秀忠公は「道草」したが、「寄り道」していない
ひのもと一のツワモノ 真田家の強さは、大坂の陣における信繁(俗称、幸村)侯の活躍も有名ではあるけれども。 田舎の小豪族にすぎない、武田軍の一武将にすぎなかった真田家が、独立した戦国大名しかも戦国最強などと高く評価されているのは、主に真田昌幸侯によるところ。 『たとえば話は飛ぶが、後年、大坂の陣が目前に迫ったとき、関ヶ原役で昌幸とともに西軍に味方して、戦後紀州九度山村に配流されていた真田幸村が、大坂城に入城した。徳川家康のもとにその報せが入った。このとき家康は、「親のほうか、子のほうか」の問いを二度くり返し、しかも、たまたま戸に手をかけていたが、その戸がカタカタと音をたてたほどにふるえ、入城したのが幸村であると知って、やっとふるえが止まったという。この時期、昌幸はすでに世に亡いのだが、家康は真田と聞いて動転し、身がふるえてしまったものらしい。』(『戦国武将100話』) 要するに、真田家に関することは、俗説がおびただしい。 どんな善政であれ、体制に対してはアンチの人たちがいるから、徳川家をやっつけてくれた真田家を持ち上げようとして、いろいろと尾ヒレがついているということを、まず、割引きしなければならない。
上田城は、落ちなかった 昌幸侯は、信濃上田で徳川軍を二度も撃退している。 1200対7000とか、3500対38000とか、信じられないような兵力差をくつがえし、たくみなゲリラ戦術によって徳川軍をケチョンケチョンに翻弄したことになっている。 上田城自体は、実際に見てきましたが、(江戸時代になってからの再構築なんだろうけれども)規模のわりに堅固で、武家のオーソドックスな風水を使っており、中国の古代兵法を知ってる人が設計したなという印象を受けました。
すぐ石田征伐に行くかと思ったら、そうでもない 関ヶ原に至るまでの全体的な流れは、別記。 会津の上杉景勝公を討伐に出かけたら、留守中に石田三成侯が挙兵したので、引き返して関ヶ原の合戦になったのだけれども、そう簡単な話ではない。 家康公は1か月も江戸城にこもって、動かない。 すぐに西へ引き返したのは、豊臣恩顧の大名たち。これは東海道を進んだ。 ところが、家康公の跡取り息子の秀忠公は、中山道を進んだ(当時は中仙道とも書いた)。 徳川軍の主力攻撃部隊を、ほぼ全部、秀忠公が率いて、上田へ向かう。 そもそも、上田は中山道ではない。 秀忠公は、最初から上田に用があるので、上田へ行くつもりで上田に行っている。 真田家側の記録『真田軍記』の「秀忠公上田城ヱ發向之亊」によれば、『野州宇都宮ヨリ直ニ中山道ヲ御上リ路次ノ序ナレハ信州ヱ發向有、上田ノ城ヲ攻落シテ上洛有ヘシ迚』、上洛の道の途中だから、ついでに落城させてやろうというような口ぶりで書いてあるが、これはおかしい。 堀内泰先生の『信州上田軍記』ほおずき書籍2006でも、ここを「路次のついでなればと」と口語訳してらっしゃる。この「序」は原文では「ついず」かもしれないが、ものごとの順番として宇都宮から中山道を進んだからおのずと信州に入ったというのではなく、いい折だからついでに上田へというニュアンス。そんなアホな。 関ヶ原の時は、全国各地で、みんなそれぞれ戦っていた。 東北では、伊達家や最上家が、上杉家と戦っていた。 秀忠公は、真田家を処置するのが任務、この時点では。 ただし、現存する書簡から察するに、秀忠公は真田家を片付けたら西へ行く予定だったことも事実。
開戦した理由 第二次上田戦は、まず、徳川家が真田家に対して恭順を求めた。 『上田軍記』に、『或記ニ云ク、秀忠公ハ上田ノ城ヲ攻ラレン爲ニ信州小諸ノ城ヱ着御有シカ眞田安房守カ武勇ヲ惜セ玉ヒテ』、上田城を攻めるつもりで小諸まで来たものの、せっかく優秀な昌幸侯を殺すのはもったいないので、話し合いで味方に引き込もうと試みたというような話になっているが、まあ、これは真田家側が書いた文章だから(笑) しかし、交渉は決裂。 秀忠公はバカにされてカッとなり、ムキになって、それこそ真田家の得意パターンにハマり、いいようにあしらわれて負けた、ということになっている。 1、だまされて時間かせぎをされた 昌幸侯は、最初は降伏するようなことを言っておいて(剃髪してみせたという説もある)、のらりくらりと時間を稼ぎ、密かに兵糧を運び込んだり、城下町に柵を設置したりして、さーて準備もできたのでひと合戦つかまつりますかねェ、などと言い出した。 『上田軍記』によれば、秀忠公は遠山九郎兵衛殿を上田城へ使者に出し(このとき信幸侯に、おまえからも誰か添えて派遣しろと命じて、信幸侯は坂巻夕庵法印殿を一緒に行かせている)、そのほう、このたび反逆したこと、もしや恨みでもあるのかと思ったが心当たりがないので、もし何かあるなら、わけを言え、『改テ御味方ヲ仕ル者ナラハ本領ノ上ニ御褒美ヲ賜ルヘシ』というようなことを伝えたところ、『忝キ思召也、委細畏リ奉テ候也、此趣ヲ舊臣共ニモ申聞セテ是ヨリ御返答申上ヘシ』、了解しました、家臣たちを説得して家中をまとめますので、というような殊勝な態度だったのに、『兎ヤ角ト日數ヲ過シ、其内ニ城ノ普請等諸事相調ラレテ』、ちゃっかり時間をかせいで戦闘準備をやっていたと。 また、『上田軍記』には異説がいくつか並記されている。 小和田哲男監修『日本の城ハンドブック新版』三省堂2005によると、 『上田軍記』に掲載されている、三成侯から真田家への手紙によると、『一 先書にも如被申候、貴殿事早々小室・ふかせ・河中島・諏訪之儀貴殿へ被仰付候間、急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事』とあり、小諸・深志(今の松本)・川中島・諏訪はあなたにまかせるから、しっかり掌握してもらいたい、できるかぎりの行いをするのは今まさにこの時だぞ、と言っている。 しかし、秀忠公が急いでいたなら、わざわざ中山道をそれて上田に寄らず、最初から押さえを置いて西へ向かえばよかった。 2、武士の信義をけなされた 秀忠公 >あなたは三成にだまされている、東軍は快進撃していて勝利は確実である、恭順して子孫繁栄しろ。 昌幸侯 >大坂奉行衆は秀頼公のための義兵を起したのである、いったん味方したものを裏切ることはできない、気に入らなければ攻めてくるがよい。 秀忠公 >それは義に似て義ではない、幼い秀頼公が指図しているはずがなく、奉行衆の私利私欲であることは誰もが知っている、だからこそ豊臣恩顧の大名たちも家康公についている、これがわからないのであれば、真田信幸侯は切腹、上田城は攻め落とすぞ。 昌幸侯 >太閤様の恩を受けておきながら秀頼公を見捨てて家康公につく連中は野心による行動である、たとえ息子が切腹させられて上田城を攻められても君臣の道を踏み外すわけにいかない、これが義か不義かは後世の人々が決める、攻めたければ攻めてこい。 って、これまた見てきたように伝えられているが。 とにかく、真田家が実際に言っても言わなくても、この状況というのは、あきらかに、「おまえら結局、豊臣家を滅ぼして天下を取るつもりだろ、ズルイよなあ、戦乱のない平和な世の中を作るというのはすでに秀吉公がやり終えてるんだから、ここから先は私利私欲だよな、『徳川家は幼い主君を裏切って天下を横取りした』と、未来永劫、日本の歴史に書かれるぞ、それに比べて、オレたちは負けて滅びたとしてもカッコイイぜ、ざまあみやがれ」ということであり、これは武士の名誉とか倫理観としては、痛い所をニヤニヤ見すかされている気がして、若い秀忠公としては冷静になりにくいのかもしれない。
遅刻は、不可抗力か 東軍のうち、福島、池田など、豊臣恩顧の大名が、あっという間に岐阜城を落として、大垣城に取り付いた。 秀忠公が関ヶ原に到着する前に、合戦は終わり。 譜代大名の軍勢のほとんどが、秀忠公の手元にあったので、まるまる役に立っていない遊び部隊、存在しないのと同じ状態になってしまった。 秀忠公は、わずかな敵さえ始末できず、逆に負かされて、しかも徳川家が真田家に翻弄されたのはこれが二度目、しかも前回と同じパターンにひっかかっており、おかげで大事な戦いをすっぽかし、2代目社長の行く末はどうなることやら、家康公は激怒。 9月 2日 小諸着。真田家に対し開城要求。 では、あと4日早く出かけていれば、間に合ったか? 関ヶ原の戦いというのは深夜2時に布陣して、豪雨のあとの朝霧の中で始めて、ほとんどは午前中にやってたので、14日夕方には到着してもらいたい。仮眠しないと兵士がもたない。 1週間やっていた上田攻めを、1日で終えなければ、9月15日には、おそらく間に合わない。 軍資金のことで最初に出遅れた分を、もっと短縮できたかもしれない。 天候の具合によっては、もっと遅くなったかもしれないし、もう少し早かったかもしれない。 秀忠公がもう少し西に進んでいれば、家康公もあと1日くらいは開戦を引き延ばして、秀忠公を待ったかもしれない。 すんだことをタラレバしてもしょうがないといえば、なにもかも、どうしようもない。
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