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 誰の時から戸田家に採用されたか

古藤田俊直先生は北条家の家臣、しかし北条家は秀吉公に征伐される。
古藤田家は、戸田家に再仕官。
お子さんの俊重先生の時から戸田家に仕えたとか、お孫さんの俊定先生の時からだとかいう。

  父、俊直先生
  子、
俊重先生
  孫、
俊定先生

なにごとも、「いつからか?」は、微妙な難問だろうとは思う。
俸禄もらうのもあれば、客分とか、預かりとか、出入りとか、捨て扶持もある。
スタメンではないが支配下登録として、とりあえず確保しておいて、後日あらためて欠員を見て役付とか、高校の段階から育成費とかなんとか親に金をつかませて懐柔しておく抜穴や、就職の内々定みたいな微妙なのもある。

 

  0、古藤田家は戸田家に仕えた、という程度の説

『本朝武藝小傅』では、『俊直子仁右衛門俊重、其子彌兵衛俊定繼箕裘藝揚家聲、仕濃州大垣城主戸田氏信、』とあり、いつ誰がとは明確でない書き流し。
少なくとも俺のようなシロートには、この文章は、よくわからない。

「俊直の子の俊重、そのまた息子の俊定と、代々、武術を継いで評判が高まっていって、評判が高くなった時に、おめがねにかなって、ついに採用されることとなった」、というふうにも読めないこともない。

「俊直の子の俊重、そのまた息子の俊定と、代々、この武術を継承していた家だった。さて、ところで、ちなみに、その主君はというと大垣藩の戸田侯ですよ」というふうにも読めないこともない。

昔の人は句読点もいいかげんだし、筆で書いているから、筆が含んでいる墨が切れてきたというだけで文章を一息ついてしまったり、漢文のリズム感で書いているから、体言止めして省略気味だったり、とかく主語や日付がどこまでかかってるのか不明瞭なことが多い。

長いもんじゃなし、全文を御覧いただきたい。
国書刊行会『武術双書』名著刊行会1978から引用。

   ○古藤田勘解由左衛門俊直
古藤田勘解由左衛門俊直者相州北條家人而自弱冠好刀槍之術、于時、伊藤一刀齋来相州以刀槍術鳴、俊直師之終得其宗、俊直子仁右衛門俊重、其子彌兵衛俊定繼箕裘藝揚家聲、仕濃州大垣城主戸田氏信、其末流處々有之、

これで全部。最後まで読点で終わっていることに注意。
この文献は10巻からなるが、句点はひとつもないのだ。
しかも、この文章はそもそも俊直先生で立てた項目であり、その記述の中で、ついでに息子と孫にも言及しているのであって、俊直先生の主君が戸田氏信侯だったようにも読めなくもない。

 

  1、俊直先生は戸田家に仕えていたとする説

『剣術系図』では、『古藤田勘解由左衛門尉』のところに『戸田左門氏鉄家来となる。』と注があり、俊直先生の時から、すでに戸田家に仕えていたと断言している。

根拠もなしに印象でものを言うのは歴史を扱う姿勢ではないが、一個人が個人的にやってるホームページですから意見を言わせていただければ、俺は、『剣術系図』はかなり信憑性の高い資料だと思っている。

採用を決めたのが、「息子に家督を譲って隠居している先代藩主の鶴の一声」だとすれば、氏鉄侯に仕えたが大垣藩に仕えてないという状況もあるのかもしれない。

評価されてオファーが来たのは父親でも、老齢を理由に固辞して、代わりに息子を推挙という場合もあるかもしれない。
宗矩先生の時はそうだった。

採用を決めたのが、「先代藩主の遺言」「取り立てるという御墨付き」か何かだったとすれば、早い時期に内定していても、実際に就職する時には、すでに大名も剣士も死んでいて、お互いに2代目の世代になっていたなんてこともあるのかもしれない。
氏鉄侯は、隠居して3年と少々で逝去。

いろいろ言い出すとキリがないが、たとえば、大名の家来にならなくても、大名に剣術を指導することはできる。
儒学者を招聘して、短期間、講義を受けるというのも同様。
それを、「仕えている」という表現をするかどうかは、人によってブレるかもしれない。
専属か、往診か、というのもあるだろうし。

 

  2、俊重先生は戸田家の家臣であるとするが、古藤田家が戸田家に仕え始めたのは俊重先生からだとは言っていない説

『剣術系図』に山田忠史先生が付した註には、俊重先生の解説として『後美濃大垣城主戸田采女正氏信に仕え師範』とある。
ただし、俊定先生の時に初めて戸田氏に仕えたという異説を併記してある。後述。

『歴史読本』十一月号(第三十八巻二十一号)では、『伊藤一刀斎の高足の一人に、小田原北条氏の臣、古藤田勘解由左衛門俊直があり、子の仁右衛門俊重は美濃大垣藩に仕えて百石、その子の弥兵衛俊定は二百石を知行。』と、あっさり断言なさっているが、出典の記載がない。
もしかして、こんなのとっくに判明していることなんだろうか。俺が知らないだけで。

 

  3.1、俊定先生は戸田家の家臣であるとするが、それ以前の古藤田家が戸田家に仕えていたともいなかったとも断定しない説

『唯心一刀流太刀之巻』では、『戸田家に仕、濃州大垣に住す。』という説明文が、俊定先生にかかっているように見える。

『武術系譜略』では、俊直先生に『相州北條家之人』と書き、俊重先生には仕官先の記載がなく、俊定先生にだけ『仕于大垣戸田侯』と書いている。

『日本系譜綜覽』が、「戸田采女正氏信」を俊直先生の弟子としているのは、意味の程度が不明。
戸田家が大垣の担当になった時、息子の氏信侯は35歳前後。

武術の系図を作る時は、「この人の弟子にはこんな有名人もいました! 大山倍達! アントニオ猪木!」ということを、つい書き添えてしまいがちで、それが本当に師系に名をつらねる「継承者」かどうか、注意を要する。
有名人には、いわゆる名誉初段みたいなことがあるので、ある程度は免許皆伝してらっしゃるのかどうか。
他ジャンルの達人の場合、すでに他ジャンルのほうのやり方で高い段階に達してらっしゃるので、こちらの流派の基礎や形式はすっとばして、修了証だけをポーンと出すということが、じつはある。
もうひとつは、いろいろな団体で貪欲に修行なさっている場合、それをその後もお使いになったか(御自分の技術理論に取り入れたかどうか)は話が別であり、皆伝したけど納得いかなかった場合もある。
納得いかないからこそ、また別の流派を習いなおして、そっちがメインになったり。いろんな流派を習って折衷したり。
逆に言えば、系図がスカスカなようでも、無名のお弟子さんもいらっしゃるわけで、皆伝しても道場を構えず指導者にならず、武術の専門家にならなかった人もいらっしゃるはず。

『増補大改訂武芸流派大事典』では、古藤田一刀流の項目に、『俊定は一に勘兵衛、大垣城主戸田家につかえ、二百石。』とある。

『図説日本武道辞典』は、俊直・俊重・俊定各先生それぞれ立項してあり、それぞれ『本朝武藝小傅』を原文で引用しつつ、俊定先生の項目に『美濃国大垣藩戸田氏信に仕え名声あった』と明記している。
『本朝武藝小傅』の記述は、漢文に強い人が読めば、「戸田家に仕えたのは俊定先生から」という解釈になるのかもしれない。
あるいは、笹間先生は『本朝武藝小傅』以外の資料も参考にして書いてらっしゃるのかも。

 

  3.2、俊定先生の時に初めて戸田家に仕えたとする説 

『武芸流派事典』(『増補大改訂武芸流派大事典』の旧版)では、唯心一刀流の項目に、『俊定のとき大垣城主戸田家に召抱えられた(武芸伝系・大垣市史)』とある。
『武芸伝系』、『大垣市史』に、そう書いてあるらしい。

『剣術系図』に山田忠史先生が付した註にも、『俊定に至り始めて戸田氏に仕えたともいう』とある(原文ママ)
そういう異説もある、という程度。
これも『武芸伝系』『大垣市史』を出典とするのだろうと思う。

これが、のちに、『増補大改訂武芸流派大事典』では削除されているところをみると、綿谷・山田両先生は、俊重先生が戸田家に仕えた確証を、あとから発見なさって、この説はお捨てになったのかもしれない。

 

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