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 秀忠公の関ヶ原遅刻は、本当に遅刻だった

 

 わざと遅刻したという説は、デタラメ

徳川軍は、上田で混乱に陥ったにしても、これといって主な武将たちが死んだわけでもなく、本当にそんなに激戦だったのかどうかもよくわからない。
徳川家は幕府を開いてしまうので、徳川家に都合いいように歴史が書かれるから、上田では大変でした、遅刻はしかたがなかったんです、ということにしておいたほうが秀忠公に傷がつきにくいのかもしれない。

上田城が堅固だろうと、真田家の戦術がうまかろうと、秀忠公の軍勢の中には信幸侯がいる。
真田家の長男がついていながら、真田軍の手の内が何もわからなかったということはあるまい。
そもそも徳川軍が上田城を攻めるのは、これが初めてではないのだし。

戦後に処罰されたのは、最低のお調子者の牧野家くらいであり、しかも軽めの処分ですまされている。
牧野家は改易されていなくて、禁固刑のみ、しかも、そのあと加増されて、長岡藩主におさまっている。

もしかしたら、徳川家は、跡取り息子と主力部隊を温存したんじゃないか?、とかなんとか(笑)

外様を共倒れさせ、戦いが終わりかけた頃に到着すれば損害が少なくてすむ、という打算で、家康公と秀忠公が示し合わせて、わざと遅刻させたのだぁ、最初から遅刻するつもりだったのだぁ、ヤラセの演技だったのだぁ、牧野家は悪くないんだぁ、とかなんとか(笑)

あまりにもトンデモだが、これが意外に、長岡では支持者が多い説なのである。
そのくらい、牧野家は歴代名君として人望がある。

『 秀忠は九月九日頃、家康からの書状でもって、美濃方面において三成方西軍との決戦の時が近づいており、ただちに同地へ急速西上すべきことを命ぜられ、そこで真田制圧作戦を差し置いて急速西上へと方針を転換する。しかし三万の大軍を木曽路で急速展開することは無理とみて、自らは最小限の供回りだけを引き連れて疾駆西上するのである。
 しかし秀忠の取ったこの行動は、危険きわまりないものであったと言わなければならない。家康の東軍が関ヶ原で勝利したからよいものの、もし敗北でもしていたら、秀忠とその供回りの者たちは、西軍兵士たちによる掃討作戦や、土民たちによる落ち武者狩りの網にかかって命を落としてしまいかねない危険が大であった。

 
もし徳川勢力の温存を図ろうとしているならば、このような危険きわまりない行動を取る必要などはまったく無い。真田昌幸の立てこもる上田城を、気長に包囲しておればよいだけのことである。陥落させることができればそれもよし。持久包囲するだけに終始したとしても、特に問題とはならないだろう。真田制圧作戦は小山の評定によって東軍武将たちの間で取り決められたことだからである。』
(『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』)

家康公は本能寺の時、伊賀越えで死にかけている。
徳川家の跡取り息子ともあろうものが、天下の情勢がどうなるともわからない時に、わずかな供だけを連れて、狭い木曽路で馬を全力疾走させて、これじゃあ関ヶ原がどうであろうと、通りすがりの山賊に身ぐるみ剥がれるとか、ただ単に落馬とか、いくらでも死にかねなかった。

 

 家康公は、関ヶ原で、本当に困っている

根回しは、周到にしてあった。
小早川秀秋公、脇坂安治侯、朽木元綱侯、小川祐忠侯、赤座直保侯ら、南側の部隊は裏切る手はず
になっており、少なくとも脇坂安治侯は明確に確約してくれていた。
三成侯もうすうすわかっていたから、裏切りそうな連中は右翼の端っこに寄せて配置してあり、山と川で隔ててあるから裏切っても西軍を攻めにくく、しかも大谷吉隆侯の部隊をそばに置いて押さえてあり、しかも、これ以北の部隊だけでも勝てる人数があったけれども。

数のうえでは西軍のほうが多いが、西軍のうち3万3千ほどは、見てるだけ。
攻めかかられたら応じるが、防戦のみで、攻め込んで行かない。

島津家は、独自行動と称する参加拒否。督促されても、積極的に参戦しない。
三成侯は八十島助左衛門という使者を立てたところ、馬から降りずに口上を述べるのは無礼とかで追い返され、三成侯みずから島津隊へ出向くと、島津豊久侯が、今日はそれぞれががんばろう、前後左右の友軍を気にしている余裕はない、というようなことを言われたという。
島津軍はどっちみち、そんなに大勢は関ヶ原に来ていなかった。

家康公に内通している吉川家が通せんぼしたため、毛利、安国寺、長束、長宗我部の諸侯は動けず。
兵たちに弁当を食わせていて忙しい、とかなんとか、歴史に残る有名な言い訳をする。
そもそも輝元公が現場に来ておらず、毛利家は不参戦に近い消極的姿勢。
毛利家の領地は現状維持させてやる、とかなんとかテキトーな約束で、吉川家を丸め込んであった(戦後、毛利家は領地をまるまる没収され、吉川家が自分の取り分を毛利家に譲った)。

長宗我部家は、もともとやる気なし。
東軍に参加したかったのに、関所で封鎖されて連携できず、なりゆきで西軍になっちゃっただけなので。

さらに、石田軍の名将、島清興侯が、合戦の早い段階で被弾して、仕事ができなくなった。

これだけ西軍にマイナス材料が揃っていたにもかかわらず、西軍が少し優勢だった。
東軍は苦戦している!
小早川家の裏切りでやっと均衡が崩れたくらい、ギリギリの勝利。

西軍の実質主力である宇喜多家の精鋭の大軍が、大奮戦したこと。

石田本隊が、意外に優秀だったこと。
実戦を知らない事務官僚が率いる軍勢と思いきや、最後の最後まで統制されていて、動揺せず、逃げ出さず、とても勇敢だったという。

関ヶ原という地形が、狭い谷に閉じ込めて先頭部分を取り囲んで次々に倒すという、誰がどう見ても西軍有利の配置だったこと。
この陣形では、東軍が圧倒的に危険なのだけれども、小早川家その他が裏切る手はずになっていたから、東軍は奥へ進んでいた。
ところが、戦況が拮抗していて、どっちが勝つのかわからなくなったので、小早川秀秋公19歳としては裏切るかどうしようか迷って、動けなくなってしまった。
裏切るはずのものが裏切らないから、東軍はアテが外れて、まったく危険な状態、本当の本当に、ただ単に、取り囲まれた状態になってしまった!
家康公は、「せがれめに謀られた」というようなことを言って、しきりに右手の指をかんで、イライラしていたという。
イライラしているところへ、目の前を馬廻衆が乗りかかったので、家康公は怒って抜刀して、小姓の持っていた旗指物を斬り落としたという逸話もある。

関ヶ原で負けても徳川家は滅びない、跡取り息子と徳川軍を温存してある、と家康公が思ったとすれば、それこそ、この時かもしれない(笑)

しびれをきらした家康公は、威嚇気味の督促として、小早川軍に向けて発砲したので、秀秋公はビビッて裏切りを決めたというのが定説だが。
迷っている子どもさんをビクッとさせて、どっちに転ぶかは、読めないではないか。
こんなことをすれば、身をかばおうとして東軍に攻めかかる可能性だってあった。
家康公のやったことは、まったく一か八かだったと言える。
そうでもするよりほかに手段がなかった、なにもしないでいたら東軍は負ける可能性があったということ。

小早川家が裏切ったとしても、毛利一派が後方を塞げば、東軍は全滅する可能性だってあった。
小早川家が裏切っても、人数では西軍はそれほど劇的に劣勢ではないし、大谷隊が一度は小早川隊を押し返している。

豊臣一族で毛利一族の小早川家が東軍につくならば、もしかして秀頼公も輝元公も東軍なのでは…、誰が味方なのやらわからない、自分は包囲されているのでは…、という疑心暗鬼、心理的な効果、流れが変わった、勢いがついたことによって、脇坂・朽木・小川・赤座の兵が、つられて裏切ったというか、隣りの人に殺されないように、隣りの人が攻めていくほうへ攻めたから、大谷隊は壊滅し、宇喜多隊も支えきれなくなり、勝敗が決まったのである。

こんなギリギリきわどい状況に、徳川軍の主力3万8千が参加していないっていうのは、温存なんて余裕はない。
せっかく持ってる戦力を、役立てないのは、故意であろうとなかろうとヘタクソ。
戦力というものは、なるべくまとまった量を一気にぶつけて圧倒させるのが基本中の基本であり、小出しに使うと減る一方なのである。
温存したければ、使わなくてもいいから、「ただそこにいて、にらみを利かせる」だけでも、敵を圧倒しうる。

徳川家はこれから天下人を世襲していきたいのであり、ただでさえ出来の悪い秀忠公が天下分けめの戦いに参加しそびれたなんてことは、家康公なき後の徳川家の地位が怪しくなってしまい、それこそ短命豊臣政権の二の舞になってしまいかねない。

秀忠公をわざと遅刻させたなんてことは、どう考えてもありえない。

 

 →つづき 

 

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