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 景正先生が「随身」した牧野家の行方、その4.2

 丹後 田辺

 

 藩の名前

田辺藩、丹後田辺藩、牧野豊前守、牧野讃岐守など。

紀伊の田辺藩とまぎらわしいとの理由で、明治2年(1869年)6月、版籍奉還を機に、舞鶴藩(まいづるはん)と改称。
もともと丹後田辺城は、詩的な美称として舞鶴城(ぶかくじょう)とも呼ばれていたからだという。

しかし舞鶴城という別名を持つ城は、全国各地にたくさんある。
舞鶴という地名も、大分県大分市舞鶴町、福岡県福岡市中央区舞鶴などがある。

 

 親疎、伺候席、城陣、石高

京極家(高三侯以降)は、外様、柳間詰、城主。
3万5千石、寛文3年(1663年)3月25日から3万3千石?

牧野家は、譜代、雁間詰、城主。3万5千石。

 

 位置と、土地の性格

丹後国加佐郡。高三侯のときは121ヶ村。

かつての西舞鶴市だった所。現在の京都府舞鶴市

京都府の北部に位置する。
京都府というのは平安京だけではないので、北は日本海にも面しているし、南は三重県にまで接しているのだが、意外に知られていない。
本州の日本海側は、海運によって連続性があったから、山陰、北陸、東北などは京文化の影響が少なくなかった。

西舞鶴市は、東舞鶴市と合併した。
西舞鶴市を「旧舞鶴」、東舞鶴市を「新舞鶴」といい、合併して出来上がったものも、いわば「新しい舞鶴」だから、ややこしい。
西舞鶴市は古くからの城下町、東舞鶴市は帝国海軍の軍港(現在も横須賀・佐世保・呉と並んで海自の四大拠点)、栄えた理由も性質も全然違い、仲が悪く、住民投票で東西分離が採択されたが、府に却下された。

田辺は、若狭湾の奥の、さらに奥。
リアス式の陥没で入り組んだ所であり、どう見ても良港である。
現在は北朝鮮の船が多く出入りしているという。

京都府の南部に京田辺市、和歌山県の南部に田辺市があるが、それとは違うので注意。

丹後国の中心地は、諸説あるがおそらく宮津であり、藤孝侯も最初は宮津城にいた。
宮津は、天橋立のそば。

 

 藩主と、藩の性格

  足利一色家

室町時代には、足利一族のひとつ一色氏が、丹後の守護大名をやっていた。
非常に面白い武術を使う家だったのだが、政治家とか君主としては、あんまり成功しなかった。
たいして支配力も無かったらしく、地元の豪族たちが好きにしていた。

  和泉上守護家細川家

細川家も足利家の支流。
ここの御子孫が、9か月弱、内閣総理大臣をやったのは御存知のとおり。

信長公の頃から、細川藤孝侯が勢力を拡大、天正6年(1579年)には一色家を攻めて、天正8年(1580年)8月、丹後の南半分をかっぱらう。
この時は、宮津の八幡山に宮津城を築いて、本拠とした。

藤孝侯は、文化人とか風流大名として有名だが、文弱どころか、なみなみならぬ武闘派。
実力で一色家をやっつけたのだし、そもそも足利将軍家を見捨てて信長公に仕えており、大内家のような古典趣味とはだいぶ違う。
後述するが30倍の兵力を相手にして互角にやりあっている。
細川家方式の武具は使いやすいものが多い。
指揮官としても優秀だが、藤孝侯自身も各種武芸に精通しており、あの卜伝先生の直弟子である。

この人は、明智光秀侯の与力大名であり、光秀侯のおかげで信長公に仕えたようなもので、息子の嫁は光秀侯の娘でもあったのだが、天正10年(1582年)の本能寺の変に加担せず、幽斎玄旨と名乗って剃髪・隠居してしまった。
つまり、光秀侯の謀反に加担しませんと世間に意思表示したうえに、光秀侯に対しても謝りつつ、光秀侯を攻撃せず、自分の家も守り、なにもかも(頭も)丸くおさめた形。

家督を譲られた長男の忠興侯は、宮津城で一色義定侯をだまし討ちにして、とうとう丹後一国を手に入れる。
この人も教養人かつ武闘派で、三成侯暗殺未遂事件の七武将のひとり。
忠興侯の息子の忠隆君は、前田利家公の娘を嫁にしていたので、前田家の失脚の時には、細川家も嫌疑をかけられて、忠興侯の三男の忠利君を江戸へ人質に出したりした。

幽斎侯の隠居所として田辺城を築く。

『藩史大事典』では、『天正八年(一五八〇)八月に細川藤孝・忠興父子が丹後国を給され、宮津の八幡山に本城を築いたが、同時に田辺にも藤孝の隠居所として築城した。築城は天正十一年に着手、十二・三年頃完成、これが田辺城(舞鶴城)の創始である。』としている。

『日本の城ハンドブック』では、天正8年(1580年)8月に田辺城完成としている。

城マニアの間では、細川家が天正8年に丹後に入った瞬間に田辺城がいきなりポーンと出現したとか、それより前に(天正7年に?)築城してあったとか、いろいろ珍説があるらしい。

「じつは宮津城のほうが隠居所だったんです! 田辺城のほうが実戦的な城で、交通も経済も田辺のほうが中心地だったんです」という意見も見かける。
たしかに、幽斎侯は、ちっとも隠居ではなさそう。
北条家も斎藤家もそうだったが、辞任しますというのは、あくまでも形を示すだけで、実際には、その後も会長だか相談役だか特別顧問だかにおさまって、なんだかんだ影響力を持ち続けるのである。
相続直後は内乱も起きやすいし、そこを外部から攻められたりもするが、自分がすでにこの世にいなかったら崩壊を防げないので、40代くらいでも引退してしまい、あとは後継者の体制を固めつつ余生を送り、実務に忙殺されないからかえって権力が使いやすい、つまり、院政と同じやり方。

そして関ヶ原の戦い。
細川家は東軍についた。息子のほう、忠興侯は、5000人ほど率いて会津攻めに出かける。

親のほう幽斎侯は御隠居なので、田辺城で留守番。
このとき、峰山城・久美浜城・宮津城を、敵に使われないよう焼却処分したらしい。

東軍は近畿を留守にしてるわけだから、田辺城は西軍に取り囲まれて、どうにもならなくなる。
手勢は500人弱(子ども、僧侶、農民、町人など、避難した非戦闘員も含む数字。戦闘員は、年寄りや女武者など、役に立ちそうもない連中ばかり)。

ところが田辺城は、川が合流して湾にそそぐ沼沢低湿地で、三重の濠で迂回させてあり、身動きが取れない敵を好き放題に狙撃できるという、堅い城だった。
さらに、20人だか50人だか少人数ではあるが強剛の、三刀谷孝和侯が、旧領回復よりも友情を選び、あんまり信用ならない毛利家を見限って、細川家に殉じようと馳せ参じてくれた。

あらゆる文化に造詣の深い幽斎侯を戦死させるのは惜しい、特に歌道の奥義をマスターしていたので、殺せば伝承が絶えてしまって、国家とか民族レベルでの損失だというんで、攻めるほうも消極的。
藤掛永勝侯、小出吉政侯などは、歌道で幽斎侯の弟子にあたるので、空砲を撃って攻撃しているフリをしていただけ(それは田辺城側でも気付いていて、幽斎侯の奥様マリア麝香さんが旗指物を確認して全部メモしておいたので、戦後の賞罰ではちゃんと差し引かれた)。
幽斎侯は、歌道の蔵書が灰になるのがもったいないというんで、使者に持たせて各方面に譲り、そこに辞世の句まで添えたもんだから、弟子の八条宮智仁親王がビックリして、さかんに助命を運動する。
このお方は皇族であらせられるばかりでなく、一時期、秀吉公の猶子(なんちゃって息子)だったことがあり、豊臣大名から一目置かれる人。
しかし幽斎侯も合戦が下手ではないし、調停を聞き入れない。

てなことやっていて、2か月籠城してても一向に落ちない!
結局は智仁親王が、兄の後陽成天皇に勅命の使者を出してもらい、戦いをやめなさいという天皇の命令によって幽斎侯は降伏した。

近所のザコ500人を始末するのに2か月もかかるとは誰ひとり思ってなかったので(小野木公郷侯は『三日とあれば』と小バカにしていたという)、田辺城を攻めていた連中は、関ヶ原の本戦に参加しそびれた。
家康公にしてみれば、関ヶ原にいるはずの敵15000人を田辺に釘付けにしといてくれれば大手柄、しかも主戦力を主戦場に出した残りカスの500人で済ませたなんて安上がりは、そりゃあもう大手柄。
500人だなんて、三成侯がガラシャさんをムリヤリ人質に拉致しようとした時の捕り方と同じ人数なのである!

主戦力のほう、息子の忠興侯も、関ヶ原では最前線を担当し、石田軍本隊を相手に奮戦した。
戦後、細川家は
豊前中津30万石に栄転になる。

  近江佐々木京極家(高知系)

信濃飯田から京極高知侯が入封、丹後一国12万3200石を与えられ、名前も丹後守になる。
入封した時期は、『藩史大事典』『日本歴史人名辭典』では慶長5年(1600年)11月、『藩と城下町の事典』では慶長6年(1601年)。

京極家は宇多源氏の名家のひとつで、本流は六角氏、支流には尼子氏がある。
近江は、南側を六角氏が、北側を京極家が領地にしていた。
戦国時代には、浅井家に下克上されて、京極家はひとまず落ちぶれていた。

その後、勢いを盛り返して近世大名としての京極家になるのだが、兄弟2系統ある。

兄のほう、高次侯は、本能寺の時に光秀侯についたが、豊臣政権下でも優遇されていた。
高次侯には竜子という姉がいて、大変に美人で、秀吉公が妾にしていた。
さらに、高次侯の正室は、あの淀殿の妹。
高次侯は、いわゆる蛍侍、蛍大名(女の尻で光る七光の意)として出世。

関ヶ原の時、高次侯は西軍についたが東軍に内通しており、いきなり大津城に籠城。
たった3千人ほどの勢力で、西軍1万5千(一説には1万とも4万とも)を引き付け、これまた細川幽斎侯同様、主戦場の関ヶ原から西軍をゴッソリ削る役目を果たした。
特に、西軍最強の立花宗茂公を関ヶ原から引き離したというのは、家康公からものすごく感謝された。
大津城を攻めていた連中は九州の精鋭が多くて地縁関係が深く、こんなのが関ヶ原にいたら、筑前名島を本拠とする小早川秀秋公は裏切らなかったんじゃないかということを小和田哲男教授などがおっしゃっているが、本来なら小早川家を継いでいたはずの血筋の(小早川秀秋公にとって先輩格とも言うべき、しかも、これまた強剛の)毛利秀包侯を関ヶ原に行かせなかったことはかなり大きい。
さらに、高次侯の長男の忠高侯は、正室が秀忠公の娘。

京極家の弟のほうは、高知侯。
兄の部下というか与力だが、本能寺では秀吉公に、関ヶ原では家康公に、最初から味方していて、これはこれで活躍し、ひとつの大名だった。
関ヶ原では大谷吉隆侯の隊と激戦をやった。

幽斎侯が宮津城を自焼してしまったので、高知侯はひとまず田辺城に入り、宮津城を建て直して居城にした。

  近江佐々木京極家(高三系)、3代

元和8年(1622年)、高知侯の遺領は、息子3人で分割相続する。
このことは幕府の命令だとか、高知侯の遺言だとかいう。
 次男で嫡男の高広侯が、宮津7万8200石。
のちに悪政と親子喧嘩で改易。
 三男の
高三侯が、田辺3万5000石。
 甥(朽木家の次男)で養子の高通侯が、峰山1万石。
ほかに、もともと持ってた自分の分の3000石がある。秀忠公の小姓をしていて与えられた3000石。

高知侯は娘が11人くらいいて、そのひとりは、なんと八条宮智仁親王妃になっている。

これで、田辺藩がスタート。
宮津城を建て直したことによって、今度は田辺城を廃棄してしまっていたが、田辺城を再建して居城とした。

高三侯の長男の高直君が継ぐ。
このころから宮津藩とは仲が悪くて、境界争いをやっていた(牧野家になってからも境界争いが発生している)。

寛文3年(1663年)3月25日、また世代交代して、長男の高盛君が継ぎ、このとき三男の高門君に2千石?を分けた。
『藩史大事典』では、石高が三五〇〇〇から三三〇〇〇になっている。
『藩と城下町の事典』では、『弟高門に一千石を分与したが』となっている。

寛文8年(1668年)5月21日、高盛侯は但馬豊岡へ転封。

  山城守牧野家、9代

関宿藩をやっていた牧野親成侯は、京都所司代なものだから、関宿を手放して、河内・摂津国内に領地を替えていたが、寛文8年(1668年)5月16日、京都所司代をやめて、23日、田辺へ移封になる。

以後、丹後田辺は牧野家で明治に至る。

2代目は、弟の牧野富成侯が継いだが、この人の正室は京極高三侯の娘。
しかし実子がなく、甥を養子にした(英成侯)。

9代目の誠成侯は、領地を軍事的に固めるため、また病気がちだったこともあり、田辺にいることが多かったらしい。
そして大政奉還、江戸幕府が終わる。

  (明治政府下の藩主・知藩事、山城守牧野家)

誠成侯の時、すでに無血開城で降伏し、官軍側についていたらしい。

『征長戦の時にも、日本海に長州軍が上陸することから守るほうが大事ということで派兵を回避した。大政奉還後も藩主牧野誠成が江戸にあるまま恭順を決め、京都を海からの襲撃から守る必要があるとして出兵はしなかった。』(『江戸三〇〇藩最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)

誠成侯が亡くなったのが、明治2年(1869年)3月5日。
そのあと、しばらく、藩主は空席?

次の当主は弼成侯だが、藩主になったのは、明治2年6月だという(『藩史大事典』)。
そして、丹後田辺藩の版籍奉還は、明治2年(1869年)6月20日なのである。

弼成侯は、いきなり最初から「知藩事」だったのかもしれない。
江戸幕府のもとでも明治政府のもとでも「藩主」になったことがなかった、あるいは、藩主だったとしても1か月未満だったということになる。

 

 江戸屋敷(牧野家、文化年間)

  上屋敷
江戸橋向 大手ヨリ十五丁。
江戸橋は内も外も町屋だと思うが…。

『東京時代MAP』によると、現在の小学館の位置に「牧野讃岐守」とある。
北は北村丹昌院、神保伯耆守、塙某邸。東は道を挟んで、榊原式部大輔邸(越後高田藩上屋敷)。南は道を挟んで地誌調所開成所。西は松平豊前守邸(丹波亀山藩上屋敷)。

  中屋敷
はま丁。

  下屋敷
本所猿江(『藩史大事典』)。深川猿江のことらしい。菊川橋の南東付近。
北は道と濠を挟んで京極丹後守邸(旗本か。その東は峰山藩)と高林某邸。東は森川出羽守邸(下総生実藩)。南は堀内某邸。西は大横川。

 

 藩校

亨保年間に、すでに何らかの学問所があったらしい。
田辺藩牧野家3代目の牧野英成侯が、河村久八、杉本剛齋という人にやらせたとか。
当時の英成侯は寺社奉行や京都所司代をやっていて、ほとんど田辺にいなかったようだが。

天明8年(1788年)?、藩校「明倫斎」を設置。
正確な設立時期は、よくわからない。
『藩史大事典』では、明倫斎の『成立年月』を『天明年間』としか書いてない。

文久2年(1862年)?、改築、「明倫館」と改称。

尾張や小諸と同様、孟子に由来する校名。当然、朱子学寄り。
家老の野田笛浦殿が儒学者でもあった。

もともと漢学が中心だったものが、のちに洋学・医学・算術・習字も取り入れたらしい。
文武兼修だったというが、武術の科目は不明。

廃校の時期も不明。
とにかく明治4年(1871年)7月14日、廃藩して、舞鶴藩(田辺藩)は、舞鶴県になる。

明倫館の正門は、舞鶴市立明倫小学校に移築され、今も正門として、入学式・卒業式・開校記念日には使われるという。
公式ホームページによれば、明倫館の土地建物・校名・扁額・理念などをしっかり引き継いでおられて、明倫小学校は明倫館の正統な後身に当たるようだが、歴史を古く見せかける小細工をなさっておらず、開校は明治6年4月13日としてらっしゃる。

 

 唯心一刀流継承者

いたという話は全く聞かない。
この牧野家は、笠間藩と関係ない牧野家であり、唯心一刀流のことは期待できそうもない。

 

 他の剣術の主なところ

どんな剣術をやっていたのか、さっぱり不明
なお、となりの宮津藩は成孝流。峰山藩は不明。

 

 現在の状況

不明。

 

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