
少数だが生産もしたらしい。
トゥーパリェフANT-23 (I-12)
APK-100を積んだ双発戦闘機の開発が2つあったうちのひとつ。
ヴィクトール・チェルニショフとかいう技師による設計。
単葉低翼、細い棒で尾翼を従えた双発双胴で、ジュピターVIだかミストラルだかを櫛形配置。
後部の推進式プロペラが、たいして推力を発生してないうえに、これのせいでパイロットが緊急時に脱出できない。
初飛行が31年とか、実験は33年夏からとか、諸説ある。
実験中にAPK-100が爆発、パイロットは脱出すればプロペラに首をはねられるのがわかりきってるので、しかたなく操縦を続け、命からがら着陸し、これで計画中止。
写真を見ると、脱出時に体にひっかかるほど大きく突出したプロペラでもなさそうに見えるんだけれども。
ANTというのはアントーノフ設計局のことだと書いている本もあるが(『グランドパワー別冊』など)、アントーノフ設計局の設立は52年、その前身も46年の設立のはず。
当機のANTは、おそらくトゥーパリェフさんの頭文字ではあるまいか。
トゥーパリェフANT-29 (これもI-12の一種?)
ANT-23と同時に進められていた計画。
こちらは普通の双発スタイル。
無反動砲を上下に並べて胴体下部に搭載していたらしい。
飛行中にピッチが乱れる欠陥があり、照準が上下にブレるので無反動砲が使い物にならず。
設計したのはアルハーンギェリスキイさん。この人の話は、エス・べ−3のページを御覧ください。
20ミリやロケット弾で間に合うので、無反動砲を飛行機に積むということ自体が36年に中止。
パリカールパフI-11
I-5のエンジンを「AM-34」にした試作機。
これは、なぜか直列エンジンだったという珍説があるらしい。まじっすか。
武装は7.62ミリ×2、14キロ爆弾×4。
33年。採用されず。
この時期に、どうしてIの11番なのかも謎。
I-7(HD37c)
ドイツのハインケルHD37c(一説にはHD38、一説には両方)を、ライセンス生産したもの。
エンジンもBMWのものをライセンス生産(「M-17」)。
武装はPV-1×2。
ハインケルは、チビでハゲでデブ(と、ヘルマン・シュタイナーさんが言っている)、エルンスト・ハインケル博士、ハインケル航空機製造。
のちに世界初のジェット飛行を実現したメーカーです。すご〜くナチスに協力的。
ヴェルサイユ条約下のドイツは、兵器の開発をこっそりやってたわけです。
スピードレース用のスポーツ機とか、郵便機とか旅客機とかなんとか、適当な名目をつけて、軍用機をちゃっかり作っていた。
HD37、HD38、He49a、Ar65、He51など。
ソ連としては、I-5の後継機開発がうまくいかなかったらしく、3年間15万マルクという契約でHD37cのライセンスを買い、TsKBが製造を請け負ったらしい。
31年に試験飛行、134機ほど生産したという。
パリカールパフI-7
34年に、I-5を改良した試作機を作ったが採用されなかった。
エンジンが「M-22」。機銃は4丁、おそらくPV-1。
この飛行機の名前が、これまたI-7だという。
それが採用されていれば、ドイツ機をライセンス生産しなくてよかったわけですが、しかしパリカールパフI-7は、あきらかにHD37cの採用が決まった後に作ってるようで、謎。
パリカールパフI-9
パリカールパフI-7の機銃を、2丁に減らした試作機。
これも34年。採用されず。
パリカールパフI-10
パリカールパフI-7のエンジンを「M-25」にした試作機。
これも34年。採用されず。
採用されないのにどうして、試作番号ではなく、制式番号のIいくつという名前なのかが謎。
グリゴローヴィチIP-1、または、DG-52
この2つは、同じもののことらしい。
I-Zの発展型で、76.2ミリ無反動砲を搭載する飛行機。
PI-1と書いている本もあるが、たぶん間違い。IPは機関砲搭載戦闘機の意。
エンジンは「M-25」に替えた。
翼下にAPK-4×2(装弾5発)、機銃は7.62ミリ(たぶんPV-1)×2。
33年から開発、34年に完成、35年だか36年だかに生産開始、36年だか37年だかに生産終了、80機、一説には90機。
グリゴローヴィチIP-4
20〜45ミリ砲を積んだ試作機。1機のみ。
トゥーパリェフI-14
これもスホーイさんの設計。I-4の発展型。
全金、低翼単葉、引込脚。プロペラは木製。
エンジンは、試作機ではブリストル「マーキュリー」、生産機では「M-25」だというが…。
時速449キロ。
武装はShKAS×1、ShVAK×1。
33年に初飛行して、35年に配備。試作2機、量産18機。
コクピットも狭いが、車輪幅も狭く(外側に引き上げてたたむ方式)、着陸が難しかったという。
その後は、無反動砲の搭載実験に使ったらしく、APK-37×2を翼下につけたという。
トゥーパリェフI-14bis? I-142?
I-14のエンジンを、ライト「サイクロン」にしたもの?
性能は悪くないが、操縦しにくい機体だったらしい。
36年ごろ生産も一応は始まったようだが、I-16で間に合うので打ち切り。
武装はAPK-11×2、ShKAS×2。
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