「大豪院流」
ものすごく偉い他団体の先生が、乗車や食事や入浴で別行動をとること。
おすすめしても同席したがらないし、あまり打ち解けない。帝王学か遠慮でやっていると思われる。マンガが語源。

「タコ」
ノーガード。たこ八郎さんの積極的な試合スタイルから来ているが、バカにしたニュアンスで使われる。
相手の構えを崩しつつ間合に入ることも練習だから、受ける側があからさまに構えを開けてしまっては練習にならないのだが、初心者にはのびのび大きく打たせるために、わざと拳を下げたり剣先を外したりして、打ちやすく開けてやることがある。
ところが、それほど初心者でもない者に対してこれをやると、挑発の意思表示になってしまうため、なめてんのかタコ、タコにされたいか、などと言われる。

「叩き込まれる」
旧日本軍では、「言われてやるのはバカでもやる」「仕事中に教えているヒマはない」「教えるのは簡単だが、教えただけではすぐ忘れる」という考えであり、基礎だけは学校で親身になってガミガミ教えてくれるが、部隊に配属されたら、たとえ平時でも、新人だからといっていちいち教えてもらえず、間違ったりまごまごしていると殴られる。
なにをすればいいのか、どうすればいいのか、なにがいけなかったのか、教えてもらえず、殴られるだけ。こういう指導を旧日本軍では、叩き込む(体内に強制的に入れるの意)と言っていた。
だから、「妖魔を封印する神社の巫女を代々継承する家の長女として生まれ、幼い頃から古武術を叩き込まれた」などと書いてあるプロフィールを読むと、戦前の方は爆笑する。
これが、「自宅も接骨院で道場だったが、七光りと言われたくなかったので、父と仲の悪いとなり町の道場にわざと入門し」、「高校の剣道部は生ぬるかったので、夏休みには国士舘大学の合宿に混ぜて頂き」、「筋トレがてら、魚河岸のバイトにかよい」というようなことであれば、うわっ、この人は叩き込まれている!ということになる。

「タチ、ネコ」
立射と膝射、あるいは、ローテイションで立礼だけと座礼などのこと。
本来は女性同性愛の役割分担をあらわす用語。
いちいち作法をしないでどんどん相手を替えていく練習法もある。

「太刀受身」「薙刀受身」「弓受身」
足腰や体さばきがまともなら間違っても転ぶようなヘマはないはずであるが、現実にはよくあることなので、受身のないジャンルでも熱心な指導者は、脳震盪やスキーヤーフィンガーにならない転び方を子どもさんに指導している。

「タラちゃん」「AV」
形をチェックする時に、さあやってください、そこまではできているよろしいという意味で、ひとつの動作ごとに、ハイ、ハーイ、いいよー、いいよー、などと、いちいち言う指導。
これでは動作にキメができてしまってブツ切りの寄せ集めになるからよくない、気持ちも途切れる、あいの手のようでウザったい、ということで嫌う場合があるが、中国武術や空手では普通におこなわれている。
正しくはイクラちゃんだと思うが、タラちゃんという。なお、イクラちゃんが一度だけ「ニイチャン」としゃべった回があったというが未確認。

 

 

「鍛練・習練」「トレイニング・プラクティス」
体力のことと技術のことは、別のものであると考える人は、呼び方も分けていることがある。
両方絶対必要なのであるが、体力で強引に押すと技が未熟でも通用してしまって上達が遅れたり、小細工でラクチンしてしまうと苦しい稽古をしたがらない。

「提灯式」「幇間式」
誉め言葉を連発しながら指導すること。賛否両論あるが、自分に自信のない指導者は例外なくやる。

「使う」
稽古をつけることを「誰を使う」「何本(何人)使う」などと言い、また、なになに流を習っているではなく「なになに流を使う」と言う。
武術で「使い物にならない」「使えない奴」と言う場合、世間で言われているのとは少しニュアンスが違う場合がある。
ある指導者が「片付けができない者に使う資格なし」などと、けたたましく大書して掃除用具置場に貼り出したところ、その指導者の使い具合(指導ぶり)を見たもっと偉い先生が、その張紙を指差して、これはおまえのことだ、と怒ったことがあるという。
ガンジーか誰かの言葉に、「他人に要求したいことを、まず自分に言え」というのがある。

「出戻り」
卒業した先輩がいつまでも部活に来て口を出すこと。特に就職した人が職場のストレスを発散しに来ることが多い。

「虎」
子猫の頭を押さえ付けると、イヤがってすぐに外す者と、されるがまま素直に押される者と、ググッと押し返してくる者がいる。
武術では、押された気を押し返す場合、激しい気合ではなく、静かな迫力でググッなのである。
これは、ある段階から急にできるようになるが、もともと、この素質を持った人もいる。ついに虎になったとか、この子は虎になるとか言う。

「虎の穴」
試合にむけてエリート選手を選抜し、練習内容を別にすること。長い目で見れば逆効果だが、結局おこなう場合が多い。プロレスマンガが語源だが、打撃系でよく言う。

 

「鳴かず飛ばず」
元気がないこと。
声を「鳴き」といい、鳴きが甘いなどと言う。
声を出さない人は消極的で上達も遅いが、あんまり声を出しすぎる人も精神的に弱いことがある。

「忍者がいたから」
自宅の天井に、剣先や槍先をひっかけてしまった傷があること。
惰性や反動で素振りしていて一本一本斬っていない、間合がつかめていない、そもそも場所柄をわきまえていないという大恥である。
来客に目ざとく指摘された時に、若い頃の傷だとか、いろいろ言い訳するのだが、最も傑作だった言い訳がコレ。理沙が言い出した。でも、俺の部屋にもある。

「ノーモア広島、ワンモア長崎」
コラムニストがブラックユーモアのつもりで言い出したフレーズ。
転じて、なにかを引き合いに出して主張する時は、関連するものすべて包摂や列記しなければ、一部に限定したことになってしまうという教え。
ノーモア原爆、ノーモア戦争と言ったとしても、水爆ならいいのか、紛争ならいいのか、などとキリがない。これは屁理屈ではなく、そのくらい注意していなければ、不用意な発言が誰かのプライドを傷つけたり、後進の上達を阻害するということ。
ヤクザの世界では、一覧表に自分の名が載っていないとか、回状が自分のところだけ来なかったとかいうと、おまえなんかたいした存在でないから眼中にない、と宣言されたに等しく、これで殺し合いにまで発展する。
しかし、こういうことに気が回ると、それはそれで話が長くなったり、抽象的な一般論ばかりになってしまって、かえってわかりにくくなることも多い。

 

 →続き 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送