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 古藤田家について

  

 一刀斎先生の後継者は、小野忠明先生だけなのか

神子上典膳先生(のちの小野忠明先生)は、里見家の家臣と言われることが多いけれども、正確に言えば、「里見家の家来のひとつ万喜家の、家来」であり、里見家に仕える武将に仕えることによって、里見軍の一員だった。

しかも神子上先生は、のちに里見家を敵に回して戦ってらっしゃる。

万喜家が裏切って北条家についたため、万喜家と里見家は敵になり、合戦になった。
天正17年(1589年)11月、万喜城の戦い。
神子上先生は、これに参戦してらっしゃるから、まだこの時は万喜家の家来なので、もっと後にならないと一刀斎先生と一緒に武者修行の旅に出られない。
このへんの事情は、『考証武芸者列伝』に詳しい。

古藤田俊直先生が一刀斎先生に入門したのは、天正12年(1584年)。

ということは、俊直先生は神子上先生の兄弟子ということになる。

実際は、神子上先生がまだ万喜家の家臣だった頃から、一刀斎先生のほうから神子上先生を訪れて、ちょくちょく稽古をつけてらっしゃったようだけれども。
その程度のことは、一刀斎先生が行く先々で、各地で、いろんな人におやりになっていたかもしれない。

逆に言うと、俊直先生が一刀斎先生に師事した期間は意外に短かったか、神子上先生の入門はかなり遅かったか(遅いほうが一刀斎先生の後継者に選ばれやすいのかもしれない)、あるいは、俊直先生と神子上先生が共に一刀斎先生の弟子だった時期があるのかもしれない。

 

 名前が戸田だったせいか

『剣術系図』は、「戸田清元」先生を『相州小田原北条氏に仕え、武州八王子に住す。』としている。
もちろん、俊直先生も小田原北条氏の家臣。

山田忠史先生が『剣術系図』に付した註にある9人のトダセイゲン先生のひとりは、『戸田清源 名は吉方。通称六郎左衛門。津軽藩に伝わった当田流の遠祖。清源の祖は念流を以て美濃三河に聞こえた戸田采女という。』とのことで、これは一刀流につながるトダセイゲン先生ではなさそうだが、もちろん美濃大垣の戸田家も采女正。

一刀斎先生の流儀を、『唯心一刀流太刀之巻』は外他流、『張藩武術師系録』は新外他流だとしている。

一刀斎先生のお弟子さんらしき人が戸田一刀流、俊直先生のお弟子さんの一部は外他一刀流、新外他流を名乗ってらっしゃる。

これらが、なにもかも無関係だとしても、同じトダのよしみとかなんとか親近感くらいはあるのかもしれない。
自分の師や先祖となにか縁があるとかいうことも、仕官の、機会や動機になることはあるかも。

 

 島原の乱は関係あったのか

島原の乱は、寛永14年(1637年)10月から翌年2月にかけて。

この時、全国から武術家や浪人が自主的に参加しており、幕府側でも採用していたらしい。
俗説だが、宮本武蔵先生も親子で参戦したという。

大坂落城で戦国乱世は実質的に終わっており、プロの武芸者が合戦で活躍する機会は、この島原が最後であり、このあとは、せいぜい由井正雪先生とか荒木又右衛門先生とか大石内蔵助先生とか少人数のみ、大塩平八郎の乱は200年後に300人であり、幕末まではおおよそ泰平の世になる。
武術家のプレゼンの機会ではあっただろうけれども、
古藤田先生が島原の乱の鎮圧に参加なさったかどうかは、わからない。

逆に、島原の乱が戸田家の価値に及ぼした影響という視点もある。
泰平時代の貧乏浪人ならともかく、この頃は、雇われるほうだって、誰でもいいというわけではなく、気に入った主君に仕えたいとは思うはず。
たとえば、幕府要職にあって出世しそうとか、武術に好意的で達人をたくさん召し抱えているとか、思想信条の価値観が近いとか。

島原の乱を片付けに出かけた板倉重昌侯が戦死して、幕府の面目まるつぶれになり、もっと西国大名をまとめられる大物を送り直さねばならないという話になった時、戸田氏鉄侯は副使として選ばれた。

大名のキャラクターは、旧時代の名家とか、将軍家お血筋とか、事務官僚とか、土建屋とか、アナルセックス係とか、かなりいろんなのがあるが、大垣戸田家は徹底的に軍事担当なのである。

戸田家と古藤田家は、島原で接触があったのかもしれないし、なくても、「島原で実績を上げた人」ということであれば、後日、判断材料になったのかも(お互いに)。

 

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