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 石田三成侯が恨まれる

 

 天正20年(1592年)4月2日

野望を成し遂げて夢をつかむ人というのは、ものすごいエネルギーで戦うから成功するのだが、成功しちゃった後は、もう攻撃するものがなくなって退屈で、エネルギーのぶつけ先がないから、ちょっとしたことで身内を疑って処刑してみたり、ヒマでしょうがないので、息子のやることにいちいち口出ししてみたり、いろいろと晩節を汚すことが多い。
歳も歳なので、プライドが高く、怒りっぽくて、意固地になって引っこみつかなくなっているのである。

秀吉公は、天下統一が終わって何を言い出すかと思えば、明を征服するとかで、まずは朝鮮を攻めることになった。

この日、侵略部隊は釜山に上陸。
12月には改元して文禄元年になったので、文禄の役と呼ばれている。

侵略行為に優劣はないが、大日本帝国の場合は、朝鮮があんまりだらしなくて、朝鮮を取られると日本も危ないので、取られる前に取ったのであり、手続き上は合法な併合であり、教育とインフラ整備をちゃんとやったから、まだ盗人なりの言い訳があったのだが、秀吉公の時は、ただ単に、よその国に御迷惑をかけただけ、まったくの、ただの侵略だったのである。

2007年の追悼行事では、宇喜多家や小西家の子孫が出席して、先祖がおこなった侵略をおわびしたという。
首相の靖国公式参拝よりも、こういうことをちゃんとやるべきであり、清算しておかないと、中国韓国の悪を糾弾しにくい。
「先に日本が悪いんだから、日本に対して何をしてもかまわない」という理屈を、早く封じたほうがいい。
猿廻しの猿でさえ、反省はするのだ。
まして我々は、すっきりとすがすがしいことを売りにしている武士の民族ではないか。

 

 文禄2年(1593年)

ざっと16万の日本軍が快進撃し、加藤清正公がシベリアンタイガーをブッ殺したり、なんの罪もない朝鮮人たちをブッ殺したり、朝鮮王子2名を捕まえたりしたが、朝鮮の民衆の蜂起などで戦局が膠着、休戦

 

 文禄5年(1596年)9月

和平交渉になったが、双方の担当者が、うまく進んでいない交渉を進んでいるように見せかけ、相手が譲歩して自分たちが得しているかのように上司に報告していたので、あとになって、話が違う!そんな条件は飲めない!とかで秀吉公が激怒、決裂する。

 

 慶長2年(1597年)1月

ふたたび朝鮮へ派兵。慶長の役。

 

 12月22日

この日、蔚山城が包囲される。第一次蔚山戦。

日本軍は、朝鮮各地に日本式の城(倭城)をいくつか築いていた。
南東の海寄り、現在の韓国の蔚山広域市に、加藤清正公の設計、浅野幸長侯や毛利秀元侯らによる施工で、蔚山城という城を、11月中旬から作っていた。
そこへ、明・朝鮮連合軍が襲ってきた、というか襲われて当然なんだけど。
44000とか56900とかいう大軍だったという。

蔚山城の日本軍は10000人程度。
城は未完成、食糧の貯えもない、しかも朝鮮の冬だから、餓死より先に凍死ってくらい寒くて、ものすごく悲惨な籠城になる。
脚絆がずり落ちるなあと思ったらスネが骨と皮だけになっていたとか、紙を食べて尿を飲んだとかいう。
自業自得ではある。

 

 慶長3年(1598年)1月3日

釜山の日本軍本営から、1万3千人の援軍が到着。

 

  1月4日

蔚山城は救われ、大逆転の大勝利になり、ざっと2万人の中国人と朝鮮人をブッ殺す。

嫌韓流の人たちのサイトを読むと、この時、勇敢な朝鮮人はみんな戦死したから、戦わずに逃げ出した弱虫の遺伝子だけが後世に残り、このあと朝鮮人は卑怯者ばっかりになったのだというが、それなら、太平洋戦争でまじめな日本人もみんな死んで、今はバカばっかりが生き延びているということになるじゃないか…。

敵は総崩れになっているのだから、ここで一気に追撃すれば、もっと大きな戦果が得られたのだが、もともと厭戦気分で消極的な武将も多く、やる気マンマンだった清正公でさえ、もう終戦を模索していた。

蔚山城では、このあと9月にも戦いがあり、それも清正公が完全に撃退しているが、もはや守りに徹していた。

 

  1月26日

朝鮮を侵略中の武将たち13人は、連名で手紙を書き、敵陣に突出した3つの出城、蔚山城・順天城・梁山城の維持が困難であるから放棄したい、戦線を縮小したい、と秀吉公に嘆願。
秀吉公は激怒して却下。

石田三成侯の一味の軍目付たち、福原長堯侯(三成侯の妹の夫)、熊谷直盛侯(同)、垣見家純侯(福原長堯侯の与力大名)らが、「こーんなに戦いを手抜きしてた人がいました!」ということを秀吉公にチクる。

 

 慶長3年(1598年)1月10日

越後の上杉景勝公は、会津に転封になった。

 

  8月18日

秀吉公が亡くなる。これで大陸侵略はパー。

これ以降、家康公の専横が続く。
邪魔者を失脚させたり追い出したりして、権力を独占し、豊臣家と対等に振るまい、秀吉公の遺言を守らず、禁止されていたはずの政略結婚を押し進め、領地の配分も勝手にやったりする。
家康公は、領地が東国で、しかも移封したばかりということで、朝鮮に渡らずにすんだので、体力を温存していた。

 

  8月22日

朝鮮侵略中の日本軍に、帰国命令
これは五奉行が使者を派遣したのだという。

 

  8月25日

この日、家康公と利家公が、徳永寿昌侯らを朝鮮に送って、講和と撤退を命じたともいう。

 

  9月

秀吉公が亡くなったというんで、景勝公は伏見へ出かけたらしい。

 

  10月15日

朝鮮侵略軍に帰国命令を出したのは、この日という説もある。

 

  11月20日

この日までに、日本軍はおおむね朝鮮を去る。
この戦争は結局、陶芸を教えてもらって、唐辛子をもたらしてやった、というくらいしか喜ぶ所がなかった。

朝鮮で死にそうな目にあった武将たちは、やっと帰国してみれば、おかえり御苦労さんとねぎらってもらえるかと思いきや、秀吉公が怒っちゃっていて面会もさせてもらえなかったり、秀吉公が死んじゃってて弁解する相手もいなかったり、蟄居謹慎させられたり、領地を一部没収されたり。

そして、チクった人たちはというと、褒美に領地をもらったりしたのだ。
そもそも成功しなかった侵略戦争だから、褒美に与える土地はない。
命がけで戦った人の土地が削られ、戦いもしないで見てて粗探しして言いつけた人が土地をもらうっていう。

言い付けるのが仕事なのだからしょうがないが、当然、ものすご〜〜〜〜く嫌われる。
背広組と制服組、事務官僚たちと部隊長たちの、対立。
この段階で、関ヶ原の勝敗というのは、かなり始まっているのである。

 

 →つづき 

 

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