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 なんで、ここに唯心一刀流があったのかがわからない

 周防 下松
 周防 徳山

 

 藩の名前

下松藩徳山藩、周防徳山藩。毛利日向守など。
下松は、くだまつ、と読む。

常陸牛久藩をやってた人は山口周防守なんて御名前なので注意。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

外様、柳間詰、無城、4万5千石。
正徳6年(1716年)4月13日、改易。

亨保4年(1719年)5月28日、3万石で再興。
天保7年(1836年)4月27日から城主格、この時、表高を実高のとおりの4万10石に設定したらしく、『藩史大事典』の年表に『石高四万一〇石となる。』とある。

 

 位置と、土地の性格

現在の山口県の南東部、瀬戸内海側に位置する。
瀬戸内海は内海と言っても全く静かというわけではなく、1日2回、潮の干満のたびに大量に海水が出たり入ったり、流れていて、狭いところは渦を巻いて激流になっていたりするが、下松・徳山は海岸線が奥まっていて、島と半島が天然の防波堤になっている。

周防国都濃郡下松、その他。ただし、のちに萩藩領になる。
現在の山口県下松市。周南市に合併しなかったところ。
日本最高齢の市長が圧倒的支持を集め、商業経済と新興住宅地がうまくいっている。

周防国都濃郡野上あらため徳山、その他。
現在の山口県周南市付近。かつては徳山市だったが、周囲を吸収合併して周南市になった。
飛び地が入り組んでおり、萩藩の中に徳山藩領があり、徳山藩の中に萩藩領があった。
のちに大日本帝国海軍の燃料基地が置かれた。戦艦大和のムダな死に花も、ここから出撃している。現在も出光の石油施設がある。

元和7年(1721年)、就隆侯の希望で、萩藩と領地交換をおこない、周防国熊毛郡島田、周防国都濃郡北部・東部などの山間部を手放して、周防国都濃郡富田・福川、周防国佐波郡富海、長門国阿武郡奈古・大井などの港を手に入れた。
この時、石高は31072石余に減っている。
阿武郡の奈古村・大井村は、日本海側の飛び地。

立藩時は4万5千石だったのが、改易になり、3万石で再興したが、公称の表高というか家の格式が減っただけで、従来の領地はそっくり取り戻している様子。

現在の山口県の、西部が長門国(長州)、東部が周防国(防州)。
徳山は、長門国ではなく周防国。

徳山出身の郭光雄というプロレスラーが、リングネームを公募で決める時、「長州力」と名付けてしまった。
いくらプロレスファンの教養水準が低いからといって、山口県にもプロレスファンは居るのだし、このレスラーは「革命戦士」の異名を取ったほどの大物スター選手しかも大卒であり、誰か一人くらい間違いに気付きそうなものだが、「出身地の徳山にちなんで長州力」という、わけのわからない由来が通用してしまっている。

毛利と言えば長州、山口県は長州という認識が、ごく一般的なのである。
じつは幕末には、長州藩も長州ではなかった。
毛利本家は萩から山口へ藩庁を勝手に移したため、長州を領有する長州藩でさえ、長門ではなく周防が本拠地だったのである。
萩は日本海側の山の中の僻地であり、長州などというすみっこのド田舎に行政府を置きたくないと毛利家自身も思っていたのだが、関ヶ原で敗軍になったため、ここを本拠地にするよう幕府に命じられていたのだった。

 

 藩主と、藩の性格

  多々良大内家、代々

周防と長門は、戦国時代の初期には大内家が持っていた。
というか、ひところは中国地方の西側全部と、北九州まで支配していた。

大内氏は、自称・百済王の末裔だが、そんなウソっぽいことを言わなくても、平安時代から、この地を実力で支配してきた大物であり、鎌倉幕府や室町幕府からも地位を公認されていた。
室町時代初期に少し衰退した時期もあったが、ふたたび勢いを盛り返し、
大内義隆公の頃には、周防・長門・石見・安芸・備前・豊前・筑前の守護を兼ね、日本最大の戦国大名。

対明貿易と石見銀山を独占していて裕福で、朝廷に莫大な金を貢ぎ、太宰大弐(太宰府の長官。少弐氏より偉い。笑)、兵部卿(律令制の国防大臣)など、戦国時代にはとっくに有名無実化していた虚飾の肩書をもらっては喜んでいた。
和歌・連歌・歌謡・管弦・舞楽・蹴鞠・茶道・有識故実・同性愛・仏教・儒教・キリスト教など、片っ端から文化に造詣が深く、厚く庇護した。

もともと大内家は歴代が風流だったが、こういう京好みとか公家趣味とか伝統形式とか形骸化なところが、没落の原因になった。
軍事は守護代にまかせっきりになり、優雅に遊んでる文化人ばかりが優遇されるので、家臣の対立と独立化を招く。
月山城攻略戦で尼子氏に惨敗してからは、ますます軍事を顧みなくなり、文弱に拍車がかかった。

  右田陶家

大内家がおっとりしているところを、親戚で部下の隆房侯(のち晴賢)が下克上。
中津藩のページ。

しかし、すぐ毛利家に滅ぼされる。

  大江毛利家(本家)、3代

自称・大江広元公の末裔、じつは安芸の地頭にすぎなかった毛利元就公は、汚い策略でどんどん勢力を拡大。
有名な厳島戦で陶家を滅ぼして、周防・長門をかっぱらう。
ひところは中国地方ほぼ全部と、九州北部や四国北部まで勢力を伸ばしていた。

息子の隆元公は毒殺説があるが41歳で早死にして、元就公よりも先に亡くなる。
元就公があいかわらず仕切り続けながら、孫の輝元公の面倒を見た。

輝元公は、関ヶ原で西軍の総大将。

元就公が13歳の時、厳島神社に参拝して、同行していた家臣に何を祈願したかたずねたところ、わが主君が安芸国の領主になれますようにと願ったというので、高望みしても少ししか叶わないものである、安芸を手に入れるには中国地方の覇者になるつもりで、中国地方を取るには天下を全部取るくらいの心構えで努力しなければダメだ、というようなことを言ったという(13歳で。さすがだ)。
しかし元就公の遺言は、天下を支配していては長続きしない、日本国の五分の一を担当しているほうが子々孫々まで続く、天下を狙わずに今ある領地を確実に確保し続けろ、だったという。
おごれる者は久しからずで必ず交代してしまうが、歴代のトップの人の下で、中国地方の専門家として重用されていれば、天下人が誰に変わろうが常に中国地方の支配者でいられるということ。

吉川家が、よかれと思って奔走したため、関ヶ原で家康公を倒せたのに手を出さず、改易はまぬがれるという、中途半端な結末になる。
中国地方120万石は没収、吉川家が自分の取り分を毛利家に譲って、毛利家は周防・長門のみ36万9千石になる。

  大江毛利家(就隆系)、3代

毛利輝元公は、関ヶ原のあと、頭を丸めて宗瑞と名乗って隠居、長男の秀就君(まだ幼少)に家督を譲って恭順した、というか、させられた。

元和3年(1617年)、宗瑞公の次男の就隆君が、周防国都濃郡・佐渡郡・熊毛郡、長門国阿武郡に、計31473石をもらって分家。
こういう時、歴史の本には、「兄が弟に分けた」とか「父が次男に分けた」とか、たいして考えもなくいいかげんに書かれてしまうのだが、この時は正確に言えば宗瑞侯と秀就侯の連名で分与をおこなっているという。

元和7年(1721年)の領地交換(前述)により、31072石余に減る。

寛永2年(1625年)、検地したら40010石だった。

寛永8年(1631年)、都農郡下松の河内村(西豊井法蓮寺)に屋敷を新築。

寛永11年(1634年)3月19日、幕府の許可も得られ、支藩として独立。大名になる。
下松藩がスタート。
この時、表高は4万5千石と設定。
身分は城主格で、と申請したが、これは却下された。

寛永15年(1638年)6月15日、就隆侯が初めて下松の屋敷に入る(元和8年(1622年)から江戸在住だった)。

下松は領地の東にかたよった所にあり、統治に不便だとか、交通に不便だとかで。
正保2年(1645年)、都農郡野上村への藩庁移転を幕府に申請。
慶安元年(1648年)6月、移転が認可される。
慶安2年(1649年)、野上に新屋敷が完成。
慶安3年(1650年)6月、移転。9月に野上を徳山と地名変更。9月28日から
徳山藩になる。

以来、一貫して毛利家。9代続いて明治に至るが、途中で一度中断がある。

跡継ぎが死んだとか産まれないとか若すぎるとかバカとかいう場合の用心に、親戚でバックアップする御三家御三卿のようなことは、「毛利三矢の教え」が有名だけれども、嚆矢というわけではない。

元就公が、臨終の床に、隆元・元春・隆景の3兄弟を呼び寄せ、遺言した?とかなんとか。

隆元侯はとっくに亡くなっており、元春侯は出陣していて留守だったから、元就公の臨終の枕元に3兄弟が揃うわけがない、…ということを理由に、「三本の矢は作り話」と主張する人がいるが、問題はそこではない。
早くから遺言していたかもしれないし、仲良くなんてことは、それこそ子どものうちから諭したかもしれないじゃないか。
『三子教訓状』というのがあり、隆元侯に家督を譲る前年に、元就公は兄弟団結をすでに訓示していた。
ほかにも、矢3本をいっぺんに折れない程度の腕力ではたいした男じゃねえなとか、元就公には男子が10人いたのだからほかの子にも謀反を起こさないよう教育しとけとか、いろんな話もあるが…。

サンフレッチェ方式が嘘くさいのは、盗作疑惑があるから。
夫の死後に出産した未亡人が、自分の子どもたちから貞節を疑われたため、矢を折らせ、1本は折れるが束ねると折れない、と兄弟の団結を諭す話がモンゴル神話にあった。
それをパクって、矢は1本では折れるが5本なら折れないという話が、チンギスハンの伝記『元朝秘史』にも出てくるという。
孫子や六韜だって、とっくに日本に伝わっていたのだし、元冦や対明貿易を通じて文化が入らないわけはあるまい。

小早川家と吉川家はあんなことになったので、今度は、萩藩の支藩として、徳山藩長府藩、長府藩のそのまた支藩の清末藩というのを置いていた。
岩国藩も一応あったけれども(慶應元年に毛利一族が集まって今後の対策を協議した時は、岩国藩主も出席している)。

  (萩藩領、大江毛利家(本家))

徳山藩は、本家と対立して改易になり、3年間ほど存在していなかった時期がある。
万役山事件。

正徳5年(1715年)6月6日、萩藩の農民が、野良仕事の帰り、田んぼの畔の補修材にしようと、かつて植えておいた松の木(の、枝だという)を伐ったところ、徳山藩の木を盗んだと咎められ、徳山藩の山回役の足軽に斬り捨てられた(木ではなく農民が)。

自領内であるとして、徳山藩は謝罪拒否。

もともと徳山藩は、萩藩・長府藩を嫌っていた。
慶安2年、萩藩が江戸城お手伝い普請をやる時、徳山藩に協力を要請したが、徳山藩は財政難を理由に断っている。
就隆侯の正室は、長府藩の秀元侯の長女だったが、離婚した。
元次侯が徳山藩主になる時、長府藩から物言いがついた。元次侯は名君ではあったが、妾の子であり、家臣の永井家の子として育てられたため。
萩藩では、子がないまま吉就侯が亡くなり、異母弟の吉広侯を藩主に据えたが、これまた子がないまま若死にし、支藩から養子を入れることになったが、最も血筋の近い徳山藩の元次侯を無視して、血筋の遠い長府藩の吉元侯が選ばれた。

徳山藩では、家老の奈古屋里人殿が、藩主元次侯に諌言するも、気性の荒い藩主だったので、勘気を蒙って家禄没収、家名断絶、追放になる。

清末藩が調停を試みたが失敗。
萩藩は、徳山藩主の変更を幕府に願い出る。
本家に対し無礼で生意気との理由で、正徳6年(1716年)4月13日、幕府は徳山藩を取り潰してしまう。
元次侯は出羽新庄藩(戸沢家)へお預け、徳山藩士は萩藩にお預け、徳山藩領は萩藩領に戻った。

目上を敬えということを強く言うのは、同じ理屈で萩藩も幕府を敬わなきゃいけませんねっ、ということなんだろうけれども。
萩藩は、べつに領地が欲しくてゴネたわけでもなし、せっかく支藩を作っておいたものを、まさか改易までは求めてなかった。

浪人になった奈古屋里人殿は、京都で御家再興活動に奔走し、幕府に嘆願。

正徳6年というのは、4月30日に将軍家継公が亡くなり、6月22日から亨保元年になる。
恩赦特赦みたいなことがあってもよさそうなくらい。
しかも、亨保といったら、暴れん坊将軍だの大岡裁きだのの時代だから、幕府は話がわかる。

というより、話がわからないような奴は、マツケンに「成敗!」されている。
これは冗談ではなく、亨保の改革というのはそういうことなので。
吉宗公の将軍就任までに、あんなに都合よく、邪魔になる人たちが次々に死んだことが、なにもかも偶然だとは思えないし(全部が暗殺だとも思えないが)、吉宗公が御庭番を創設して情報収集にはげんだのは史実であり、悪気がないなら幕府はちゃんとわかる。
吉宗公は幕府の再建に手一杯であり、諸大名には規制緩和で懐柔する方向なのである。

  大江毛利家(就隆系)、2回目、6代

亨保4年(1719年)5月28日、徳山藩は復活。
元次侯の次男の
元堯君が、3万石ではあるが、徳山藩を続けることを認められた。
奈古屋里人殿は、元堯侯から感状と金1000疋を贈られたが、徳山藩に再就職しなかったという。

のちに毛利本家が絶えた時には、徳山藩毛利家から養子に行って、本家を継いだこともあった。
徳山藩8代目藩主の広鎮侯の十男、広封君が、毛利本家を継いだ。のちの毛利元徳公爵。

長州勢の倒幕運動は御存知のとおりで、関ヶ原以来の恨みを完璧に晴らし、陸軍将官や総理大臣など大量の国家指導者を輩出し続けて、現在に至るまで日本を支配し続けることになる。
徳山藩も、幕末には本藩と行動を共にした。

明治2年(1869年)6月25日、版籍奉還。

明治4年(1871年)6月19日、徳山藩は消滅。
廃藩置県を待たずに山口藩へ吸収された。のちの山口県。

徳山藩の藩庁跡地は現在、山口県唯一の動物園、周南市徳山動物園になっている。
頭をかかえて困ったようなしぐさをするマレーグマ「ツヨシ」が有名。
レッサーパンダも飼育しちゃってるらしいが。

 

 江戸屋敷(寛政年間)

  上屋敷
赤坂今井谷。現在の赤坂八丁目。乃木神社と赤坂小学校の中間あたり。
北は有馬遠江守邸(越前丸岡藩)。東は道を挟んでこまかい武家地。南は町屋。西は吉川監物邸(周防岩国領抱屋敷)。

  下屋敷
二本榎。現在の港区高輪。

 

 藩校

勉強熱心だった元次侯の時、「棲息堂」という学問所があったが、藩校ではなかったらしい。

まず、「文武稽古場」というものがあった。

天明5年(1785年)2月24日、文武稽古場を勢屯丁東詰角北向屋敷に移転、というより新築。
長沼文治郎(号、釆石)という学者が、藩主にかけあって実現させた。
ということは、従来の文武稽古場というのが、あんまりたいしたことなかったか、すたれていたか、とにかく満足できないものだったということらしい。
5月9日、亀井南冥先生が、「
鳴鳳館」と命名。

校名の由来は、『詩経』の『鳳凰は鳴けり、彼の高き岡に梧桐は生ず』、周王朝があんまり名君で善政すぎて鳳凰が出現しちゃったという故事。
龍は廬山かもしれないが、鳳凰は岐山と昔から決まっており、周防を周王朝に、徳山を岐山に見立てたものらしい。
つまり、岐阜と同じ意味を持たせた命名だが、毛利家の場合、ダメな幕府が天の意志で滅びて新しい時代が始まっちゃうという意味を軽くかけてあるのかも。

文政6年(1823年)12月10日、「医学館」を併設。

天保2年(1831年)、一説には天保元年(1830年)、桜馬場丁自西三番南向屋敷に移転。

嘉永5年(1852年)12月1日、「興譲館」と改称。
武士はノーガキを飾らず実用実践実技をやるもので、また、家康公や吉宗公が質実剛健の方向だったから、理屈っぽくて抽象的なことをこねくり回す朱子学なんてものは衰退し、武士道と武術はおおむね山鹿先生とか荻生先生の方向へ行っていた。
ところが、幕府は寛政の改革を始め、倒幕の人たちは尊皇攘夷の理屈から、このころ猫も杓子も朱子学が流行っており、いかにも朱子学っぽい言葉が好まれていた。明徳とか、格致とか。

鳴鳳館と名付けた亀井先生は、朱子学なんて机上の空論だ!という荻生先生の系統だった。
釆石先生も、古学をやめて朱子学に転向していた。
徳山藩としては、朱子学の原典『大学』の中からとった言葉「一国興譲」を採用して、校名を朱子学っぽく替えたわけで。
同名の藩校は米沢や小城などにもあった。

明治4年(1871年)5月、廃藩により廃校。

最後の校長は浅見修次正沢という人物で、正欽先生の弟さんらしい。
この人も唯心一刀流をお使いだったのではないかと思うが未確認。

9月12日、徳山部小学が設立。
現在は周南市立徳山小学校になっている。
同校の公式サイトには沿革のコンテンツがなく、学校通信の題名が(ひらがなで)「めいほう」であること以外に関連が見当たらず。

そのほか、徳山藩には、戸田村に「容衆堂」、久米村に「奨学舎」、徳山村に「倹養堂」、「太古堂」という私塾があった。

 

 唯心一刀流継承者

浅見栄三郎正欽先生。浅見安之丞正虔先生。
その親族一同も、唯心一刀流をお使いだったと思うが。

正欽先生は、藩校では剣術のほか、学問も指導なさった。
『藩史大事典』では、ただ単に「一刀流」という表記で掲載されている。

その長男が正虔先生で、唯心一刀流もお使いになったが、どちらかといえば大島流槍術に優れてらっしゃることで有名だったという。
徳山藩の大島流は、長浜郷張先生、松田左司馬先生、信田作太夫先生などがいらした。
正虔先生は尊皇攘夷の急進派だったらしく、禁門の変のあと、粛正されている。

『日本武術人名事典』に、
浅見安之丞正虔(剣、槍) 徳山藩士。一刀流剣術・大島流槍術に達した。維新の際、藩内の勤王・佐幕両派のあつれきに捲きこまれ、反対派の毒手にたおれた。(山田次郎吉氏)』
…とある。

長州藩は、開明的なくせにアメリカ商船に向けて発砲したり、勤王のくせに皇居に向けて発砲したり、京都の街を火の海にしたり幕府軍に負けたりして、恨みと顰蹙を買いすぎてしまい、しばらくは、おとなしくすることになった。
徳山藩でも恭順派が台頭して、藩校の学頭の本城素堂をはじめ過激分子の処刑がおこなわれ、正虔先生も、この時に亡くなったらしい。

浅見家の、唯心一刀流の伝系は不明。

関係あるのかどうか、『撃劒叢談』巻之三に、こんなことも書いてある(徳、近など一部の文字は旧字)。
『一、今江戸三番町幕下の士榊原男依と云人古流の一刀流を傅ふ、尤上手也と云、其外中西忠藏、都筑彦三などいふ者、江戸にて此流の師也、又周防の徳山に近藤左傅と云者一刀流を傅ふ、』
『撃劒叢談』は天保14年(1843年)の発行、じつは寛政2年(1790年)に書かれたので、最近こんな人の噂を耳にする、と、この本に書かれているなら、この時代に御活躍だったことになる。

萩藩はおおむね新蔭柳生当流と片山流であり(明倫館の剣道場4棟のうち3棟が新陰、1棟が片山)、どうして徳山に一刀流の古風なところが入ったのやら。
『江戸三◯◯藩武芸流派総覧』では、萩藩の剣術として、新陰流、片山流、無念流、一刀流をあげている。萩藩にも何らかの一刀流はあっただろうが、唯心一刀流もあったのかどうか。

支藩は本藩の手法を踏襲するけれども、この藩はことさら本家と違うことをやろうとする性格があったのかも。
『(略) 就隆の自己主張の強い、どちらかといえば自由奔放な性格からの処世が後年徳山藩改易の遠因にもなったといわれている。』(『三百藩藩主人名事典』)

下松藩の設立時には、浪人も新規採用したらしい。
『家臣団も、桂美作・神村豊後の付家老をはじめ萩藩よりの家臣、萩藩の次、三男よりの取り立て、関ヶ原戦後の牢人などが組み入れられた。』(『藩史大事典』)

 

 他の剣術の主なところ

  神道無念流
御存知のとおり。
『藩史大事典』では「無念流」としているが、徳山藩に限らず、たとえば明治時代に書かれた資料などには、単に「無念流」と表記しているのをよく見かける。

  無方流
槍の流派だが、剣術も含む内容だった。

なお、徳山藩では居合の公式採用はなかった様子。
この付近に伯耆流が一人もいないわけはないと思うが。

 

 現在の状況

不明。
浅見正欽先生は維新後も御自宅で唯心一刀流を指導なさって、明治15年85歳まで長生きなさったという。
じっくり調べれば、なんらかの記録が必ず残っているはず。

昭和後期の俺でさえ、明治生まれの先生方に稽古をつけて頂く機会はたくさんあった。
剣道というのは江戸時代から現代へ連続性があるもので、普及率も高いから、徳山で剣道を本格的にやってらっしゃる方の中には、たとえ現代剣道だったとしても、浅見先生の教えを継いだ方が今でも必ずいらっしゃると思う。

しかし距離的に、都内の人間には手が届きにくい。
丸投げですみませんが、西日本在住の方の御研究に期待します。

 

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