石田三成侯が挙兵
6月21日 会津征伐に参加するため、諸大名もそれぞれ出発したが、この日、刑部こと大谷吉継侯の軍勢は美濃垂井に到着、病気と称して逗留、動かなくなる。
7月2日 三成侯は吉継侯を佐和山へ呼びつけ、挙兵への加担を要請。 家康公は江戸城に到着。
7月7日 吉継侯は、ひとまず垂井に戻る。
7月11日 吉継侯は、敗戦と戦死がわかりきっていながら、三成侯に協力することを決意。佐和山へ。
7月12日 三成侯は、この日、増田長盛侯と、安国寺恵瓊侯(を通じて、毛利輝元公)には挙兵を打ち明けていたという説もある。 三成侯が謀反をたくらんでいるようだ、…という手紙を、この日の日付で増田長盛侯が書いて、永井直勝侯に送っている。 これを根拠に、「増田長盛侯は家康公に内通していた!」などと書いてある本が多いが、そうではない。 この時点では、石田三成侯の挙兵は、私的な謀反。 この日、三奉行は連名で、毛利輝元公にも同様の手紙を書いている。 三成侯(と長束正家侯)の領地が近江だったこともあり、この日、三成侯の兄の正澄侯を愛知川に派遣して関所を固め、通行を封鎖したので、西国の大名は東軍に参加したくても連絡しにくく、このあと「積極的には戦わない西軍」になったり、「東軍に内通している西軍」になったりした。長宗我部盛親侯、鍋島勝茂侯、前田茂勝侯など。
7月14日 大谷吉隆侯は、北陸方面の司令官として、自分の領地の周辺の諸大名の調略を開始。 堀尾吉晴侯の越前府中5万石は、隠居料として家康公からもらったものであり、つまり、すでに引退して息子に代替わりしていたために、会津征伐には息子の忠氏侯だけ参加して、自分は帰国して留守番であり、しかも帰国途中に暗殺されかけて負傷し、以降ずっと療養中だったので、一連の関ヶ原の戦いには実質不参加に近い状態。
7月15日 要請に応じ、安芸中納言こと毛利輝元公が広島城を出発。
7月16日 三成侯は、諸将の妻子に、大坂城へ出頭するよう要求。早い話が、西軍武将が裏切らないよう人質の確保。
7月17日 輝元公が大坂城に入る(16日との説もある)。 三成侯は、この日までに、豊臣家と奉行衆を味方につけ、大坂城を占拠。 大坂城西之丸には家康公の留守居役として佐野綱正侯がいたが、追い出された。 ここからは、石田三成侯がやってることは豊臣政権の公認! この日、三奉行が連名で、『内府ちがひの条々』というものを書いて、諸大名に送りつける。 これに呼応した軍勢が、以後、「西軍」になる。 細川忠興公の正室たま、いわゆるガラシャ夫人は、大坂の細川屋敷を捕方に包囲され、警護の侍たちが抵抗したが、ガラシャ夫人は反撃するなと指示、誰が点けたんだか屋敷は炎上、キリシタンなので自害ができず、老臣に薙刀か何かで腹だか胸だかを刺してもらったという。 ガラシャ夫人の毅然とした派手な死に方に、三成侯も腰くだけになり、西軍武将の妻子を人質に取ることはウヤムヤに緩和され、監視する程度になった。
7月18日 西軍は、まず近畿を掌握しようと動く。 輝元公の名において、伏見城に開城を要求。 島津義弘侯は、家康公に言われたとおり、まじめに伏見城を守ろうとしたが、元忠侯に入城を拒否されて追い返され、それで西軍に参加せざるをえなくなったとかなんとか(このへんは、戦後になってから島津家がいろいろ言い訳したのかもしれないが)。 もともと家康派の細川幽斎公は、義娘をブッ殺されて西軍に協力するわけがないんで、丹後田辺城に籠城と決め、周辺の支城を自焼。
7月19日 西軍は伏見城を包囲、この日から攻撃開始。 三刀谷孝和侯が、田辺城に馳せ参じる。詳細は田辺城のページ。 この日、増田長盛侯の12日の手紙が、やっと江戸城の家康公のもとに届く。 このへんの「連絡の時間差」の感覚が、全然わからない。 忠臣蔵の時は、3月14日午前10時ごろ刃傷があり、19日早朝、赤穂に第一報が伝わっている。 水産高校の漁業練習船えひめ丸が米海軍の原潜にオカマほられて沈没して、尊い国民9人の命が失われていた時、森喜朗首相は携帯電話で第一報を受けたのが午前10時50分、このときゴルフ中であり、自分たちの後ろでコースを回っている組に悪いから、という理由で、午後0時20分までゴルフを続けている。 秀忠公が江戸城を出発して、会津へ向かう。
7月20日 西軍が田辺城を包囲。 前田利長公、真田昌幸侯らに、西軍への誘いが届く。
7月21日 西軍が田辺城攻撃を開始。 九鬼嘉隆侯が、稲葉道通侯の岩出城を攻撃。 家康公が江戸城を出発して、会津へ向かう。 17日に三奉行が連名で書いた、西軍挙兵の手紙が、真田家に届く 真田家は会津征伐に参加して行軍中だったが、下野犬伏で家族会議。 真田昌幸侯とその次男の信繁侯(いわゆる幸村)は、西軍に参加するため、上田に帰る。 昌幸侯の正室は、石田三成侯の正室とは姉妹だという説もある。 豊臣・石田側と、徳川側、どちらとも親しくしておいて、どちらが勝っても負けても真田家が存続するように保険をかけたであろうことは、御存知のとおり(前田、九鬼、大友、鍋島家なども、同様のことをやっている)。
7月22日 政宗公が、上杉家の城のひとつ白石城を攻める。 前田利政侯が七尾城を出発。利長公の小松城攻めに参加するため。
7月24日 家康公は、下野小山に到着。 この日の日付で、家康公から真田信幸侯へ、賞賛の礼状が出ている。
7月25日 伊達家は白石城を落とし、さらに河股城を攻撃。 上杉景勝公は、風貌だけは上杉謙信公にそっくりだったが、見た目だけであり、じつは謙信公の真の後継者は直江兼続侯であり、「謙信公のすべてを受け継いだ」と言われるほど、兵法と知恵と勇気と人柄を兼ね備えた、まさに名前のとおり兼続侯だった この時の上杉家の作戦方向は、伊達家ではなく、徳川家のはず。 こんなことをやっていたために、徳川軍をみすみす無事に帰らせてしまう。 家康公と諸大名が、この日、下野小山において、今後どうするかという会議。 時代劇なんかだと、あらかじめ黒田長政侯が、「幼い秀頼様が判断や指示をなさってるわけがないではないか。これは全部、石田三成が、秀頼様の名をかたって勝手にやってることなのだ。あいつは昔から、いつも安全な後方でぬくぬくと腰巾着をやってやがる最低な奴だ。おかげで朝鮮ではオレ達どんだけ苦労したことか。決して秀頼様を討つのではない、三成の私利私欲を討つのだ」、とかなんとか、福島正則公にうまく吹き込んでおく。 正則公は感情の起伏の激しい人だから、簡単にだまされ、カーッとなる。 家康公は、「石田側につきたい者はそうしてもいいですよ。恨みに思わないし、帰り道の安全は保証します。妻子を人質に取られていたりして、みなさん大変でしょうから…」と表明。 すると正則公が、「いえいえ徳川家に御味方しますっ! ずっと前から石田の野郎だけは大嫌いでしたっ! あいつの得になることをわざわざするなんて絶対イヤです!」というようなことを言ったので、そう言われてみれば確かに誰もが石田さんのせいで少なからず迷惑したおぼえはあるし、豊臣恩顧のうるさ型の大物が真っ先にそう言うんじゃ、ほかの大名たちもついついつられて、徳川家への服従を誓い、豊臣政権を崩壊させることになるとも気付かず、天下分け目の戦いに向かっていった… …とかなんとかって話になっていたりするが、こんなの大ウソ。 三成侯の挙兵が豊臣家公認だということを、東軍の武将たちは、まだ知らない。 三成侯に不穏な動きがあるから戻って来てくれ、ということを、淀殿も、大坂城の奉行たちも、家康公に要請してきている(おそらく家康公は、その手紙を一同に見せたはず)。 関ヶ原の戦いが終わったって、大坂の陣が終わるまでは豊臣家の天下のまま。 上杉家を征伐しに出かけた軍勢が西へ引き返す。 掛川城主の山内一豊侯が、「家康公に味方する証として、自分の城を兵糧ごと明け渡し、人質を差し出す」などと申し出たため、東海道筋の大名たちはみんな、これにならう、…というか、そうしないと自分だけ怪しげなダメな奴になっちまうから、しないわけにいかなくなる。 兵糧を差し出すという話は、秀吉公から預かった兵糧20万石を家康公に差し出すと正則公が申し出た、という説もあるらしいが根拠不明。 秀吉公も生前、家康公が簡単に攻め上がれないようにということで、東海道には豊臣恩顧の義理がたい人ばかり配しておいた(しかも駿河府中の中村一氏侯は、守城の名人)。それが戦わずして通過できることになったので、家康公はとても喜んだという。 駿河は、沼津城に内藤信成侯、興国寺城と府中城に菅沼定仍侯。 徳川直属の兵力が、それだけ差し引かれてしまうわけで。 真田家が半分去ったこと以外では、美濃岩村城の田丸直昌侯も離脱したというが、この人は大坂城にいたので小山評定に参加していないともいう。
7月26日 小山評定の東軍のうち、まず豊臣恩顧の大名たちが先行し、東海道を西へ。前線基地となる清須城へむかう。 前田利長公2万5千が、金沢城を出発。
7月27日 この日の日付で、榊原康政侯が秋田実季侯に出した手紙に、『石治少・大刑少、別心仕ニ付て、大坂より御袋様并三人之奉行衆、北国羽肥州なと、早々内府上洛いたされ尤の由申来り候間、右の別心仕る両人を成敗のため、』などとある。 淀殿からも、大坂三奉行からも、前田利長公からも、要請があったから、徳川家は大坂へ戻って石田三成侯を討つのだ、自分たちは豊臣政権の正規軍だ、と思い込んでいるのである。 あるいは家康公は、すでに情報をつかんでいたのかもしれないが、他の大名にはそう思わせたままにしておくことが可能だったということ。 昌幸侯が21日に書いた返事の手紙が、この日、大坂城に届いた。 この日の日付で、家康公から信幸侯へ、上田の所領安堵状が出ている。 前田軍は、北陸無双と言われる堅さの小松城をあきらめ、押さえの兵だけ少し残して通過、そのまま南進して、大聖寺城の山口宗永侯2千を攻めに行く。 幽斎公が智仁親王の停戦勧告を拒否。
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