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 家康公の出陣と、秀忠公の遅刻 と、上杉家のトンズラ

 

  8月27日

知らせが江戸に届き、岐阜城があっけなく落ちたことを家康公は知る。

豊臣系大名が快進撃しているので、これなら、彼らが三成侯を討つのは間違いなさそう。
家康公も安心して出馬できる。
というより、早く行かないと、徳川家ヌキで三成侯を討ち滅ぼしてしまって、戦後、徳川家の発言力が低下してしまう。

このころ、上杉家や佐竹家が江戸へ攻めて来そうもないということも、確信できたのではあるまいか。
あの上杉家と戦ったということであれば、関ヶ原に参戦しなくても恥にならないし、というか、行きたくても行けないはず。

とにかく家康公は、すぐに西へ行かなければ、なーんにも出番がなくなってしまうということが確定した。

 

  8月28日

秀忠公は、なにも知らないまま、上野松井田まで進んだ。

家康公が9月1日に出陣するとの知らせが、この日、秀忠公のもとに届いていたという珍説もあるが、マンガか小説か何かが広めたデタラメらしい。
家康公の出発は予定を繰り上げてのものであることが、まずひとつ。
それに、秀忠公はこのあとも真田家攻略を続けている。
この日の日付で秀忠公が黒田長政侯にあてた手紙に、『信州真田表、仕置申付けべきため、』とある。
家康公が出陣するという連絡が届いたのであれば、真田家攻略という命令は打ち消されていなければおかしい。

 

  8月29日

家康公は、秀忠公に、急いで西へ向かえ!と指示を出す。
慶長5年旧暦8月は小の月なので、29日までしかない。

 

  9月1日

家康公は9月3日に出発する予定だったが、繰り上げる。
この日の早朝、卯ノ刻(江戸で旧暦9月アタマならば、午前5時10分ごろと思われる)、約32700を率いて、家康公も美濃へ出発。

この時は急いでいる! 家臣に、徳川軍の馬標を持たせて、先行させている(とにかく戦場に徳川軍がいたという既成事実を作って誇示するため?)。
さらに使者を先行させて、我々が到着するまでは戦うな〜などと諸大名に指示している。
これ以上、活躍されちゃうと困るのである。

秀忠公は、碓氷峠を越え、この日は軽井沢。

遠藤慶隆侯は、家康公の公認を得て、もともと自分の城だった郡上八幡城を奪回すべく、攻撃開始。

 

  9月2日

秀忠公は、あいかわらず、なーんにも知らないまま、この日、小諸到着。
真田家に恭順を求める。

真田昌幸侯は、降伏するようなことを言いつつ、のらりくらりと時間かせぎして、籠城準備を進める。

慶隆侯が郡上八幡城を落とす。

 

  9月3日

この日、大垣城には、西軍の実質的主力の宇喜多秀家侯1万7千が到着。

吉隆侯ひきいる脇坂・朽木・小川・赤座・平塚ら、北陸方面軍は、この日、山中村あたりに着陣。関ヶ原の南西にあたる位置。
ただし、大津宰相こと京極高次侯は、北陸からの転進途中で離脱、転進どころか東軍に寝返って、この日から大津城にこもる。詳細は田辺藩のページ。

後陽成天皇が、田辺城に、停戦の勅使をお送りになる。

 

  9月4日

真田家は、開城を拒否。

『上田軍記』に異説がいろいろ並記されている。
返答が遅いので6日夜に督促したところ、じつは時間かせぎでしたっ、篭城の準備に不足があったもので、えへへ、というような返答だったので、小諸へ復命、秀忠公が激怒して上田城攻撃を決定、秀忠隊が小諸出発と、ここまですべて6日夜のうちに起きた出来事だったとか。
5日夕方に上田城において開城拒否の返答で、6日黎明に秀忠隊が小諸出発だとか。

 

  9月5日ごろ

秀忠公が上田に布陣?

 

  9月6日

秀忠公が上田城を攻撃。詳細は上田のページ。

 

  9月7日

この日の日付で、秀忠公から、井伊直政侯と本多忠勝侯の連名へあてた手紙に、こうある。
『伊奈侍従殿、赤坂に至り御着陣に付て、この表御手合之儀延引の由尤候、真田表仕置申し付け、近日上国すべく候間、その節を期し候也。』

井伊直政侯らは、大垣城の目の前の美濃赤坂に到着し、とっくに布陣しちゃっている!
…と、
知っている!にもかかわらず、まだ上田城攻略をやっている。
真田家の処置が終わったら、近いうちにそっちへ行くから、そん時にねー、セィーユー♪
…などと、ほざいているのである。ぜーんぜん平気。

この時点では、真田家を攻略せよという命令が、まだ生きているのである。

結城秀康公だって宇都宮に残って関東地方を押さえているのだし。
秀忠公としては、これが自分の役割だということで、やっているのである。

しかし、上田が片付き次第、西へ行くつもりだった。

真田家さえ始末できたら、家康公から督促がなくても、秀忠公はおのずと西へ向かっていたのだから、ここは通説どおり、「真田家のことで時間をかけすぎて関ヶ原に遅刻した」というのは史実だと言える。
秀忠公が木曾あたりまで進軍していれば、家康公だって決戦をあと1日くらい延ばした可能性だってあった。

この日、三成侯が大垣城に戻る(8日だったという説もある)。

裏切り者にお仕置きしちゃうぞ部隊が、大津城を包囲。
毛利元就公の八男の末次元康侯を大将に、久留米侍従こと毛利秀包侯、左近こと立花宗茂侯など、精鋭も精鋭1万5千が派遣された。
これも田辺城と同様、関ヶ原の本戦に参加しそびれることになり、兵力を分散する結果となった。
大事の前に貴重な戦力をさいて、離反者のお仕置きに必死になっているというのは、要するに西軍の結束が甘くて、厳しく処罰しないとどんどん離反しかねなかったということを意味する。

秀元侯ひきいる吉川・長束・安国寺・長宗我部ら、伊勢方面軍は、安濃津城に続いて松坂城を落としたあと、長島城で福島正頼侯(正則公の弟)の強い抵抗にあっていたが、要請を受けて美濃へ転進、この日までには南宮山に布陣。関ヶ原の南東にあたる位置。

 

  9月8日

この日、小早川秀秋公の使者が、家康公のもとに来たという。
裏切りの話が進んでいたものと思われる。

 

  9月9日

秀忠公は、小諸へ撤退。
真田軍にかき回されてヘトヘトになったせいもあるが、この日、状況が変わる。

8月29日に江戸を出た使者が到着したのである。
上田はもういいから、西へ向かえ、急げ〜!という家康公の指令が伝わる。
この手紙を持ってきた使者は、大雨で利根川が増水していたために、到着が遅れたのだという。

『上田軍記』に異説がいろいろ並記されているが、家康公からの指令が秀忠公に届いたのは、21日だったなんて珍説もあるらしい。

東北地方では、兼続侯ひきいる上杉軍が、最上家の領地を侵略し始めた。

大友義統侯は、豊後方面の切り取りを開始。
西軍が、大津城の攻撃を開始。

 

  9月10日

海津城(当時は松城といった)の森忠政侯、小諸城の仙石秀久侯に、上田城への押さえを指示し、秀忠公は大急ぎで西へ出発(榊原軍など、一部は、すでに前日までに出発しているらしい)。
この時点で、9月15日の関ヶ原への参戦は、もはや不可能。

一説には、8日に出発しようとしたが、本多政信侯の意見で、真田軍の追撃に備えるため、真田領の和田峠を避け、役行者越え(大門峠方面)を通ったから、よけい遅くなったのだという(榊原康政侯だけはとにかく急いだので、和田峠をつっきったという)。
このあと悪天侯で、さらに遅れたともいう。

真田軍に追撃されることを心配しなきゃいけなかったのかどうかは、疑問点もあるので上田戦のページ。

大友軍に包囲された臼杵城は、中津城へ援軍要請。この日、黒田孝高侯が出陣。

 

  9月11日

秀忠公が、この日の日付で里見義康侯に出した手紙に、こうある。
『大柿の城に石田治部少輔、備前中納言、嶋津、小西已下楯籠候ところ、先手之衆取り巻き候間、早速罷り上るべき由、内府より申し越され候に付て、急ぎ上洛せしめ候、』(原文ママ)

家康公から指示があったから急いで上方へ行かなくちゃ、という話になっているのである、やっと。

この日、家康公はすでに清須城に到着しており、風邪と称して、1日、動かない。
秀忠公の到着を待った、というのが定説だが、すぐには来れないということは、わかりきっていたはず。
おそらく、悩んで、迷っていた時間なのだろうと思う。
何日でも気長に秀忠公を待ちつつ攻城戦にするか、得意の野戦で即戦即決か。
…って選択できるものでもないけど。

徳川軍の半分以上を、しかも攻撃部隊のほぼ全部を、秀忠公に預けてある。
家康公の手元にあるのは、本陣を守るための小身の旗本や御家人がほとんど。
徳川軍の主力をヌキで決戦をやると、戦後に発言力が取れない。
戦場で見事な勝利を飾った者でなければ、源氏の棟梁とか、幕府を開いて武家政権とかいうのは、説得力がないのである。

今は、家康公のカリスマと貫禄で、諸大名がついてきてくれている。
秀忠公ヌキで決戦をやると、家康公の死後、だれもアホの2代目なんぞに仕えようと思ってくれない。

秀康公、忠吉公など、ほかの息子たちのほうが優秀で、秀忠公は少し見劣りするのである。
今も、上田城を落とせないまま、マヌケづらをひっさげて、こちらに向かっているが…。

この徳川家というのは、どの徳川家かというと、八幡和郎著『幕末藩主の通知表』に、『暗君なしの島津家VSバカ殿ぞろいの徳川家』とかケチョンケチョンな大見出しが踊ることになる、そのバカ殿そろいのほうの家なのであるトホホ。

できれば、秀忠公を待ちたい。
しかし、うかうかしてると、毛利家が秀頼公をかつぎ出してきて、「豊臣家の意志」として打倒徳川を言い出すかもしれない。
この戦争に毛利家は消極的だし、過保護ママの淀殿がボクちゃんを戦場に出すわけがないのだが、秀頼公が出馬するという噂だけでも、秀頼公からのメッセージくらいでも、豊臣恩顧の大名は動きが変化する。

そしたら、もう諸大名はみーんな敵になってしまい、よくて中立の離脱、下手すると寄ってたかって徳川家に攻めかかるに決まっている。

なにしろ、この時の家康公は、攻撃部隊をほとんど持たない、裸の状態なのである。

そんなには待てない。
この日の夜、裏切りと裏切らせのプロフェッショナル藤堂高虎侯が赤坂から来て、福島正則公は裏切らないだろうな?ということを家康公と打ち合わせ。

本多忠勝侯は、秀忠公を待つべきと主張(手元に400人弱しか率いていないから)。
井伊直政侯は、秀忠公を待たずに開戦を主張(まともな攻撃部隊3600を率いていて、自分だけが活躍できるチャンスだから)。

兼続侯は、最上家の前線基地である畑谷城を攻めていた。
利長公は丹羽家との戦いを収拾つけ、金沢へ戻って兵力を整え直し、ふたたび出陣(一説には9月12日)。もちろん関ヶ原本戦に間に合わなかった。

この日、三成侯が増田長盛侯にあてた手紙に、『江濃の境目松尾の御城、いずれの御番所にも中国衆入れおかるべき御分別もっともにて候』などと書いており、どうやら三成侯は持久戦を構想していたようで。
関ヶ原を見下ろす松尾山に、毛利一派をたてこもらせて、東軍を釘付けにし、大坂からの増援を待つつもりだったらしい。
伊勢や美濃(太田、駒野)に城を修築したほうがいいというようなことも、手紙に書いているという。
つまり、戦いがかなり長引くものと思っていたらしいのだ。

 

  9月13日

家康公は岐阜に到着。
秀忠公は、まだ諏訪あたり。お話にならない。

西軍は大津城の濠を埋め終わり、城内に突入。
田辺城が降伏。詳細は田辺藩のページ。
孝高侯が、大友軍を撃破。詳細は中津藩のページ。

兼続侯は畑谷城を攻め落としたが、敵の人数の倍くらい、味方に死者を出した。

 

  9月14日

正午、家康公がいきなり赤坂の南の岡山に出現、金扇の馬標(徳川軍の大将の所在をあらわす目印)、葵章旗7(徳川家の家紋)、白旗20(源氏の旗)を掲げる。
家康公は簡単には来れないだろうと思っていたから、西軍は大いに動揺する。

家康公は、旗を巻いて持ち歩くなど、極力目立たないように行軍してきて、いきなり登場してみせた。

士気を保つため、景気付けに、島清興侯(左近。石田軍の大物)が、軽く小競り合いをする。
東軍を挑発して撤退、追撃してきた中村一栄侯と有馬豊氏侯の部隊を、用意しておいた伏兵で壊滅させて、小規模戦闘ではあるが完勝した。

家康公は野戦なら日本一の達人で、城攻めはあんまり得意でないことが有名だから、西軍としては、籠城して時間を稼ぎ、大坂から秀頼公や輝元公が来るのを待ちたいのだが、呼んだとしても来てくれるんだかどうだか、それに、今から呼んでも到着するまでに開戦になってしまうし、時間をかければ秀忠公もまた到着してしまう。

この日、奉行衆のひとり徳善院こと前田玄以侯が、仕事をほっぽり出して大坂城を去ってしまう。
これも消極的ながら東軍への内応だという説もある。

奉行衆のひとり増田長盛侯が、東軍に内通している、という噂もあった。

これでは大坂城を押さえる者がいないので、毛利輝元侯は大坂城から動けなくなった。

吉川広家侯に派遣された、三浦成美という使者が赤坂に到着。黒田・福島・井伊・本多の諸将と面会。広家の忠義に免じて輝元を見捨てはしない、という誓書をもらって帰った。
これで、毛利一族は動かないでいてくれる。

東軍は大垣城を無視して一気に佐和山や大坂へ進軍するかのような動きを見せ、しかも三成侯を動揺させるために、わざとそのように情報を流した、という俗説になっているが。
『家康が三成を関ヶ原に誘い出すべく、西軍に対して佐和山城攻めの情報を流すほどの計略を立てていたならば、情報を流すと同時に福島らに命じて大垣城から関ヶ原に至る通路に布陣させ、計略にかかって移動してくる西軍を徹底的に叩かせたであろう。事前に布陣を済ませた軍勢が、夜間移動中の軍勢を撃つほど楽なことはないからである』(藤本正行『完璧の迎撃態勢ー石田三成』歴史読本昭和六十年十二月増刊号)

三成侯は大垣城に籠城すると見せかけて、じつは松尾新城を拠点にするつもりだったので、わざと東軍を関ヶ原へ誘導したらしいのである。
そうでなければ、こんな狭くて不利な所に、東軍がわざわざ入ってくるわけがない。

この日、小早川秀秋公の1万5千だか1万8千だかが、松尾山に布陣。
ここにはもともと山城があったが、この時は松尾新城といって、伊藤盛正侯により敷地4万平方メートルもの拡張をすませてあった。

三成侯は、関ヶ原まで後退して、通せんぼ。
19時ごろ、雨の中をこっそり、西軍は大垣城を出て、関ヶ原に展開する。
この行動は、おそらく、川中島の戦いにおける謙信公の指揮を意識したものと思われる。
大橋先生の著書によれば、ここはあわてて城を出ずに東軍を素通りさせて、側面を突いたほうがよかったのだという。
堺屋太一氏は、すでに関ヶ原には大谷・小早川・毛利・吉川・長曽我部の大軍がいたのだから、東軍を素通りさせて追撃すれば挟み撃ちにできた、なのにわざわざ大垣城を出て自分たちも関ヶ原に後退して迎え討ったのは、主戦論者である三成侯(と宇喜多軍)が行かなければ、みんながやる気を出さず見過ごすという心配があったのではないか、との御見解。

この日の夜に大津城が降伏。

 

  9月15日

朝、大津城が開城して、京極高次侯は剃髪。
清正公は孝高侯を手伝おうとして、豊後方面へ出陣。

関ヶ原戦い。御存知とおり。

 

  9月17日

秀忠公は、関ヶ原の結果を知る。この時、まだ木曽の妻籠。
中山道の宿場で言うと、関ヶ原の16個も手前である。

東北の人々は、まだ関ヶ原の勝敗を知らない。
このころ上杉軍は、最上家の支城の上山城や長谷堂城を攻めていた。

 

  9月18日

佐和山城が落ちる。留守番していた石田一族は自害。

孝高侯は、熊谷直盛侯の安岐城、垣見一直侯の富来城など、西軍武将の留守を攻める。

 

  9月19日

秀忠公は赤坂に泊まる。

孝高侯が善戦していて援軍の必要がなさそうと見た清正公は、引き返して、小西行長侯の留守宅、宇土城を狙う。

 

  9月20日

秀忠公は、草津で、家康公に合流。
家康公は激怒していて面会拒否

 

  9月21日

粕川谷に潜伏していた三成侯が捕らえられる。

 

  9月22日

大坂城を立ち退けという家康公の指示を、輝元公が受諾。

榊原康政侯が、とりなし。

『 このとき、意を決した康政が、夜になって家康のもとへ参上した。康政はまず、すべては自分の責任であると陳謝し、ついで所信をとうとうと述べはじめた。
「殿のお怒りが、もし関ヶ原の決戦に間にあわなかったことを責めておられるのなら、殿のほうにも落度がなかったとは申されませぬ」
 さらに言葉をつづけて、
「もし父子ともども石田三成を討たれるお気持ならば、なぜ使者による連絡を頻繁になされなかったのか」
 と、家康に問いただし、
「ゆくすえは天下人ともなられる秀忠公が、弓矢の道で父上のお心にかなわなかったと人々にあなどられましたら、これは秀忠公のみの恥辱だけでなく、殿ご自身にもその嘲りがふりかかってくるのではありませぬか」
 とじゅんじゅんと説いたのだった。康政の顔は涙にぬれていた。
 さすがの家康も怒りを解き、翌日には秀忠と対面してその労をねぎらったのだった。
 秀忠の喜びは大きく、わが家のあるかぎり、子々孫々にまで忘れることはないであろう、とわざわざ書にしたためて康政にあたえたという。』
(中嶋繁雄著、桑田忠親監修、『戦国武将100話』立風書房1978)

 

  9月23日

この日、秀忠公は、家康公との対面を許されたらしい。

清正公が宇土城を落とす。
大垣城の福原直高侯が降伏。
京都に潜伏していた安国寺恵瓊侯が捕らえられる。

 

  9月24日

輝元公が大坂城を退去。

孝高侯が、この日までに富来城と安岐城を落とす。
このあと10月に入っても、九州ではいろんな戦闘がたくさん続く。

 

  9月29日

上杉家120万石は、2万5千の大軍だった。
しかも、どうかすると上杉景勝公よりも兵法に長けている直江兼続侯が、これを指揮するのである。

最上家24万石は、7千人そこそこ。
長谷堂城に1000、上山城に500、畑谷城に500など、周囲の支城に人員を配置するから、居城の山形城には4000人程度しかいない。

しかも、上杉軍は、最上軍を挟み討ち。
上杉家は会津のほかに出羽庄内も領有していたから、最上領は北も南も上杉領に接していた。

最上義光侯は、甥の伊達政宗公に援軍を要請し、3000人ほどの伊達軍が一応は来たが、伊達家もズル賢いので、見てるだけで、最上家を助けようとしなかった。

これだけ好条件が揃っていても、上杉軍は勝てなかったのである。
しかも、少なからぬ損害を出した。

この日、関ヶ原の勝敗の結果が、東北地方にも伝わる。
上杉家はすでに2週間も前から「敗軍」になっていたのだった。

 

  10月1日

勝てないどころか、とっくに負けていたと知ったからには、上杉軍はシッポを巻いて逃げ出す。
圧倒的多数をもって挟み討ちにしたのに最上軍を倒せなかった、というヘタクソはとりあえず棚に上げて、この10月1日の長谷堂城からの撤退だけは抜群にうまかったため、直江兼続侯は「退却の達人」という、みっともない名誉を得ることになる。

人を殺すのが楽しくて合戦してるようなバカ(たとえば前田慶次郎)は、負け戦のしんがりこそ腕の見せ所で面白いとか勘違いしていることが多いが、戦争は面白いからするものではなく、人々の幸せのためにやることであり、家臣と領民の命をお預かりする正規の武将ならば、安全確実に勝つように、できれば戦わずして勝つように、あらゆる政治手段を尽くすのであり、間違っても派手な撤退戦なんかしなくてすむように指揮するのである。
その時その時の目先の戦闘ばかりやっていて、政治の大局が見えてないのは、謙信公以来の上杉家の欠陥。

上杉家は最上家に追撃され、領地の一部(由利郡)を奪われた。
人様の土地を侵略したせいで、かえって、てめえの土地が減ったのだった。
もちろん戦後に移封されて、さらに大幅に領地が減ることになる。

石田三成侯、小西行長侯、安国寺恵瓊侯が、処刑される。市中引廻の上、六条河原で斬首。
赤松則英侯は自害。

このあと、福原直高侯、長束正家侯、九鬼嘉隆侯、赤松広通侯、小野木公郷侯らが、連日次々に自害。
真田親子は12月に高野山へ。

大坂の陣は、この14年後から。

 

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