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 家康公が江戸城にこもる

 

  7月29日

この日、三成侯が佐和山城を出て、伏見に到着。
ちっともはかどらない伏見城攻めにハッパをかけるため、自ら出張った。

このころ、ようやく、家康公は、三成侯の挙兵が豊臣家の公認であることを知る
この日の日付で、家康公が黒田長政侯に出した手紙に、『大坂奉行衆別心の由申来り候間、』、大坂の三奉行が謀反の心を起こしたとのこと連絡が来たもので、とある。

 

  7月30日

三成侯は昌幸侯へ、手紙を書く。
挙兵を早めに知らせなかったことの釈明と謝罪、諸将の動き、昌幸侯の正室は真田家の親戚でもある吉隆侯が大切に世話していてそれほど人質ってわけでもないから心配いらない、など。

この手紙は現存しているが、使者3名で持ってきて、1名は道案内を付けてすぐに引き返させ、残り2名はそのまま上杉家へ連絡に行って帰りにまた寄るとかなんとか書いてある。
こういう手紙は密書としてこっそり運ぶのか、おおっぴらに馬を全力疾走させて検問に合わないのか、敵味方の使者同士が遭遇しないのか、遭遇したら戦闘になるのか、どうもよくわからない。

また、『上田軍記』によれば、これと似たような文面の手紙が、8月5日付で書かれたことになっていて、それは、昌幸侯・信幸侯・信繁侯の3人が宛先になっていたりして、なんだかわけがわからないのだが、『此飛脚早々沼田越に會津へ御通候而可給候』とあり、どんな手段を使ってでも上杉家へ連絡させてくれと書いてある。

どうして徳川家は主力を派遣してまで真田家攻略にこだわったのか、よくわからないのだが、中継地点としての上田に楔を打ち込んで、三成侯と景勝公の連絡を断ちたかったのかもしれない。

 

  8月1日

西軍は、やっとのことで伏見城を落とす。

吉隆侯は自分の庭である北陸方面の攻略を本格的に始める。
西軍は、岐阜城・大垣城を絶対防衛ラインとし、尾張三河国境あたりで決戦に持ち込むつもり(と、三成侯から昌幸侯への手紙の中で述べている)なので、北陸と伊勢を取っておかないと、横からちょっかい出されて作戦方向が近江や紀伊半島へ変わってしまう。

三成侯は大垣城に籠る。

伊勢志摩方面の大名たち、安濃津の富田信高侯、松坂の古田重勝侯、上野の分部光嘉侯、鳥羽の九鬼守隆侯、桑名の氏家行広侯、長島の福島正頼侯らは、この日、家康公の了解を得てそれぞれ帰国を始める。自分の領地を固めるため。
東軍としても、伊勢を固めておかなければ清須城を圧迫されてしまい、美濃方面へ攻めにくくなってしまう。

九鬼守隆侯は、東軍の目付が同行していて見張られているので手抜きもできず、このあと父を相手に戦うはめになる。

 

  8月2日

かつて半農半武で上杉軍の一員だった越後の農民たちが、上杉家の越後侵略に呼応して、越後各地で嫌がらせ一揆を起こす。
このことも不安材料になって、前田家は動きにくくなったらしい。

前田軍が、大聖寺城を包囲。

 

  8月3日

前田軍は大聖寺城を落とす。この城も少人数のわりに奮闘したが、宗永侯は息子ともども自刃。

吉隆侯は北陸へ出発。
率いているのは脇坂安治侯・朽木元綱侯・赤座直保侯・小川祐忠侯・戸田勝茂侯など小粒で消極的な大名ばかりで、前田軍本隊と野戦するほどの実力がないため、計略で動揺させることにする。
「大谷軍が北ノ庄城へ向かっている。前田利長公が留守にしている隙に金沢を取っちゃおうと思って、大谷軍の別動隊が海路を北上している(そしたら挟み討ちで前田軍は壊滅)」とかなんとか、吉隆侯は半分デタラメな噂(半分は本当というところが疑心暗鬼を生む)をタレ流す。
一説によれば、利家公の次女(利長公の妹)の婿の中川光重侯が、吉隆侯に捕らえられ、利長公あてに虚偽の警告の手紙を書かされたともいう。

「100万の軍勢を指揮させてみたい」と秀吉公が絶賛した吉隆侯ほどの名将なら、いかにもそんな戦術機動をやりそうなので、前田家は迷いが出て考え込んでしまう。

 

  8月4日

この日、家康公は小山を出発、西へ行かずに江戸へ向かう(8月2日には移動を始めているという説もある)。

井伊直政侯だけは、徳川軍の先鋒を担当する部隊だから先行させる、…ということを、この日、家康公から豊臣大名たちにあてた手紙の中で述べているが、直政侯は病気で少し出遅れることになる。

 

  8月5日

家康公が江戸城に到着。
家康公は、このあと1か月ちかく江戸城を動かない。
一説には、藤堂高虎侯が、そうするよう家康公に進言したのだという。

家康公は、このころ200通もの手紙を各大名に送って、戦後に領地を増やしてやるとかなんとか、懐柔していた。
6月までは月に2通くらいしか手紙を書いてなかったが、7月は34通、8月は87通だか98通だか、9月は53通だとか、これは1万石以上の武将に宛てたものだけであり、ほかに、大名の家臣にあてたものがあったという。生涯を通じても、家康公にとって最も手紙を出した時期だった。

笠谷和比古氏の『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館2007を読むと、手紙なんぞは外出先でもできることであり、右筆に書かせて花押だけサインすればいいのだから、江戸城にとどまらなきゃならない理由にならない、やっぱり『内府ちがひの条々』のせいで豊臣大名たちがどう動くやら信用ならないから、はっきりするまでは動けなかったのだろう、と主張なさっている。

たしかに家康公は、うかうか西へ出かければ、悪者ということで倒されてしまう可能性がある。
三成侯が家康公を討とうとするのは、もはや豊臣政権の公式な意向。
秀頼公の御命令とあらば、豊臣恩顧の大名は従わざるをえない。
東軍についてる豊臣大名たちは、いくら三成侯を嫌いでも、豊臣家に逆らうつもりはないし、家康公に非があるのは事実なので。

しかし俺は、この時点の家康公が、上杉家と戦うこともまだ視野に入れていたから動けなかったのだろうと思う。

関ヶ原の戦いというのは、終わった後になってから、結果を知ってる者が、勝手にそう言ってるだけ。
この時点では、決戦場所が関ヶ原であることも、それが半日で片付くことも、
誰も知らない。

もしかしたら上杉家と佐竹家が本気で江戸を取りに来て、東軍を呼び戻し、関東地方で籠城戦になったり、あるいは、東日本は徳川家、西日本は豊臣家という図式で、何十年も内戦が続く可能性だってあった。

伊達家が確実に徳川家に味方してくれるっていうのは、政宗公だけであって、伊達家の家臣たちは徳川家に敵対しようと考えている人たちもいたから、なにかの拍子に伊達家が寝返る可能性だってあった。
伊達家は秀吉公の時にも、主君と家臣団が別々に行動している。
伊達家家臣団19名が連名で秀吉公に提出した誓約書なんてのが現存しており、もし政宗が豊臣政権を裏切ったらすぐに通報し、伊達家の当主をすげ替えて、豊臣家への御奉公を続けますなどと書いてある。

結果的に、上杉家は南下せずに最上家を攻め取りに行って、佐竹家は家中の意見が割れて立ち往生になったんだけれども。

西へ行くにしても、自分の領地を留守にするわけだから、備えを固めておかなきゃ出かけられない。

 江戸城には、松平信吉侯(のちの武田信吉侯のほう)・松平康元侯・石川家成侯・浅野長政侯・天野康景侯・諏訪頼忠侯など。

 上杉家に対する備えとして、宇都宮城に結城秀康公・小笠原秀政侯・里見義康侯・蒲生秀行侯・鳥居忠政侯・内藤政長侯、佐野城に佐野信吉侯、大田原城に大田原晴清侯・服部正就侯、黒羽城に岡部長盛侯・服部保英侯・大関資増侯、伊王野城に伊王野資信侯、蘆野城に蘆野政泰侯、烏山城に成田泰親侯、鍋掛の要害に水谷勝俊侯・皆川広照侯など。
 さらに伊達政宗公、最上義光侯など東北諸侯にも協力要請。相馬義胤侯も結果的に上杉家を牽制したという解釈もある。

 佐竹家に対する備えとして、結城城に結城晴朝侯、布川城に松平信一侯、小見川城に松平忠利侯、多胡城に保科正光家人、佐倉城に松平信吉家人、矢作城に鳥居忠政家人、勝浦城に植村泰忠家人、佐貫城に内藤政長家人、牛久城に由良国繁侯、笠間城に蒲生秀行家人、館山城に里見義康家人など。

 このほか、厩橋城に平岩親吉侯、三倉城に松平一生侯、高崎城に諏訪頼水侯、大胡城に稲垣長茂侯などがいて、笠谷先生によると真田家に対する備えだとするが、俺は、これも上杉家佐竹家への備えだと思う。
 真田家はそんなに大軍でもないし、徳川軍の主力で1か月も攻めれば、いくらなんでも片付くと思っていたのではあるまいか。

結城秀康公は、家康公の実子だが、秀吉公との和睦の時に豊臣家に人質に出された人で、秀吉公にかわいがられ、秀吉公の養子だった時期があり、とても豊臣びいきの人で。
だから西へ連れていくわけにいかないので、関東の留守番をさせたのだろうけれども。

西軍は、清須城に開城を要求したが、拒否された。
三成侯もこの日、佐和山城へ帰っている。

伊勢方面への攻撃部隊が出発。だいたい伏見城から鈴鹿峠越え。
この作戦の大将で毛利軍の実質主力の秀元公、東軍に内通してるくせになぜか本気で西軍やってる吉川広家侯、これらが関に到着。
長束正家侯、安国寺恵瓊侯は、椋本に到着。
このあと長宗我部盛親侯、鍋島勝茂侯、一説には宇喜多秀家侯も合流。伊勢湾には九鬼嘉隆侯。

前田軍は、今度は青木一矩侯の北ノ庄城を攻略すべく、まずは内応を打診。

 

  8月6日

三成侯は美濃垂井へ。
伊勢が固まらないうちに清須城が敵の前線基地になってしまったので、決戦は木曽川あたりを想定。

 

  8月8日 

この日の日付の、三成侯から昌幸侯への手紙に、こうある。
『内府、会津・佐竹を敵に仕り、僅かに三万の人数を持ち、分国十五城を抱へ、廿日路を上らる事、なる物に候哉。路地筋の面々、今度出陣候上方衆、如何に内府次第と申すとも、二十年来太閤様御恩を、内府去年一年の懇切に相替、秀頼様に如在を仕り、剰へ大坂に妻子を捨て申すべき哉。』

家康公は上杉家と佐竹家を敵に回し、主力攻撃部隊はわずか3万の人数で、領地の15の城にも人数を配置しなければならず、20日もかかる道のりを上方へ攻めのぼってくるなんてことが、できるものだろうか、いやできないよと反語表現。
上方への道筋に城を構えている大名たち、今回の会津討伐軍に参加している豊臣恩顧の大名たちは、いくら家康公の指揮下にあるからといって、20年も秀吉公から受けた御恩を、家康公の1年そこらの懇意と引き換えにして、秀頼様を粗末にして、しかも大坂に人質になっている自分の妻子を見捨てるだろうか、いや、そんなわけはないよと反語表現。

これは真田家を味方につなぎとめておくための手紙だから、本気で家康公が動けないと思っていたかどうかはわからないが、少なくとも上杉家か佐竹家が、ただでは帰さないだろうから、家康公が西へ来れたとしても無傷ではあるまいとは思っていたらしい。
実際は、そうならなかったけど。

このことは家康公も承知の上で、西へ行くなら一気に行って、いきなり登場してやろうと思っていたらしい。
本能寺の時、家康公は命からがら逃げ出すだけで精一杯だったが、秀吉公は神技のような高速移動をやって天下を取ったから、家康公も一度やらないと格好がつかない。

この日の日付で、本多正純侯から黒田長政侯にあてた手紙に、井伊直政侯が病気なので本多忠勝侯が清須城へ向かう、ということが書いてある。
これは先鋒を勤める部隊ではなく、軍目付であり、忠勝侯は「四百に足らざ人数」を率いて西へ向かった。

この日の日付で、家康公から黒田長政侯にあてた手紙に、毛利輝元とは兄弟の約束をした仲なのに、どうして大坂城に入って刃向かうのかと疑問に思っていたが、三成の謀反と一切関係ないとのことだから、とても安心している、というようなことが書いてある。本当にそう思っているわけではなく、この手紙は、このあと謀略の材料に使うのである。

富田信高侯(分部光嘉侯も同行)は、三河吉田城で池田輝政公から船100艘を借り、伊勢湾を横断しようとしたら、九鬼パパの海賊が食糧強盗に精を出しているところに遭遇してしまったが、西軍に参加するために抜け出してきたとか適当なことを言って、なんとか通過した。
安濃津城では信高侯の妹婿か何かが留守番していたが、たった20騎で抵抗しても無理なので、人質を出して西軍のフリをして信高侯の帰りを待っていたために、僕ちゃん西軍ですというハッタリに信憑性があったらしい。

伊勢では、すでに西軍の伊勢方面攻撃部隊の先鋒が到着していたが、それがたまたま長束軍と安国寺軍(長束正家侯は算数の能力で採用された事務官僚。安国寺恵瓊侯は正規の大名ではなく外交僧。いずれも西軍最弱のザコ)だったため、船団を見て「ついに出陣してきた家康軍」と勘違いし、その動揺している様子を見てとった信高侯も人が悪いので法螺貝を吹いたり勝鬨を上げたり、大いに虚勢を張ってみせたところ、かわいそうに、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していったという。

大谷吉隆侯のデマを信じ込んだ前田利長公は、あわてて引き返す。
ところが、帰り道は、小松城のそばを通らなければならないので、きっと丹羽軍が攻めてくるから、利長公は兵力を2つに分け、別動隊で小松城を掣肘しつつ、その隙に本隊を通過させるつもりでいた。

 

  8月9日

三成侯はこの日、垂井で、大垣城を司令部にするため明け渡してもらう交渉。

前田軍を、丹羽軍が待ち伏せてボコボコにする。浅井畷の戦い。
小松城の東の、ぬかるみで道が極端に狭い地形で、一説には雨の中、未明に夜襲だったという。

丹羽長重侯は西軍というより、前田家の敵であり、前田家が東軍だから西軍になっていた。
秀吉公死後の徳川VS前田の確執では徳川側についており、家康公から前田家の監視という指令を受けていたくらい、決して家康公の敵ではないのだが、東軍の北陸方面軍の司令官が前田家なので、前田家の部下になるのは死んでもイヤだから、西軍をやっているのである。
そもそも親の代から、丹羽家と前田家は仲が悪く、このあと江戸時代を通じても、ずーっと犬猿の仲だった。
丹羽家120万石は、一時は4万石さらに浪人にまで没落したが、織田四天王の家であるから、丹羽家から見れば、柴田家や羽柴家の家来筋という一段低い前田家なんぞが80万石(このあと100万石超)だなんて、生意気でけしからんのである。

 

  8月10日

というわけで、おそらくこの日には、富田信高侯は無事に安濃津城に帰り着く。

前田利長公も、この日、命からがら金沢城に帰り着く。

このあと弟の前田利政侯は七尾城で動かなくなり、実質、東軍を離脱。
もともと家康公をそれほどよくは思っていないから、積極的に協力する気は無かった感じ。
一説には、前田家が領地を留守にしていると上杉家が盗み取りに来る、というデマを、大谷吉隆侯が流し続けたという。

 

  8月11日

三成侯は大垣城に入る。8月10日だったという説もある。

 

  8月12日

西国大名が留守にしているこのチャンスに、肥後と筑後は、加藤清正公が切り取り放題で自分のものにしてよいと、この日の日付で家康公から許可が出ているという。

 

  8月14日

東軍の先鋒の大名たちが、清須城に入る。
福島正則公らは11日には到着していたともいう。

 

  8月16日

徳永寿昌侯・市橋長勝侯らは、丸毛兼利侯の福束城を落とす。

 

  8月17日

東軍は、大垣城と桑名城の連絡を封鎖する。
桑名の氏家行広侯は、中立しようとしたが、西軍に勧誘され、断ったが、西軍が押し寄せてきたので西軍に参加せざるをえなくなってしまう。

長政侯は、吉川広家侯へ、8日の家康公の手紙をそのまま転送。
今度のことに輝元公は無関係だと家康公は思っている(嘘だけどな。笑)、毛利一族の安泰のため、こちらは私がうまくやるから、あんたもうまくやれ、東軍が勝ってしまってからでは手遅れだ、というようなことを、この日の日付で書いた自分の手紙も添えて、服部治兵衛という使者に持たせて送った。
吉川家は親の代から大の豊臣嫌いであり、なんで猿の百姓が天下をとって、名門毛利が臣従せにゃならんのか、と思っているから、毛利家は吉川家から崩す手順なのである。

 

  8月19日

徳永寿昌侯・市橋長勝侯らは、美濃の城をどんどん攻める。
高木盛兼侯の高須城、高木正家侯の津屋城、高木帯刀侯の駒野城を落とした。

いつまでたっても家康公が清須に来ない。
血の気が多くて怒りっぽい正則公は、『劫の立替に遊され候』、我々を(囲碁の)捨て石にするおつもりか!?と、イライラしていたという。

この日、家康公の使者の村越茂助殿が、清須城に到着。
家康公の出陣はどうなってんだ!?、と詰め寄られて答えるには、『おのおの手出しなく候ゆえ、御出馬なく候。手出しさへあらば急速御出馬にて候はん。』(『慶長記』)
なんで攻めないの? やる気あんの?と。
なんだよっ!どんどん攻めちゃってよかったのかよ!

 

  8月20日

清須城の東軍諸将は、この日、岐阜城攻略の作戦会議。

 

  8月21日

東軍は、清須城を出発。
ずっとイライラ待たされて、やっと出番なので、せき止められたダムが決壊したかのように、先を争うようにして進む。

本当に先を争って大喧嘩になった。
戦場に一番近い清須城を所有するオレ様が、この地域の作戦を統括するのが、武士の慣例からいっても当然だとする福島正則公。
かつて岐阜城の城主だったから土地勘があり、家康公の娘婿であるオレ様が、家康公の代理人であり司令塔だとする池田輝政公。

どっちが先鋒か、一番乗りか、なんてことで、さんざんモメて、周囲の者が必死になってなだめる。山内一豊侯が、かなり強い口調でたしなめたともいう。
結局、この2人は二手に分かれて、上流と下流で木曽川を越える。

幽斎公が智仁親王の停戦勧告を拒否(2回目)。

 

  8月22日

丹羽長重侯は、前田利長公に和睦というか降伏を申し入れ。実際はもっと後日だったという説もある。

まだ岐阜城に織田家の本家が生きていた。
清洲会議のとき三法師と呼ばれていた織田秀信侯、21歳、いわゆる岐阜中納言。
なお、有楽町でおなじみ織田長益侯(有楽斎)は、信長公の弟で、これは東軍。
籠城して持久戦にしたほうが良かったのかもしれないが、そこは信長公の孫だから、城外に討って出る。
東軍が木曽川をどこで渡るか読めないので、兵力を分散して待ち受けた。
明け方、輝政公らと遭遇戦。

狼煙の合図で、下流の正則公らと同時に川を渡る手はずだったが、敵と出くわしてしまったので、上流の輝政公らは開戦、先行する。

もともとイライラしやすい正則公は、抵抗にあって渡河地点が予定よりどんどん南下の遠回りになってしまい、輝政公に先を越されたことを悔しがり、イライライライラ激怒しつつ、竹ヶ鼻城(城主は杉浦重勝侯)を落とす。

 

  8月23日

というような具合なので、岐阜城はあっさり半日で燃え落ちる。
しかし東国にいる者は、まだ、このことを知らない。

東軍は岐阜城を落として勢いに乗っているから、ここで士気をくじいておかなければならない、疲れて祝杯あげて眠っているところへ夜襲をかければ楽勝できる、と宇喜多秀家侯が主張。
しかし三成侯は、みんなが揃ってから昼間に堂々とやるべきだとして却下。
…というような俗説があり、さすが御役所仕事、手続き形式主義、などと後世の人々から酷評されているが。
西軍の援軍を遮断するため、黒田隊や藤堂隊の一部は、この日、石田本体の一部と交戦しているともいう。

秀忠公は、徳川軍の主力部隊を率いて、真田家を攻略することになった。
この日、秀忠公が書いた手紙には『信州真田表仕置きのため、』とある。
関ヶ原へ行く途中で思いつきで寄り道ではなく、真田家を処置するため、上田へ行くつもりで上田へ行くのである。

 

  8月24日

東軍の先鋒はほぼ全員、大垣城からすぐ近く(1里少々)の赤坂の高台に陣を構える。
もはや、いつでも三成侯を滅ぼせる状態。

にもかかわらず秀忠公は、この日、宇都宮を出発、信濃上田へ(『上田軍記』では9月1日に出発したと書いてある)。

『一、最初の計画は、宇都宮から江戸にかえり、諸準備をととのえてから中仙道を進発するはずであったが、宇都宮から直接信濃路に進むことになったので、諸将は軍資金に窮し、これを調達するために本多正信が江戸に行ってくることになり、進軍がとまってしまった。』
(大橋武夫先生『図鑑・兵法百科』マネジメント社1983)
軍資金不足で進軍が止まったという話は、友山先生の『岩淵夜話』が出典らしい。

安濃津城は、西軍3万に攻められ、この日から籠城戦。
分部光嘉侯は1万石で少人数なので上野城を捨てて安濃津城に合流しており、松坂の古田重勝侯からも50人ほど援軍が来てくれて、とっくに帰農していた北畠家や長野家の旧臣たちも馳せ参じてくれて、信高侯の奥さんまでもが鎧を着て片鎌槍で奮戦したが、それでも総勢1700(一説には1300)では圧倒的に不利。
敵は伏見城を落としてきた連中で、勢いに乗っている。
まんまと騙された海賊が激怒しちゃってるから、伊勢湾は封鎖されていて、東軍に救援を頼みたくても連絡つけられない。

 

  8月25日

安濃津城は開城勧告を受諾、降伏する(一説には8月26日早朝だともいうが、昔は、日の出までは前日の日付だった)。
信高侯と光嘉侯は剃髪。
しかし、よく苦戦に耐えたので、戦後に復活さらに加増してもらえた。
これは、本来なら岐阜城で抵抗していたはずの敵を、自分のとこへ釘付けにした功なのだという。

 

  8月26日

三成侯は、大坂城の輝元公(と秀頼公)、北陸方面の吉隆侯、伊勢方面の秀元侯らに、美濃への集結を要請。
岐阜が陥ちて戦略の見通しがますます狂ったため、大垣城付近が決戦の場になりつつあった。

三成侯自身は、この日から大垣城を留守にして、いったん佐和山城へ戻る。
佐和山の近くの高宮で、筑前中納言こと小早川秀秋公の進軍が止まったので、自分の城を盗られるんじゃないかと心配になったらしい。

秀秋公は病気と称して、ずっと近江で日和見を続けていた。

秀秋公は、豊臣家を継がせてもらえなくて、毛利分家の小早川家に養子に出された人だから、本当ならもっと儲かっていいはずだ、とは思っていたらしい。
三成侯は、いずれ関白にしてあげますと約束していたというが、そしたら秀吉公と対等くらいになれるわけだが、秀頼公をかつぐ人の側にいても、たかがしれてる。
家康公側にくっついていれば、少なくとも毛利本家と対等くらいになれるんじゃね?、もしかすると自分を擁して秀頼公を追い落としてくれちゃったりして?、という希望もあったのかも。

 

 →つづき 

 

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